第28章 これまでだってそれは、ずっと君の中にあったんだよ。

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せめて会話の内容は聞かれてないといいけど。てか、さっきの台詞の切れ端でも正直この人の耳にはあんまり入れたくはないな。 雅文くんは雅文くん、彼は彼。わたしの中ではきちんと切り替えて接したい。 だいいち、ここなら聞かれててもまだまし、っていう部分も。慌てて思い返しても実際ひとつも見当たらないし…。 「…思うんだけど」 並んでスタジオの方へと歩きながら脳内ではあれこれ思索を巡らせていたので、堂前くんの声がいきなり耳に届いて怪しいくらいどぎまぎと反応してしまった。 「は?…え、何が?」 結んだ髪がぶん、と振り回される勢いで傍らの彼の方に向き直ったわたしはいかにも挙動不審だったけど、彼は全く動じず前を向いたまま訥々と先を続けた。 「こういう時こそ。君の内側から出てくる音に耳を傾けたら?っていうか、音楽って。そもそもそのためのものでしょう」 「その。…ため、って?」 なんの話をしてるんだ。前提もなく唐突に自明のことみたいな顔で本題に突入するのはやめてくれ。全然頭に入らない。 ていうか。…こういう時、って。どんなとき? 彼はあっさりと何でもないことみたいに口にした。 「うまく言葉にならない思いで胸が一杯なとき。表現しきれない、形にならない感情をその瞬間描きとめるみたいに旋律でスケッチしておけばいい。人前に出せるようにリファインするのはあとでゆっくり落ち着いてからでも間に合うし」 彼は一旦言葉を止め、それから自然な流れのまま平静に次の台詞を口にした。 「会いたい、顔が見たくてたまらない。そういったままならないもどかしい気持ちが。多分きっと、音楽のもとになるんじゃないかな」 「うん…」 わたしは彼に手渡された水のボトルに目線を落とし、ぎゅっと両手で冷んやりしたそれを握りしめた。…見透かされてる。 わたしが今、恋をしてること。その相手のことでいつも心も身体もいっぱいなこと。…いつの間にかこの人は、もうとっくに承知済みだったんだな。 なんか、知られちゃいけないような気になって。堂前くんと雅文くんをわざわざ頭の中で切り離そうと頑張ってた自分が馬鹿みたい。 ほんとにこの人には敵わない。 「音楽のもと。…そうかぁ」 ため息のように呟きが唇から漏れた。 「そうかもしれない。…わたしの中にもあるのかな。今まで気がつかなかった、源泉みたいなもの」 足取りを緩めず、でも珍しくどこかゆったりしたように聞こえる堂前くんの声が静かにわたしの心に響く。 「それは、あるよ。もちろん。…板谷の心も身体も音楽に満ちてる。そうじゃなきゃあんな歌は歌えない」 彼の視線が一瞬だけ、わたしの横顔に当てられたのが伝わってきた。 「だから、外から揺り動かされてやっと、源泉が噴き出してきて奥深くにある水脈の場所がわかったみたいな状態だと思う。これまでだってそれは、ずっと君の中にあったんだよ」 「…うん」 そうなのかも、しれない。あるいはそういうわけでもないのかも。 でも、これまでは事実わたしの中がかっさかさに乾いてて、水脈なんてもともとなかったとしても。今はわたしの内側のそこここに隙間ができて、そこから水分のようなものが噴き出しているのは本当のような気がする。 それがもしかしたらメロディの断片になるのかな。 気がつくと眉根を寄せて、真剣に内側から何か音が湧き上がってくるのを探していた。確かに、今なら何かを自分の中から拾えそう。 スタジオに戻って他の音楽が外からどっと流入してきて押し流されてしまう前に。わたしは今のこの感じを何とか残そうと、スマホをもう一度取り出してずっと放置気味だったあのアプリのアイコンをタップしていた。 《第15話に続く》
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