煙草を吸いたい。

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煙草を吸いたい。

 煙草を吸いたい。煙草を吸いながら、そう思った。  家にいながら家に帰りたいって思うのと一緒だ。朝起きて、そう、月曜日の朝みたいな気持ち。まだ家の布団の中で、夏場はカメムシがよく引っついている白い天井を見上げながら、そう思う。少し先の労働に鬱になって、まだ始まってもいない段階で、諦める。そんな感じ。訳分かんねえな。煙草、吸うか。  世の中パンデミックで大混乱。そんな時分、月曜の朝なんて憂鬱の煮凝りみたいなのが消えて、多分脳がバグってんのな。一呼吸ずつ地道にニコチンを食うのが、退屈なんだ。ハンバーガーみたいにかぶりつければ良いのに。  吸って、吐いた可視化された白いため息が、ベランダの錆びた空気に混じって消えていく。  マック食いたいな。ウーバー頼むかな。儲かってんだろうな、この時期。てか今何時だ。日が差し込んでねえってことは、まだ午前中か。雨降りそうにねえし、洗濯するか。彼女はまだ寝てんのかな。あいつメイクしたらカワイーけど、寝顔はうちの母親と同じなんだよな。のそっと起きて、狸みたいに唸る。狸って唸るのか。とにかく可愛くない。そこが可愛い。でも煙草の煙で部屋が黄ばむのが嫌いらしい。そこも可愛くない。そこはホントに、可愛くない。  ベランダの手すりにもたれる。五階から見える世界の沈黙に、世紀末、って言葉が無意味に浮かんで消える。煙草の煙と一緒。  遠くの歩行者信号が、誰を止めるでもなく点滅して、赤になる。ウケるな。そうでも云っとかねえと、なんか虚しい。  ガンガン、とベランダの横の非常階段を乱暴に上がってくる足音が聞こえた。鉄の階段ってのは、乱暴に歩いたつもりがなくても乱暴に聞こえる。ちょうど目を向けたタイミングで、向こうもこっちに気づいたみたいにこっちを見る。背の低い、蛙みたいな顔の男だ。目が合った瞬間、向こうがサッと目を逸らした。ああ。お前か、『キューピッド』。  キューピッドはそそくさと五階の鉄の扉を開けて、廊下に入った。オートロックが付いてても、こう階段から普通に入ってこれるなら、なんも意味ないよな。世の中それなりに適当で、無意味なことばっかりだ。コロナの方がまだ意味があるんじゃないかって思う。増えた人間の数を減らす。何においても適正量ってのはある。人間はちょっと多い。だから神様が減らした。  今頃RADはちょっと焦ってんじゃないか。洋次郎。カラスが増えたから殺して、猿が増えたから減らして、パンダは減ったから増やして、人類は増えても増やす、なんてうそぶいた。人間が歌うには少し軽率だったな。神様はちゃんと人間だって減らしてる。  キューピッドがその一人にならなかったのは、キューピッドだったからだ。天使ってのは、神様から贔屓にされるものだ。  だからやっぱ世の中はそれなりに適当で、不公平だ。可愛い彼女を苦しめといて、でも許されるんだ。  もう一本、煙草に火をつける。ニコチンが足りなかったからじゃない。考え事をするのにこの五分そこらの毒は、ちょうど良い砂時計と一緒だ。  キューピッド。ん? キューピット? まあアボカドかアボガドかと一緒か。意味は分かる。あの羽の生えた子供みたいな存在に濁点は似合わないが、日本人の蛙顔の男には濁点がつくくらいでちょうど良い。キュー、ピッ、ド。人殺しのオノマトペみたいだ。  キューピッドは、彼女と同じ学校の生徒だ。最近のコロナ禍で、彼女が常に家にいるから、インターホンを鳴らして嫌がらせするようになった。事情はよく知らねえけど、ま、年頃の男って訳わかんねえことするしな。脳味噌はちんちんについてる。それが怖くて、飲み会で知り合ってたから呼ばれて、ボディーガードしてるうちに、なんやかんやで付き合うことになった。だからキューピッド。汚い天使。  濁点には失礼だけど、濁す点って書くんだから、しょうがない。副流煙よりも男の下心の方がよっぽど汚い。だって喫煙者には濁点がない。きつえんしゃ。  吸って、吐く。五分間のため息。いかにも人生の空白みたいな時間。  薄曇りの空。錆びた鉄階段。くたびれた空気を閉じ込めたベランダ。微量の毒を含んだ吐息。  そーいや、コロナって煙草に弱いんだっけ。なんかTwitterで、そんなのをちらっと聞いた気がする。毒を制すのは毒。ちょっと違うか。でも世の中喫煙者に優しくないから、そーゆう、喫煙者に優しい情報ってすぐ消えていく。  煙草の煙みたいに。吐いて、上がって、すぐ透明になるんだ。
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