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ひゅっと身を硬くして絶句する真由に、老婆は静かにこう語った。
おばさんは悪化した身体が原因で、母親と女の子が住むアパートを出て長男の下に身を寄せた。引き上げた荷物の奥底に沈んだ通帳を見つけて中を開くと、そこには一円も残らず引き出された形跡が記載されていた。初めは買い物のおつりをごまかす程度、それが日に日に、数千円、数万円と増えていき、引越す前日に残りの全てが引き出されていた、ということだった。
「何てこと……。訴えるとかして取り戻すことはできなかったの?」
悲しみを吐き捨てる真由に、老婆は二度首を横に振ってみせた。そして、全ての感情をなくした能面のような顔で、老婆は言った。
「雨が……」
「雨がどうしたの、お婆さん」
真由は目の前で大地に降り注ぐ雨、厚く覆われた黒い雲を見てから続けた。
「雨はまだ止んでいないわ」
老婆は生気を失った目で遠くを見つめていた。そこには降りしきる雨に歪んだ世界があるだけだった。そうしてやってきた暫しの沈黙に真由は思った、自分とお婆さんの二人だけが切り取られた写真の中に取り残されているようだ。
老婆のうっすらと開いた口から言葉が漏れた。
「雨が降り続けている……」
「え?」
「そう、あの日からずっと、雨は止むことを知らずに、ずっと降り続けている」
そうして老婆は呪文を唱えるように、ぼそりぼそり、と静かに口を動かした。
「ざあざあ、ざあざあ、女の子への愛情と、ざあざあ、ざあざあ、母親への憎しみが、ざあざあ、ざあざあ、心の中に振り続ける、ざあざあ、ざあざあ……」
「お婆さん、ねえ、しっかりして!」
得も言われぬ恐怖を打ち払うかのように真由は老婆の肩を揺り動かした。老婆は表情を一切変えずに、与えられた力のままに身体を何度も左右に揺らしてから、やがて動きを止めた。それはまるで振り子時計が電池をなくして、振り子がその中心で静かに動きを止めるかのようだった。
真由の心配を無視するかのように、老婆はゆっくりと語り始めた。
「憎しみに耐えられない日は、女の子が別れ際にくれたお財布に百円玉を入れて気持ちを抑える。いずれお財布に百円玉が入らなくなると、憎悪は歯止めをきかずに溢れ出る。そうして十数年という月日の間、雨を見る度におまじないをかけるようになる。次の雨までに、母親なんて死んでしまえ!」
「そんな……」
真由の頬に一粒の涙が落ちる。涙の通った跡を生ぬるい風が舐めて、それはまるで誰かの手が触れたように感じて、真由は背中をぞくりと震わせた。
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