序章

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序章

 黒い森を桜坂 明光(さくらざか あかり)は歩いていた。  木の幹も、草花も、漆黒に染まった異様な世界。そこを二十歳にも満たない一人の少女がお散歩気分で歩いている。あまつさえ鼻歌を歌っているのだから、この不気味な樹海に恐怖は抱いていないのだろう。少女の陽気さは、この森が前人未到であり、異質化の根源であることを忘れさせる。  明光は異質化対策総司令本部の一組織、【騎士団】の団長である。少女の仕事は、全国民を異質化という恐怖から守ること。けれど、明光にとってそれは二の次の目的だ。一番はやはり、弟の幸せである。これから生き行く弟の未来が安全であればその他大勢が不幸でも構わない。  けれど、弟の考えは違った。文字通り皆の幸せを願っている。ならば自分は弟の希望を叶えるまでだ。明光が騎士団を続ける理由はそれに尽きていた。もし、弟の未来が明るくなったならば、たとえそこに自分という存在が無くても良かった。  明光は弟の顔を思い浮かべてひとり含み笑いをした。  きっと今頃弟と親友は他地域へ向かい救援活動に徹していることだろう。まったく男前になったものだ。小さいころ、弟と親友と自分で手を握り合って歩いていた日々とは大違いだ。思い出に浸りながら、少しずつ自立していく二人の姿を感慨深く感じた。まるで亡き両親のように。  この不気味な森へとたどり着いたのは偶然ではなかった。友人であり、戦友でもある人物がうっかり口を滑らせて明光にこの場所を教えてしまった。彼もまた、異質化を終わらせるために身をすり減らしている一人である。  よほど感極まっていたのだろう。いつもは冷静な彼が自身の失言に気付かなかった。少し考えれば、明光が危険を冒してまでこの場所に単独で潜り込むことは容易に想像できたはずだ。  明光も油断していた。今まで散々死の境地に立たされてきた。しかしそれを乗り越えて現在がある。明光に付き従う五千の団員も、明光は完璧に守り、十分に生かしている。今更明光を脅かす敵などそうそう居ないはずだ、と。  だが、違った。世界は一人の少女が歩ききれないほど広い。強者もまた、明光が知らないだけで沸々と誕生するものである。まだ若い明光には、それがわかっていなかった。  さくさくと草を踏みしめる明光の足音だけが森に吸収されていく。光を一切通さない森は、まるで異端な存在を扱うように見えた。小刻みにそよぐ風で真っ黒な草木は明光をよけていく。  太陽光も遮られ、地上には木漏れ日ひとつ落ちない。陰鬱な森の雰囲気に、ついつい嫌な記憶がフラッシュバックする。無論弟との記憶だ。  丁度、木々の開けた見通しの良い場所へたどり着いた。ほぼ円形に草木がはけ、どす黒い土が顔を覗かせている。明光は円形の広間の中央で上を見上げた。木々が葉を伸ばして天を覆い、空は見えない。暗かった。自分の手すらかすんでよく見えない。  明光は自身の左手を見つめた。随分と汚れてしまった手。もうこの手は二度と奇麗にならない。こんな手では弟や親友の手を握れない気がしていた。  明光の弟は本音を隠す傾向があった。笑っていても、どことなく以前と違う感じがしていた。以前というのは、少女と弟が両親を失った、あの日である。  普段喧嘩などはしない方だが、一度だけ大喧嘩したことがあった。弟が探検隊をやると言い出した時だ。親友とともに探検隊をすると言って聞かなかった。明光は二人を危険にさらしたくなかったが、言葉が出てこなかった。「ダメ」としか言えずにいるうちに弟と親友の探検隊入隊許可が降りた。  ダメダメなお姉ちゃんだ。独り地面を見つめ肩を落とした。風が木々を揺らし、木の葉がくすぐりあう音が聞こえる。まるで自分を笑っているようだと余計に気持ちが沈み込んだ。 「結局、言えてないもんなあ……」  ため息交じりにつぶやいた。  明光は弟に言いたいことがあった。言おうと思っているのだが、なかなか口に出せない。気恥ずかしさもあるし、明光らしくないと思われるのが嫌だった。仲間や知り合いには簡単に言える言葉なのになぜ弟には言えないのか明光は理解していなかった。  きっとそれは、明光が“また明日”に期待しているからだ。自分に明日が来ない日が来るなど、微塵も考えていないのだ。もし、最後の時を感じていたならば、言えるだろう。明光らしい、弟への思いを。
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