37人が本棚に入れています
本棚に追加
8.朝焼けの中
「狐乃音ちゃん、ごめんなさい」
別れ際。男は心の底から、狐乃音に謝っていた。
狐乃音が好きなチームを散々低迷させて、泣かせてしまったのだから。
「迷惑をかけた人達にも謝りたいけれど……。どうにも、できないよな」
チームの関係者や、ファンの人達のこと。
男は今更ながら、自分が償いきれないことをしでかしてしまったことに気付いていた。
けれど、事実を説明してみたところで、誰が信じてくれるはずもない。寝言を言っているのか? とでも思われることだろう。
それでも男は、どうにかして犯した罪を償いたいと思った。どんなささやかなことでもいいから。
その思いを察してか、狐乃音の口調は優しかった。
「頭をあげてください。……そうですね」
狐乃音が用意した、特殊なフィールドは既に消えていた。今は元の鬱蒼とした森に戻っている。その中に、二人はたたずんでいた。
朝日が昇りはじめており、辺りは段々と鮮やかな朝焼けの色に染まりつつあった。
「もし、できたらですけど」
狐乃音は現実的な提案をした。
「これからは、スパローズを応援してくれませんか?」
「ああ」
そうだなと、男は思った。
自分にできることは、恐らくそれくらいしかないだろう。
「これからは、一ファンとして応援していくよ。……ファンクラブに入って。グッズ買って」
ああ、よかったと、狐乃音は思った。
現役時代、本人は辛かっただろうけれど、折角の思い出を少しでも大切にして欲しかったのだ。
――架空のシーズン。その最後にて、男は結果を残した。
メジャーリーグ級の強打者を見事打ち取り、一つのセーブポイントを得た。
長きにわたる戦いを終えた後。憑き物がはれたかのように、男の表情や口調は穏やかになっていた。
「あの~」
狐乃音はおずおずと、巫女装束の胸元からスパローズのキャップと油性のサインペンを取り出して、男に手渡した。
「サイン、いただけませんか?」
そんなふうに、お願いをしていた。
「は?」
突然の申し出に、男は目を丸くした。
「俺の? 一軍経験もない、へっぽこ投手だぞ?」
そんなものが欲しいの? と、男は笑った。とても、物好きな神様だなあと思った。
「そんなことないです。プロの選手になれるだけでも、すごいことです。それに……」
狐乃音は思い出す。
男は数ヶ月間に渡るシーズンを、僅か数時間に圧縮するという、とてつもなく濃密な体験をしてきた。
そして、最後の投球は実に見所があった。
「最後のセーブは、しびれちゃいました。私」
二人以外、誰も知らない幻のシーズン。
狐乃音はずっとそれを見届けてきた。
気付いた時、男のファンになっていた。
苦痛にあえぎ、もがき続けながら、必死に投げ続けた男。
狐乃音は純粋に、応援したいと思ったのだ。
「そっか。ありがとうね」
男は狐乃音からサインペンとキャップを受け取って、すらすらとサインを書いていた。
ふと、現役時代のことを思い出す。
「意外と覚えているものだなぁ。ファームにいたとき。……ああ、ファームってのは二軍のことね。時々、子供達が観に来たりして、試合の後にサインをくれって頼まれたりしたものだよ。こんな無名の俺にもね。いやぁ、懐かしいな」
男は戦力外になってから、実家に帰って家業を継いだ。
長い間消せなかった失意。体に染みついた後悔は、狐乃音との出会いによって消し去ることができた。
この予想だにしなかった貴重な経験を糧に、これからも生きていこうと誓ったのだった。
「はい。どうぞ」
「ありがとうございます!」
サイン入りキャップを狐乃音の頭にかぶせる男と、礼を言う狐乃音。
最後はかたい握手。
「お礼を言うのは俺の方だよ。本当にありがとう。狐乃音ちゃんのおかげで、ようやく目が覚めたよ」
「嬉しいです」
「さようなら。可愛い狐の神様」
「はい。さようなら、です。……お元気で」
立ち去っていく男の背中に向けて、狐乃音は深く祈るのだった。
あなたにも、幸運が訪れますように、と……。
◇ ◇ ◇ ◇
「……またお兄さんに、心配をかけてしまいました」
狐乃音はとほほと思いながら、森を出てお兄さんの所へと向かおうとした。
しかし……。
「うきゅっ!?」
体に力が入らず、こてんっと、真後ろに倒れてしまった。
体の重量バランスが狂っている。
ふさふさもふもふの狐尻尾が、やたら重いのだ!
「そ、そうでした」
狐乃音はつい先程まで、とてつもない大技を使い続けていたのだ。ものすごく疲れるであろうことを、今更ながら思い出していた。
どうやら狐乃音は、一度夢中になってしまうと、疲労のことなんて綺麗さっぱり忘れてしまう癖があるようだ。
「お、起き上がれないのです!」
完全にエネルギー切れ。
情けない事に、まるで動けない。どうしよう……。
「お、お兄さ~ん」
狐乃音は涙目になりながら、お兄さんにヘルプを求めるのだった。
「助けてください~!」
――十数分後。狐乃音から、心に響くメッセージを受けたお兄さんが、助けに来てくれた。
随分待たせて、心配ばかりかけてしまった。それなのにお兄さんは、狐乃音の姿を見つけてくれた。お小言一つ言う事も無く、おんぶをしてくれて、車まで運んでくれた。
狐乃音は申し訳ない気持ちになって、落ち込んだ。
けれど、お兄さんはそんな狐乃音の苦労を察してか。
「お疲れ様」
と、優しく言ってくれた。
◇ ◇ ◇ ◇
「やりました!」
狐乃音は今日もまた、テレビの野球中継に釘付け。
シーズンも終盤。一時期の低迷ぶりが嘘のように、スパローズの成績は好調だった。
「勝率五割復帰なのです~!」
エースが投げれば打線が奮起し、連勝が続く。
「もしこのままうまくいけば、クライマックスシリーズの出場も夢ではないのです!」
はしゃぐ狐乃音。
お兄さんは穏やかな表情で、狐乃音を見守っていた。
「後悔をしないようにって、簡単に言うけどさ」
あの後、お兄さんは狐乃音から、何が起きていたのかを全て聞いた。
「はい」
「なかなか、難しいよね」
「そうですね」
全力で、本気で、手を抜かずにやっているからこそ、後悔に苛まれることはよくあることだ。
すごいな狐乃音ちゃんはと、お兄さんは思った。
できたはずだと言うのなら、じゃあ、試しにもう一回やってみなさいよと、男に向かって暗にそう言ったのだ。
(なかなかできるものじゃないよ。それは)
厳しさを伴った狐乃音の優しさに、お兄さんは感心していた。
大小の差はあれど、誰もが後悔を胸に抱いている。
生きている内に体に染みついてしまった、後悔という名の呪いを解くことは、本当に難しいこと。
狐乃音はそれを、消せるかもしれないチャンスを用意してあげた。
(狐乃音ちゃんの優しさ、だね)
ヒーローインタビューを熱心に聞いている狐乃音を見て、お兄さんはそう思うのだった。
最初のコメントを投稿しよう!