夜に現る

1/19
42人が本棚に入れています
本棚に追加
/121ページ

夜に現る

 太陽が眩しい。空は高く青く澄んでいた。モコモコした入道雲が先に見える。俺は、手をかざして目を(すが)めた。  今日から夏休みに入る、七月の半ば頃。今日も世界は噴火寸前だ。アスファルトからは陽炎(かげろう)が立ち上り、空から射す太陽は容赦なく肌を焼き、額から汗が何度も垂れてくる。  終業式の帰り道、俺は顔を(しか)めて歩いていた。バテ気味だ。スクールバッグには、ずっと机の中に入れっぱなしだった教科書が入っている。いつもの数倍重い。肩にショルダーがめり込んで、俺は思わず唇を歪めた。  うちの近くには美しい川が流れていて、星合橋(ほしあいばし)というアーチ型の小さな橋を渡ると、目の前には大きな湯本館が出迎えてくれる。数寄屋(すきや)造りの老舗(しにせ)で、提灯に似せた看板に「月の湯」と書かれてある。ここは寛永(かんえい)八年(千六百三十一年)から運営している由緒ある湯本館。俺の父さんと母さんが運営していて、将来この館を継ぐことになっているのだが、まったく興味がない。  俺には、大きな夢があった。  それはプロ野球選手になること。父さんからは馬鹿げてると言われ、何度も大喧嘩になったし、そんなものになれるわけがないと、頭ごなしに否定された。しかし、だからと言って、簡単に夢を諦める気にはなれない。どうして、たかだか中学二年生の俺の人生を、父さんの手によって、既に決められなきゃいけないんだと思う。毎日、息苦しくてたまらないし、父さんの顔を見るたびにため息が出てくる。俺は、この先も自分のやりたいことをして生きていく。父さんのレールに引かれてたまるか、と思う。  裏口から館に入ると、今日も着物を着たスタッフが忙しなく働いている。大きな厨房の方からはいつもいい匂いがして、思わず鼻を(うごめ)かし、空気を吸い上げると、ぐうと腹の虫が鳴る。つまみ食いをしようと、厨房まで向かうと女将でもある母親の恵美子(えみこ)に呼び止められた。 「灯夜(とうや)もう帰ってきたのね。暑かったでしょ。温泉入ってきていいわよ」 「いいの?」 「うん、お父さんいたら怒られるかもしれないけど、今、外出てるから」  そう言って、母さんはニッと笑み、また忙しなく仕事へ戻っていった。  母さんは、俺が言うのもなんだが綺麗だと思う。いつもピシッと着物を着ていて、黒くて綺麗な長い髪を後ろに束ね、串で留めている。いつも付けている赤い口紅は、白い肌によく映えていた。それに、いつもこうも思う。こんな暑い中でも、着物を着て汗ひとつかくことなく涼しい顔して本当に人間かと……。自分は半袖シャツなのに、汗がダラリと背中を通過していった。  ベタベタする……。  とりあえず、スクールバッグを自分の部屋に置いて、浴場に向かった。
/121ページ

最初のコメントを投稿しよう!