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「凄い、すごい! すごい!」
ヒムラにとってはテレビの中でしか見たことのない、本当は実体すらないのだと教えられ続けても信じてしまいそうな程縁のないものだった。
一面に広がる海はそれが全て水であることさえも感じさせない。そこは初めからそうした色である場所のような、水という概念すらなくしてしまいそうになる。
遠くから見るよりはずっと緑がかった色をしていて、透き通った海水の下から砂の黄味が優し気な色味を滲ませているのがよくわかる。それ程に濁りのない、澄んだ水質は太陽の光すら溶け込んでいるようだった。離れた場所で輝いていた波が砂浜に上がる頃には白に変わっているのが、なんとも表現しがたい美しさだった。
空と海の青に白の雲、砂。どれもがどれもに淡く溶け込んで反しているものなどもなかった。
見渡す限りを青の濃淡で埋め尽くされている。なんと美しいことか。
「……凄い、本当に水平線が見える……」
眩しさに手のひらで目元を陰らせると丁度、落ち着いた視界に遠く、海面をなぞる白い線が緩やかに丸みを帯びているのが見えた。
見たこともないものを、一気に経験している。急激に新しいものを吸収したヒムラの心はいっぱいになって、感極まってしまった。
「晴れてて良かったね」
振り返ると離れた場所にある駐車場で、マチとカケルが車の傍で佇んだままだった。
「来ないの?」
「やること終わったら行くから吠えんな」
吐かれる声から、若干ながら苛立ちが消えているようだった。流石のマチもこれだけの景色を前にして暑さで生えた心の棘が折れたのだろう。先程もカケルの声に応じて車の窓を開けていたのもある、寧ろ楽しみにしていたのかもしれない。
だが、そうだった。ヒムラは既に忘れかけていたが、この土地にわざわざ七時間もかけて訪れたのには訳がある。仕事だ、「灰色」の。
それは、見渡す限りの美しさとはまるで反した依頼だった。
依頼が届いたのは七月の後半のことだった。
茹だる夏の真っ最中、悲痛な依頼文には「友人が記憶をなくしてしまった」と、切に訴えられていた。ある日、この海で。
状況を考えてマチが出る幕はないと感じたが、少しばかり調べると怪しげな土台が幾つもあるのがわかった。
この海では記憶をなくす事件が多発していた。
そしてそれは、忘れてしまうのでも、ショックでしまい込んでしまうわけでもなく、違う人生を歩んでこれまでを生きて来たのだという、はっきりとしたものに変わってしまっているのだ。
まるで海が記憶をさらっているようだ。そうした事件が何件も起きている、この海で。
マチとカケルはきっと待ち合わせの場所を確認しているのだろう。いつもはなるべくマチが待ち合わせ場所を指定するようにしているが、こうも離れた土地ではこちらが指定するには難しい。その為、今回ばかりは一任した。カーナビ付きのレンタカーに、スマートフォンでなんとかここまで来たが、しかし実際に訪れるとなかなか判別がつきにくい。
今回の依頼人が指定した場所は「入江近くの丘を挟んだ浜辺の駐車場」という、地図上で目印を探さねばならないような難解なものだったのだ。
「え? これが丘だから、こっちがこの、この浜辺でしょ? だからこの浜辺が、……あっち」
「お前はなんで地図は読めて現実の方向がわかんねえんだよ」
離れた場所でいつものやり取りが始まった。
残念なことに、カケルは救いようのない方向音痴なのだ。自分の自宅にたどり着くにも数日かかる程なので、随分と昔にアパートは引き払った。
ただ唯一働くマチへの帰巣本能のみで生きるようになり、ヒムラよりも先に、マチの家に仮住まいを始めて今に至っている。
だが、実際は殆ど家にはいない。それは彼の仕事の関係で列島を渡り歩くハメになっている所為でなのだが、何故そうなってしまうのか、ヒムラには未だに理解が出来なかった。
「ねー、まだかかるなら海行ってもいいー?」
「待って、今確認してるから! 丘があっちで」
「お前らもう自由なんだよ。お前は、黙って、そこに、いろ」
声の圧がまずい。本能的に感じて、ヒムラはマチを刺激せぬようそろそろと車へと歩んだ。
そこへ、現れた。長い髪と、水色のシンプルな長いワンピースがよく似合う。
「灰色の方ですか?」
いつもはこちらからする紹介を先にされてしまったのが、なんだか仕事を奪われたようで、ヒムラは解せなかった。
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