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※  玉城詩織(たまきしおり)、依頼文の中では十九歳の販売員となっていた。彼女が今回の依頼人で、その内容が「友人が記憶をなくしてしまった」のを、助けて欲しいというものだった。  七月頭、玉城詩織は友人の白谷海音(しらやかいと)とこの海の一部、入江内で時間を過ごしていた。  右に三日月を置いた形で砂浜が残り、波が入りきらないそこは水面が凪いでいて、静かに過ごすには打って付けの場所だった。天気が良い日は増して美しいその場所は外界からも遮断されたように静寂で、岩にぶつかっては消える波の音や鳥の声、揺らぐ海面の音、疲れた心身を撫でて平らにしてくれるような、そんな場所であった。  玉城詩織(たまきしおり)にとって勿論特別な場所であったが、その入江は二人にとって、もっと重要な意味も持っていた。 「海音(うみね)入江って言うんです、ここ」  丘から見下ろす入江の形は円形で、右手に残る砂浜の三日月が印象的で、どこかおとぎ話の中に出てきてもおかしくはない。それ程に完璧な形であるここは、読みこそ違えど白谷海音(しらやかいと)と同じ名前を持っていた。  あの日も玉城詩織(たまきしおり)白谷海音(しらやかいと)はこの入江に訪れていた。家から持ってきたビーチ用エアーマットをこの場で膨らませて、流されることのないこの入江の中で浮かばせて語らうのが二人の時間の過ごし方だった。  そうして語り合っている内に、小さく水面を叩きつける音がして、振り向くと白谷海音(しらやかいと)がいなくなっていた。すると澄んだ海面の下、海の中に彼はいて、今まさに上がってくる最中であった。  海面から顔をだした白谷海音(しらやかいと)は、しかし、玉城詩織(たまきしおり)を見て怪訝そうにする。名を呼んで、どうしたのかと語りかけても暫く呆けたままでいた。  そして―― 「お前、詩織(しおり)? なんで急にそんな髪伸びてんだ?」  そして「いつ着替えた」と、続けて言ったのだ。 「私はずっと髪は長くしていて、一度だけ、小学校四年生の時に肩まで切りましたけど、そこからはずっと、伸ばしたままで」  最初は寝ぼけているのだろうと済ませた玉城詩織(たまきしおり)だが、入江を出た後も白谷海音(しらやかいと)の言動はおかしかった。自分はいつ髪を染めたのか、自転車はこれじゃない、家に入ってもカーペットの色が違う、この服は買ってない、ここにあったものがない。  それは寝ぼけただけで済まされず、彼が海から上がってきたその日から、今も尚、ずっと続いていた。 「決定的なことは忘れてないんです。自分のことも親のことも、私のことも。でも、変なところを覚えてなくて。私が髪が長いこととか、靴下の色とか、イヤホンのブランドが違うとか」  神妙な面持ちで、玉城詩織(たまきしおり)はその場にしゃがみ込み、ため息を吐いた。やけに重苦しくするその仕草に、ヒムラは他二名を見比べたが、二人共なにも堪えていない様子なのが悔しい。ヒムラにはどういった風であっても気分が良くない女性の空気感というものが苦手だった。扱いを間違えると即座に爆発する信管でも握らされているようで生きた心地がしないのだ。  結果、進まない空気感に堪えかねたヒムラは「ねえ」とマチを引っ張って数歩、玉城詩織(たまきしおり)から離れた。さながら爆弾処理作業のようで、歩みも慎重になってしまった。 「記憶を忘れたってことにはならなくない? 覚えてるんだよね?」  玉城詩織(たまきしおり)の表現は、どことなく納得しきれないものがあった。白谷海音(しらやかいと)は、忘れてはいない。記憶が混乱していると感じるのが正直なところで、溺れたショックが続いているだけのように思えた。 「他人が聞くより本人たちの記憶が大事な話だろ。髪の話でも、そこには本人たちのやりとりがある。じゃあ、それを覚えていない白谷海音(しらやかいと)はそれを忘れてることになる」  なんだか面倒くさい、はっきりとそう思ってしまったが、納得もした。 「どこから降りる」 「……あ、えっと、そっちに回って、一度砂浜に降りてから。この下には岩は続いてないので、入江の三日月に降りれます」  三日月に降りる、生きている内には到底叶いそうにないことが、この入江では可能だった。
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