散華

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毎度恒例と言っても良いだろう。 何故、結婚した友人とのラインのやりとりは、今までと特別に何かが変わってしまったわけでもないだろうに、いや、こちら側が気を遣うことに疲れてしまったのか。それとも、やはり男を手にした女は、愛した女を手にした男は、変わるとでも言うのだろうか。どうにも、なんだろうか、ある種の傲慢さとでも言えば、それが正しいのが、自分の目には見えない、現状抱えている嫌な想いから生み出されるものなのかとも、こちらの受け取り方が考え過ぎなのだ、と言い聞かせることはあるのだけれども、毎度毎度と、こうも続けば、ああと、既読したまま、文字を打つ指が上手く動かない。 何年も、何年も、語り合っては、長々とメールを、電話をして、話して、あんなにも声が聞きたかったのに。 そういう間柄にいた友人が、ひとり、またひとりと、はやすぎる死のように、別れを告げる。 明確に音信不通になるわけではないのだが、それでも、心のどこかで一区切り付いてしまったのだろう。 さよならだと、これが疎遠になるということなのか。 結局のところ、社会に出てから知り合った既婚者の方が男女共にスマートな付き合いができている気がする。 それは、ただ単に職場の人間という間柄、立ち位置が曖昧なようで、実は明確でもあるからなのだろうか。 友情ではなく、仕事を共に進めていく。そこにある大前提は大きく異なる。 それで、笑い合える仲ならば、気を許せるような同僚が、先輩が、後輩が、上司がいたならば、尚更素晴らしいことだとは思うが、高望みをするのも虚しくなるだけだ。 一度、何もかもをリセットできたら楽なのだろうと思う。 関係性を修復するよりも、自分が妥協して、愛想笑いを振りまいて、下手に出て、感情を伴わない上から目線の正論に納得したように、聞いてくれてありがとうと大袈裟に言って、相手を褒める。 褒めてばかり?それは相手の長所だからと、それで、その言葉で、その存在で、救われたことは確かにあった筈なのに、悪い記憶で上書きされてしまう。 美しかったのだと、あの頃の青春時代を懐かしんだ。
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