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振り返ると、成瀬が桜並木に対照的な黒いスーツに身を包み、佇んでいた。 「『冷静』だ。お前に一番欠けるものだから、栞にして持ち歩けばいいんじゃないか」 笑いながら、一房の桜を琴子に渡した。 掌に収まるサイズのその桜の束を見て、琴子は成瀬を見上げた。 ピンク色の光に包まれたその顔があまりに穏やかで少し戸惑い、照れ隠しに頬を掻く。  ーーー桜ってこんな効果もあるんだな。 その頬を成瀬が覗き込む。 「傷は、消えたか?」 城門が爆破されたとき飛んできた何かの欠片が琴子の頬を傷つけていた。 「残ってますよ。十代のときとは違いますね、やっぱり。傷の治りが遅い気がします」 琴子は言いながら笑った。 「でも消えないってのもちょっと期待してたりして」 言いながら成瀬を覗き込む。 「この傷が消えなかったら、“あいつに責任を取らせる”って青柳さんが言ってたので」 ピクリとも表情が変わらない先輩に思わず笑うと、その手が琴子の傷痕に触れた。 「———壱道さん?」 その傷をなぞるように指で触ってから、成瀬は視線を琴子の瞳に戻して言った。 「傷痕?俺には見えないが」 琴子は思わず吹き出した。 「言うと思いまし――――」 そのまま手が優しく琴子の顔を包むと、端正な顔が近づいてきた。 ーーーえ?! 思わず目を瞑ると、唇に温かなものが触れた。 頬に触れていた手が優しく背中と腰を包み込んだ。 どのくらい時間が経ったのだろう。 唇を離した成瀬がこちらを見下ろす。 あまりの衝撃に息をするのを忘れていた琴子は、ぼんやりした頭でその顔を見つめた。 「(さき)の件だが」 今しがた、自分の唇に触れていたその口が開く。 ――――えっと。何の話をしてたんだっけ―――? 「ーーー考えておく」 言うと成瀬は桜並木を先に歩き始めた。 ――――先の件って……。 「ーーーあ、待ってくださいよ!壱道さん!」 琴子は慌ててその後ろ姿を追いかけた。 風が吹く。 並んで歩く二人の足元で、ピンク色の花びらが舞い上がる。 冬の香りを含んだその風が、松が岬市の短い秋の終わりを告げていた。 【完】
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