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一
バスを降りた真由は、降りしきる雨など気にする様子もなく田舎を懐かしんでいた。六月の温度と雨の湿気に紛れた、肥料を多く含んだ畑の土の匂いや、ナスやドクダミの青臭い匂いが、鼻孔の奥をくすぐったからだ。
真由は二度深呼吸をした後、バス停のベンチに旅行鞄と自らの身体を投げた。透明なベールに包まれた山々をぼんやりと眺めていると、その視界の隅に黒い塊を見つけて思わず身を固くした。
黒い傘を閉じて現れたのは、同じく黒一色の洋服を着た腰の曲がった老婆だった。円らな瞳を目一杯見開いた老婆は、
「おや、驚いた。可愛らしい先約さんがいたもんだ」
と、真由を見て笑顔で二度頷いた。真由は笑顔を返しつつ、
「さっき着いたんですけど、少し雨宿りさせてもらっていたんです。ここ、どうぞ」
と、鞄を自らの方に寄せた。老婆は笑顔のまま、ゆっくりとした動作でベンチにかけた。
バス停の屋根を叩く雨音の中には鳥の声があった。ヤマガラの囀りが、晴れ乞いの祈りのように優しく辺りに響いていた。まるで俗世から切り取られた写真のようだ、と真由は密かに感じていた。
「この傘を使いなさいな」
そう呟くように言った老婆は、雨粒が滴る黒い傘を真由に差し出した。真由は驚き顔で、
「そんな、悪いです」
と、傘の柄にかけられた老婆の手を優しく包んだ。
「悪いものなんてありはせん。安物だから」
「それでも貰うなんて……。お婆さんだってまだお使いになるでしょう」
老婆はほうほうと笑ってから言った。
「いやいや、もう必要がないから。バスに乗って、電車に乗ってしまえば、後は息子が迎えにくるはずだから。足の次に腰までやらかしてしまって、息子夫婦の所でお世話になるの。だから私は今日で、この土地を離れるんだよ」
「そうなんですか、でも……」
気が引ける真由の気持ちを悟ってか、老婆は目尻の皺をさらに寄せて言った。
「それなら、少しの間、この婆さんの話し相手になってくれんかの。そのお代として」
真由は身体を翻して時刻表に目を向けた。駅へ向かうバスは暫くこない。灰色雲は当分の間居座り続けることが容易に想像ができた。だが、諸所状況を鑑みるよりもむしろ、老婆の純粋で真っ直ぐな目を見た真由は、その申し出を無下に断ること自体が失礼なものだと感じられた。
「分かりました、私でよろしければ」
真由の言葉を聞いた老婆は、さぞ満足気に、顔を皺くちゃにした。
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