祓魔師Ⅱ

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「悪魔が人を惑わすとしたら…?  人が想像する神の姿に、自分を変えてしまうのです。」  私は神を信仰している神父の端くれであった。  自分が神だと信じていた存在から告げられた言葉…。  私は、その言葉の意味を考えすぎて正気ではなくなっていった。  食事も喉を通らなくなり、もう睡眠も自覚出来ない。  神の姿を幻覚で見る様になり一心不乱に祈りを捧げる。  段々と弱くなっていた生命の灯も、もはや消える寸前であった。  自宅に籠る様になって教会にも姿を見せない。  心配した同僚の神父が本部に連絡したのである。  その由々しき事態に教会は特別な措置を取った。  それほど神父の状態は衝撃を与えていたのである。  神父が本部に提示してきた問題。  悪魔が神に姿を変えていたとしたら、その正体を誰が判るのか…?  そもそも神など存在せずに悪魔が人を操っているとしたら。  人間は対立概念の間で翻弄されているだけの事になる。  神と悪魔、人間に取って宗教とは何なのか…?  その根本的な問いに誰も上手く答えられない。  納得させて貰えない神父は増々その混乱を深めていった。  神と悪魔。  その情報は重要な問題として世界を駆け巡る。  そして本部は、その問いに答えられる者を募った。  とある場所から返信が在り、その者は神父を救うために動いた。  …海を越えて。  昨晩も幻覚や幻聴に悩まされ、あげくに寝たのかどうかの自覚も無い。  まどろんだ状態のままの神父は呼び鈴に起こされた。  著しく体力も落ちている為に起き上がるのにも一苦労である。  やっとの思いで服を羽織り玄関まで辿り着く。  力を振り絞って、そのドアを開けた。 「レオナルド神父、本当にお久し振りですね。」 「お久し振りです…。」  同僚の神父は心配そうな笑顔を向けて覗き込んできた。  だがレオナルドは彼の後方の二人に驚かされる。  全く見た事も無い服を纏った二人組。  体格が立派で大柄な男と小さな老人。  何故か二人共、薄い木の板を手にもって佇んでいる。  その板には見た事も無い文字が書かれていた。  同僚の神父がレオナルドに彼等を紹介する。 「本部の要請で来てくれた方々だよ、わざわざ海を越えて。」 「何の為にですか…?」 「貴方を救う為にです。」 「私を…救う?」  その会話に小柄な老人が割って入ってきた。  大男の方は言葉が分からない様で、ただ見守っているだけである。 「我々はラルンガルゴンパから参りました。  …と言っても御存じではないのでしょうが。」 「ラルンガ…。」 「チベットという国からです。  神父が直面している問題は大変に厄介な事なのです。」 「厄介な問題…?」 「そうです。  貴方を救う事が出来ないとなると、この地域が揺らぎます。  それで本部が我々の寺院にまで要請の連絡をくれた。」 「何故、チベットの方々に…?」 「いえ、我々は日本という国の者です。」 「日本…。」 「いわゆる異教徒という事になります。  それでも力を、お貸ししたいのです。」 「クリスチャンではないのに…。」  老人は立派な体格の僧侶を神父達に紹介した。  その大きな僧侶は丸めた頭を撫でている。 「彼は我々の間でも強い力、…法力を持っております。  神父を悩ませている存在と対峙する為に連れて参りました。  私も僧侶ですが、この度は通訳として同行した次第です。」 「そういう訳だレオナルド神父。  彼等に部屋を与え、そして共に問題に当たって貰いたい。  彼等には、その実績が在るのだから…。」 「神と悪魔…、私と彼等で…。」 「貴方が教会に顔を出さなければ一日に一度は様子を伺いに来る。」  そう告げた同僚の神父は教会へと戻って行った。  レオナルド神父は以前に母親が使っていた部屋に通す。 「私は宗朝と申します、そして彼は行宣。」 「ソウチョウ…ギョウセン…私はレオナルドです。」 「宗教の違う我々が呼ばれた理由は実績が在るからなのです。  我々はアジアにおいて仏様を信仰しています。  悪魔の対立概念では無いので対処が可能なのですよ。」 「対処…ですか?」 「悟り、という境地です。  それが覚悟へと繋がり惑わされる事は在りません。」 「サトリ…。」 神父は不思議な事に小柄な老僧に包まれる様な感覚を抱いた。 通訳の僧にですら、こんなに力を感じさせられるなんて…。 「その法衣は見た事も在りません。」 「これは袈裟という日本の法衣です。」 「ケサ…。  お持ちになった、あの文字が記された木は何なのでしょう?」 「あれは卒塔婆という日本の墓碑ですね。  もしも対処出来なかった時は我々の埋葬場所に刺して頂きたい。」 「…!」  神父は老僧の言葉に衝撃を受けていた。  この彼等の強さは一体、何処から生まれてくるのであろうか…?  自分自身の死の可能性までも受け入れているなんて。  もしかして彼等なら、あの存在と対等に対峙出来るかも知れない。  悪魔と、そして仏の使い。  老僧は和紙でくるまれた卒塔婆を並べて立て掛けた。  下方の部分に細工が施されていて柄の様になっている。  透けて見えている部分の文字が異国の異文化を匂わせていた。  そして母親が使っていた椅子に座り神父と話し始める。 「それでは、お話を伺うとしましょうか。」 「ハイ…。」  大柄な行宣は床に胡坐を組み、そして寝始めてしまったのだった。  神父は宗朝に今迄の経緯と自身の苦悩を話し始めた…。  かなりの時間、話し込んだ神父の眼に光が戻り始める。  それと比例する様に窓の外の明るさは弱くなってきていた。  …行宣は座ったまま静かに寝息を立て続けている。  その姿は見様によっては闘いの為の力を蓄えている様にも見えた。 「間違いなく今夜に、かの存在は姿を現すだろうと思われます。  神父、何が起きても気持ちを強く持っていただきたい。」 「自覚は持っているつもりです、ですが…。」 「大丈夫、神も仏も信じる人々を裏切りません。  我々を信じてみて下さい。」  笑顔の老僧に神父は頼り甲斐を感じてしまっていた。  もしかしたら本当に彼らなら…。  その時、寝ていた行宣が目覚めて大きく欠伸をした。  そして老僧と向き合って軽く頷いたのである。  窓の外の景色は、すっかりモノクロの様になっていた。  どんどん夜が近付いてきている。  神父が部屋のランプに明かりを灯し始めていく。  三人の影が、ふっと壁に揺れていた。  神父と老僧は再び互いの宗教観を語り合っていた。  その時である。  こんこんこん、こんこんこん。  ドアが何者かによってノックされている。  もちろん誰の訪問予定も無かったのであるが。  立ち上がろうとした神父を老僧が手で制した。  自らが立ち上がり、そのドアへと歩いて行く。  後を追って立とうとした行宣も制した。  ゆっくりとした足取りでドアに近付いた老僧、宗朝。  外の気配に只ならぬものを感じていたのである。 「何をしに来たのだ、お前達は?」  ドアの向こうから、その声は明らかな敵意と共に響いてきた。  それは宗朝に向けられた言葉だった。  そして、それは日本語で語り掛けられてきたのである。  老僧は相手の力が本物であると認知し警戒を強めた。  言葉を返さずにドアの傍から離れて部屋に戻る。  こんこんこんこん…。  再びドアがノックされ、やがて止んで静寂が訪れた。  室内に戻った老僧はチェアに腰掛ける。 「神父、相手の力はかなり強大で手強い。」 「やはり神ではないのですね…。」 「もちろん仏様でもありません。  …ここからは落ち着いて対応せねばなりませんよ。」 「もう準備は出来ているつもりですが…。」 「迷ったら相手に絡め捕られますよ。  不動心、意味は心に迷いを持たない事です。」 「フドウシン…。」  少しして窓の外に鈍く光っている物が見えてきた。  遠くで揺れて微かに輝いている。  そして、それは段々と窓に近付いてくる様に見えた。  ゆらゆら…、ゆらゆら…。  ふわり…、ふわり…。  それは窓の外の空を浮遊している様である。  真っ先に神父は、それが神の姿に化けている存在だと気付いた。  今の自分を苦しめ迷わせている存在。  …悪魔。  鈍く光る浮遊する存在は、どんどん窓に近付いてくる。  その人を模した存在は邪悪な雰囲気を引き連れていた。  神父にとっては神にしか見えない存在。  だが二人の僧侶には、この世の者ならざる存在でしかない。  その白装束の者は窓の直ぐ傍まで漂って来ていた。  かんかん…、かんかん…。  その存在は軽く窓を叩き始めた。  見上げた室内の神父達に対して笑顔を返している。  だが、その目は虚ろで何も見てはいなかった。  恐怖で目を逸らせられない神父。  だが二人の僧侶は、その様子を見守っているだけだった。  もちろん誰も窓には向かわず、そして開けられる事も無い。  次の瞬間その存在は自身を窓にめり込ませた。  その身体は窓を少しづつ通り抜けて室内へと入ってしまう。  いよいよ悪魔としての本性を現し始めたのである。  部屋の窓際に浮かぶ白装束の悪魔。 「何をしているのだと聞いている。」  悪魔は英語と日本語に分けて同時に告げた。  神父は恐怖で後退りしてしまう。  だが二人の僧侶は、まるで無視している。  そして老僧は怯えている神父に向かって語った。 「窓を通り抜けるのは質量が無いという事です。  …これは脳に見せている幻覚ですよ神父。」 「幻覚…?」 「そうです、もしくは錯覚と言っても良い。」 「ですが…。」  ぶうん!  悪魔は両手を振りかざして食器類を飛ばしてみせた。  だが行宣が片手を拡げて、それを制する。  食器類は彼等に届かずに床に落ちて粉々に割れた。 「お前、何も考えていないのにどうして…!」  行宣は何事も無かったかの様に神父達の前に立ち塞がった。  悪魔の苦々しい表情が凶暴な顔に変化していく。  もう神のコピーを演じる積もりも無い様であった。  今度は両手を振りかざして家具を飛ばしてきた。  がたっ!  行宣は印字を結んだ指を絡めて回転させる。  彼等の直前で飛ばされた家具は落ちて壊れた。  まるで何かに当たって阻まれたかの様に。  それは行宣の法力だった。  悪魔に初めて少しの焦りが伺い知れた。  それは異文化の僧侶の力を見誤ったのであろうか。 「お前、相当な力を持っている様だな…?  ならば、その力を身体ごと奪わせて貰うとするよ!」  そう言って悪魔は行宣の身体の中へと、めり込んでいった。  しかし行宣は何故か制止もせずに無抵抗だったのである。  少しだけ苦しみ始める行宣、老僧が悲しそうな表情を一瞬だけ見せた。  苦しみながら俯いて倒れ込んだ行宣。  神父が彼に向かって叫んだ。 「ギョウセン!」  起き上がってきた行宣は何と胡坐を組み始めた。  その向き直った表情は青白くなっている。  そして両方の眼は血走って真っ赤になっていた。  行宣は胸の前で再び指で印字を組んでから、それを切る。 「ソウチョウ…どうすればギョウセンを救えるのだ?」 「もう救う事は出来ない…、それだけ相手が強大なのです。」 「救えない?  じゃあ、どうすれば良いのだ?」  その質問に老僧は無言で部屋の隅へ歩いて行く。  そして立て掛けてあった卒塔婆を行宣に向かって放り投げた。  神父は、その一部始終を意味も分からずに見詰めるだけである。  受け取った行宣は卒塔婆の柄の部分を掴んだ。  そこには、からくり細工が施されていて卒塔婆が分離した。  卒塔婆の本体と鋭利に尖った部分との二つに。  そして鋭利な方を自身に向けた。  それから何の躊躇もせず胸に刺した。  深く、もっと深く。 「ギョウセン!」  胸から血飛沫が飛び散った。  ランプに照らされた彼の影から別の影が逃げ出そうとしている。  だが、それが出来ずに苦しみもがいている影。  拡げた羽が閉じられて痙攣している様にも見えた。  やがて断末魔の様相を呈して、その影が吸収される。 「ノオォ。」  神父は余りの光景に動揺して叫んだ。  老僧は悲しみを湛えた瞳で見詰めていた。  行宣の口許からは鮮血が流れ出してくる。  彼は、その真っ赤な唇で一瞬だけ老僧に微笑んだ。  そして倒れ込んで動かなくなる。  部屋に静寂が満ち始めていく。  若き僧侶の顔は微笑んだままであった。  …それは勝利の笑みである。 「おお神よ…何て事なんだ!」 「神父、予定通りなんですよ。」 「何だって…死んでしまったのにですか?」 「そうです。  彼は悪魔と共に死ぬ積もりで来たのです。」 「そんな…!」 「悪魔が肉体を乗っ取ろうとするのは分かっていた。  だから敢えてそうさせておいて法力で閉じ込め一緒に滅びる。  それしか方法が無い程に強力な相手だったのです。」 「…!」 「それを彼は自ら志願した。  彼は耳が聴こえない、だから言葉に惑わされない。」 「言葉が分からないのではなく聴こえなかったのか…。」  僧侶達は最初から、この結末を予想していたのか。  なのに異教徒の為に、わざわざ海を渡ってまで…。  悟り、とは?  やがて夜の闇が薄くなってきた。  若く大柄な僧侶は寝ている様に横たわっている。  老僧は彼に対して拝み続けてから顔を上げた。  神父に対して静かに告げる。 「彼には身寄りがいません、つまり天涯孤独の身でした。  この国に埋葬して頂けたら、と望みます。」 「分かりました…手配させて下さい。」 「そして卒塔婆も墓碑の後ろにでも立てて下さいな。」 「ソトバ…。」  神父は日本に渡ってみたいと思い始めていた。  異教についても学んでみたいとさえ考え始めていたのである。  特に悟り、について。 「どうして命を懸けてまで救いにきてくれたのでしょう?  異教徒の私の為に。」   「対峙すべき相手は一緒ですから。  その為には宗教の違いは、それほど大きな問題ではない。」 「命懸けで対峙すべき相手…。」 相手は一緒、悪魔。 「神父が教えられた言葉の中にも在るでしょう。」 「…それは何なのでしょう?」 老僧は微笑みながら言った。 「我、一粒の麦たらん。  …あーめん。」 老僧は、そう言って十字を切った。  
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