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 この海と同じ名前のあなたを、私はどこにいても探し続けている。 ※ 「っつい……」  なんということか、この言葉を聞いたのはほんの二十秒程前のことである。頻度が増している、気持ちはわかるが、指摘しにくい。纐纈(はなぶさ)ヒムラは口から漏れ出そうになる言葉を唇を噛んでやり過ごした。  全ての言葉に濁点が付いた状態で吐き捨てるこの人物は、出掛けに着ていた薄手のパーカーを早々に脱ぎ捨て、Tシャツの袖は捲り上げ、遂には細身によく似合う黒いパンツの裾をも捲り上げ彼にしてはだらしない。  助手席でだらけて、いや、溶けてしまっている彼が今しがた吐き出した「暑い」の言葉もヒムラの耳には実際、「だづい」と聞こえているので相当だ。  通常であればしないことすらも許容出来てしまう程に、この車内も、この土地も暑い。同じ陸地で続いているはずがこうも違うとやけに地球の大きさを感じてしまう。これも暑さの所為かもしれない。 「だからもっと軽いかっこにした方がいいって言ったんだよ」 「十分軽いだろうるせえなイチイチ」  この人物はその名の通りに暑さに弱い。異様に、異常な程に。  彼、暑さに茹だるこの人物は日昏(ひなき)マチは、サングラスの奥でもはっきりと感じ取れる程に表情を歪ませ、まくし立てる早さで言葉を吐き出していた。  家を出てからかれこれ七時間、八割をJRで、残りの二割を今、レンタカーで移動している。この状況でマチが運転をしていないのはなにより幸いだったのかもしれない。秒単位で機嫌が悪くなっていくマチがこの長距離を運転するなど、考えただけで寿命が縮まった気がした。 「……やっぱり全部JRで来たら良かったんだよ」 「それはそれで他の人に迷惑がかかっちゃうから、これが一番良かったんじゃないかなあ」  ヒムラが告げ口をするかのように運転席に座る彼に背後から耳打ちをすると、助手席からはっきりとした舌打ちが鳴ったが、それを穏やかな声が打ち消した。  彼の声も言葉選びも、一気に空気を生温く柔らかいものに変えてしまう。ヒムラには彼のその独特の空気感があまりにもマチのものとはかけ離れていて、真反対の二つの空気がぶつかり合うそれこそがこの猛暑の原因のような気がした。  殺伐とした空気に真っ向から受け止める気しかない彼は、佐久間(さくま)カケルという。  ヒムラがマチと出会うずっと前からマチの友人であった彼は、マチの一切の言葉にも行動にも、その空気にも動じない。真に受ける気がないというよりは、その全てを享受するような、計り知れない寛容さと鈍さを絶妙に持ち合わせている。  凸と凹がうまく噛み合っているかのようだが、実のところ目に映るものではマチが勝っているようで中身についてはカケルが勝っていることが多い。我の強さやこだわりの部分で、特にそうした様子が窺える。  彼らは身長的にも凸と凹なのだが、それとは裏腹に両者見た目が凸と凸でもあるので色々と頭が混乱する。情報が過多なのだ。ヒムラ自身、冷水と熱湯を同時に浴びているようなよくわからない時期があった。  人の目を惹くマチが鋭く薄い、氷が織りなす美であれば、カケルは一面の花畑のような印象だった。マチが人の目を惹く理由とは違った方向で、カケルもまた目を惹く。  それは彼自身の滲み出るような人の好さや穏やかな性格も相まって、本の中の〝王子様〟という生物を紙から引っ張り出すと、恐らくこんな姿をしているのだと、ヒムラは思う。  無彩色と極彩色のような正反対さで理解しあうのだから、反しているというのも実のところ同じ出なのではと無限に考えてしまう。  けれど、それこそたった一部分の情報にすぎない。カケルはカケルで相当なおかしな部分も持ち合わせているのを知っている所為で、過ごす時間に比例して、ヒムラには似た者同士と落ち着いたところがあった。 「あ、ほら、見えたよ」  声に応じて暑さに溶けて項垂れていたマチが助手席の窓を開けると、経験したことのない程、濃い、海のにおいで満ちた。  初めて見た海は、あまりに広く、美しい色をしていた。 ※  インターネット上に密やかに存在するそれは「灰色のページ」と呼ばれていた。  特殊な状況、問題に困った人間が検索を繰り返すとある時たった一ページだけがヒットする。  「灰色の問題でお困りですか?」そのページをクリックすると進むのは真っ白なページに一言。 「誰にも理解されない問題でお困りでしたらその内容をご記入し、送信ください。当方の範疇に当てはまるものである場合、あなたをお助け致します」  そうして状況を送信すると返信が返ってくる。そうして、理解不能な出来事を解決してくれる者が現れると。
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