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2.このねのいのり
どこかの、大きなお屋敷の庭。
ずっと、狐乃音が祀られていた、小さな祠。
ある時。その前に若い男が現れた。このお屋敷の家主さんだ。
男は狐乃音の前で両手を合わせ、そして心から祈った。皆の幸せを。
穏やかな祈り。優しくて柔らかな思いが、まだ思念体だった頃の狐乃音にも、たっぷりと伝わってきた。
『わかりました』
狐乃音は祈った。
『皆さんが、幸せになれますように』
その成果なのか、家主の男は大きな病や不幸に見舞われることもなく歳を重ね、九十を越す程に長生きをした。家族も同じように、無病息災だった。
子沢山で、笑い声が絶えない一家だった。
狐乃音はやがて、目覚めた。
「……うきゅ」
なんだか、懐かしい夢を見ていたような気がする。
ここは広くて、見慣れた和室。
側にはお兄さんの姿。
朝も早いので、彼はまだ眠っている。毎日お仕事をして、疲れているのだ。起こしてはいけないと、狐乃音は思った。
「……」
狐乃音はふと、自分の耳を掴んでみた。ふさふさの狐耳を。
お兄さんは時折狐乃音に、耳と尻尾を触らせて欲しいと、お願いをしたものだ。
可愛いから。
もふもふして、触り心地がいいから。
『はい~。どうぞ』
もちろん狐乃音は、断りなどしなかった。お兄さんに撫で撫でしてもらうのが大好きだったし。それに、お兄さんの膝に腰かけて、きゅ~っと抱き締めてもらうと、たまらなく嬉しいのだ。
『うきゅ~』
お兄さんは、甘えん坊さん。でも、狐乃音もまた、お兄さんに甘えたいお年頃。持ちつ持たれつといった関係?
ーーある日。時代の流れからか、狐乃音が長いこと祀られていた祠はお屋敷ごと壊されてしまった。
後でお兄さんが言っていたけれど、家主の男が亡くなって、相続が発生したのだろう、とのことだった。
狐乃音は今も時々、行き場を失ったあの日のことを思い出す。
思念体だった狐乃音は、何故だかはわからないけれど、狐の形になっていた。
どこに行けばいいかわからない。
足が棒のようになるまで街をうろついた。
どうにもならない絶望感が、狐乃音を支配した。
やがて狐乃音は空腹のあまり、行き倒れてしまった。
狐乃音が気がついたとき、和室に敷かれた布団に寝かされていた。
ここはどこなのだろうと思った。
体を起こしてみると、何故だか紅白が鮮やかな巫女装束を着ており、更に体が人の形になっていた。
わけもわからず、狐乃音が混乱していると、ふすまがゆっくりと開いた。
そして、お兄さんが入ってきて、声をかけてきた。狐乃音のために用意した、きつねうどんをお盆に載せて。
『君は神様?』
その問いに狐乃音は、はい、そうですと、素直に答えた。
立派な神ではないと、狐乃音は自覚している。変に敬われたりされるのは、苦手だった。
自分は見た目通りの、何も知らない子供だと思っていた。そのように接して欲しいと言ったら、お兄さんは快く応じてくれた。
狐乃音はその日から、お兄さんの家に居候させてもらうことになったのだ。
「お兄さん。いつも、ありがとうございます」
回想にふけりつつ、狐乃音はお兄さんの、ずれたかけ布団を静かに直した。
人の優しさに触れて、狐乃音は嬉しかった。
狐乃音は小さいけれど、稲荷神。けれど、狐乃音にとってお兄さんはまさに、神様だった。
「お仕事、お疲れ様です」
狐乃音のことを娘のように、大切に思ってくれる。日々、いろんな事を教えてくれる。
狐乃音はお兄さんのことが大好きだった。
お兄さんのためなら、どんなことでもできるし、何でも言うことを聞く。心の底から、そう思った。
段々と窓の外が朝焼けに染まっていく。実に鮮やかだと、狐乃音は思った。
「うきゅ」
狐乃音の耳が、ぴょんと立った。ご機嫌なのか、尻尾もゆらゆらと揺れている。
「この世界は綺麗です」
今日も一日頑張ろう。狐乃音はそんな風に思うのだった。
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