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「だから、刑事さんが来てもらうようなことは、何一つありません」
坂上清子は、木下琴子をまるで、青空に干した毛布についたカメムシでも見るかように、鼻筋に皺を寄せて睨んだ後、年齢にしては早口にはっきりと言い放った。
琴子はプシューと風船の空気の抜けるようなため息をつきながら、坂上家の純和風造りの豪邸を出た。
御影石に低いヒールの靴がコツコツと小気味いい音を立てるのとは裏腹に、琴子の気持ちは沈んでいた。
話は朝に遡る。
「何か変なボランティアを名乗る人間が、母に取り入って家にまで出入りしているみたいなんですよ」
松が岬署の刑事部捜査一課に、一本の電話がかかってきたのは、朝のミーティングが終わって、それぞれが業務に散ってからすぐだった。
「ボランティア、ですか?」
事務の浅倉から押し付けられた受話器を握りしめながらデスクに座ると、電話口の女は捲し立てるように言った。
「そうなんですよ。市で委託を受けているボランティア団体ですって。高齢者の家を回って、雪かきや雪下ろし、それが終われば草むしりや草木の選定まで、家の周りのこと、何でもさせていただきますよって。
聞くからに怪しいじゃないですか。だから関わらないようにって言ったんですけど」
「はあ」
「今じゃ、家の周りどころか、もう居間まで入り込んで、買い物の代行とか、肩もみとか、家の掃除までやってくれてるっていうんですよ。おかしくないですか?」
「そうですねえ」
「今、詐欺とか流行ってますけど、そういう類の人たちかもしれないじゃないですか。家の中に入ったなら、通帳の場所だって、印鑑の場所だって、わかるのも時間の問題ですよ!」
「そうかもしれないですねえ」
「あら、最近、ボランティアさん来ないわね、と思ったら、貯金が全部なくなっていた、なんて実際あることですからね?」
琴子は眠い目を擦った。
イカ漁に出て遭難したと見せかけて、実は妻が殺して海に捨てていたというとんでもない事件が、昨日やっと解決したばかりだった。
「私がすぐに駆け付けられる場所に住んでいたらいいんですけど、こっちは東京だし。松が岬市にちょくちょく帰れるわけないじゃないですか」
そういえば、二日間くらい風呂にも入っていない。シャワーさえ浴びていない。
何日間も潮風を浴びた頭を掻く。
パサパサになった髪の毛の生え際のあたりがやけに痒い。
「刑事さん、聞いてるんですか?」
「あ、はい。もちろん」
琴子は椅子からずるずると滑ってきた尻を持ち上げ座りなおすと、電話口に集中した。
「実際、何かなくなったとか、お金について聞かれたとか、そういった話はありますか」
「はぁ?」
電話の向こうが俄かに殺気立つ。
「何かあってからでは遅いでしょう!詐欺師の引き際の鮮やかさを知っているんですか?気づいたときにはもう姿を消しているんですよ!」
正論です、確かに。
しかし警察は基本的に何か被害がないと動けない。特に捜査一課はなおさらだ。
管轄の交番に任せるか。
松が岬署管内の全交番の電話番号表を取り出したところで、受話器が手から盗まれた。
「お電話代わりました。松が岬署の成瀬です」
久々に見る先輩が琴子を見下ろしていた。
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