スーツを揃えて

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スーツを揃えて

 閑静な住宅街の一角、モダンな二階建ての建物は大正ロマンを思わせる白壁に三角形の黒い屋根が乗り、ぐるっと周囲を石造りの塀が囲っている。  だが室内は現代風にリノベーションがされ、古い柱や梁の深い飴色を残しつつも、床や壁はとても綺麗にされている。  その一室、大きな桐箪笥の側に置かれた衣装掛けに深いブラウンのスーツを掛けた男はそこに、綺麗な七宝のループタイを合わせて穏やかに微笑んだ。 「これで明日はいいとして、資料は……」  通勤カバンから丁寧にファイリングされた資料を取り出し、一通り揃っている事を確認してそれを仕舞う。これで、明日は滞りなく出勤できるだろう。  そんな事を思って立ち上がると、不意に背後から視線を感じて振り向く。そこにはジッとこちらを見る男の姿があった。  腰の中程まである黒髪を下ろし、眦の切れ込んだ瞳は少し不機嫌そうにこちらを見る。細いが意外と筋肉質な腕を組み戸口に凭れている人に、守谷総一郎は穏やかな笑みを向けた。 「どうした、志乃?」 「随分念入りに支度してるから、明日何かあるのかと思ってな」  組んでいる腕を解いてこちらへと近づいてきた男、崎村志乃は夜着にしている浴衣の裾を僅かに揺らしながら守谷の前に立った。 「しかも、気合いがいるらしい」 「どうしてそんな事が分かるんだい?」 「これだよ」  すっと指さされたのは七宝のループタイ。丸い白い画面に藍で染めて作ったかのような青い蝶が横向きに、菖蒲に止まっている。羽根はよく見ると同じ藍でも濃淡が違い、それが模様になって煌めいて見え、菖蒲はすっと葉や花を伸ばしている。 「気合いが必要な時や特別な仕事の時に、これを選ぶ癖がある」 「え? そうだったかな?」 「無意識だろうな。お気に入りを身につけて、落ち着きたいんだろ」  素っ気ない声と表情で言う崎村は多少面白くなさそうだ。おそらく、最近スキンシップが少ないからだろう。だからといって甘えて来る事のない恋人からの、これは言葉にしない要求だ。  改めてループタイを見る。そしてにっこりと、守谷は幸せに微笑んだ。 「君がくれた物だからね、私の特別な宝物だ」 「! そんなの、覚えてたのかよ」 「勿論だとも。君がくれたものは全て、大事に使わせてもらっている」  実際、このタイは他の物とは別にしてある。使わない時はケースにしまい、手垢が付かないように気を遣っている。他の物も大事にしている。  驚いてそっぽを向く崎村の耳がほんのりと赤い。照れたんだと丸わかりで、こういう部分が何年一緒にいても可愛くてたまらない。 「明日は、新規に立ち上がった部署の初顔合わせとミーティングなんだ」 「? 前に言っていた、BL企画編集部か?」 「あぁ。覚えていたのかい?」 「随分思い切ったと思ったからな。しかもそこの編集長にお前がつくなんて、意外だった。いつもは『そんな器じゃない』って断るのに」  崎村の言う事ももっともだ。何度かそんな提案もされたことがある。定年なり引き抜きなりで編集長の席が空くから、どうか? という提案だ。だが、守谷はそれを断り続けてきた。崎村の言うとおりの文言で。 「マリサ社長がね、どうしてもって」 「あぁ、あの若い社長さんか。結構、押しが強そうな」 「まぁ、弱くはないかな?」  嫌そうに眉根が寄る崎村には苦笑するしかない。実際、彼の最も苦手とするタイプだ。  極度の人見知り……というよりは、ほぼ人嫌いに近い。興味のあることや一部の親しい人間には心を開くが、押しが強くズカズカと入ってくる人間を最も警戒する。親しい人間に対しても気分屋な所があるのだ、苦手な相手などほぼシャットアウト状態だ。  そんな人が、自分に対して全幅の信頼を寄せ、甘えてくれる。守谷にとってそれは、とても幸せな事だった。 「どうやら新人や、中途で入ってくるメンバーも多いみたいなんだ。新規の部署でまだ、海の物とも山の物ともつかない状態から軌道に乗せなければならない。大仕事になりそうだよ」  「だからこそ、経験豊かで大らかで、周囲をよく見て動いてくれる守谷さんにお願いしたい」と、社長直々に頭を下げられた時、ほんの少しやってみようかと思えた。自分しかいないのだと言われると、やってやろうという気にもなる。  集大成、と言えなくはないのだろう。 「楽しそうだな、総一郎」 「ん?」  隣を見れば真っ直ぐにこちらを見る崎村がいる。綺麗な黒い瞳は淀みなく、守谷だけを映している。 「いいんじゃないか、そろそろ上に行っても」 「有り難う、志乃。少し帰りが遅くなる事もあると思うけれど」 「気にしなくていい。俺もアトリエで仕事してる」  崎村の職業は日本画家で、この家の一角をアトリエとしている。花や鳥、金魚などを得意とし、時には人物も器用に描き上げる彼の絵はなんと言っても色彩の美が人を惹きつける。初めて出会ったのも、絵画の受賞展だった。  出会ったのはお互い二十代の前半。何だかんだと理由を作っては時を重ね、やがて気持ちを確かめ合った。付き合いだしておそらく二十年近く経っている。守谷が両親から引き継いだこの家で同棲を始めて、丁度十年くらいだったと思う。 「最近、連作上げたばかりだろ? 少し休まないのかい?」 「休むけれど、描きたいと思えば描く」 「それならいいけれど」  すっと触れた頬は少し細くなったようにも思う。やつれたとまでは言わないが、元々細身の崎村の事が心配になってしまう。  だが、そんな守谷の言わんとしていることが分かったのか、柳眉が寄って嫌そうな顔をされた。 「心配性」 「ごめん」 「俺もいい大人だ、腹が減れば一人だってどうにでもする。いつまでも俺の世話ばかり焼かなくていいから、ちゃんと仕事してこい」  彼なりの叱咤激励。それを受け、守谷は嬉しく笑った。 「明日は早いのか?」 「いや、いつも通りだよ。普段から早めの出社だから」 「生真面目に朝一出社だよな、お前。周りはそんなに早くないだろ」 「静かでのんびりできるよ」 「少しくらい妥協したり、緩めてもいいんだぞ」 「そうしたら歯止めが掛からなくなりそうでね。それに、既に習慣のようなものだから」  確かに出版の仕事は時間が不規則になりがちだ。朝一で全体朝礼なんて大昔の習慣もなく、朝から会議などが入っていなければそれぞれの仕事の時間に来ていい。その分急に帰りが遅くなったり、作家の所に行かなければならない事も稀にあるが。  そんな中、守谷はほぼ同じ時間に出社し、何事も無ければ定時で上がる。仕事を家に持ち込む事もせず、休日は休むタイプだ。おそらくこういう人間の方がこの業界は珍しいのだろう。 「真面目で融通がきかない」  ぷいっとそっぽを向く辺り、言いたい事があるらしい。その割、体を近づけてくる。本人は無意識なのだろうが、その心は読み取れる。 「志乃」 「ん?」 「明日頑張る為の英気を、貰ってもいいかな?」  細い腰に腕を回し、彼を見つめる。ぱっと上向いた目と目が合えば、彼の方は赤くなりながらもぱっと視線を外した。 「仕方ない」 「有り難う」  素直ではないだろうが、これが可愛い。どこか猫のような恋人が愛しくてたまらない守谷は気が変わらぬうちにと崎村を誘い、寝室へと向かうのだった。
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