前嶋優の掌

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前嶋優の掌

 国民の祝日、クリスマス前の金曜日、たくさんの人で賑わう街中でそれを見つけたのは偶然だった。あ、行かなきゃって思った時には走り出している。  近づいて聞こえてきた会話は案の定で、イラつきをなだめるのが大変だった。 「だから、ヤですってば!」 「えー?なんで?いいじゃん、あそぼーよ」 「っぼく、男ですから!」 「いーよ。そんだけカワイかったら問題ないない!いいとこ連れてってあげるからさ」  こういうナンパほんと嫌い。ギリギリで顔面に笑顔を貼り付けたけど、そう思ったのがそのまま声の温度を下げた。 「……すみません。俺のツレに何か?」 「えっ?」 「ああ?……へえ」  声をかけた僕を見る目は両極端だった。単純に驚いて目を見開いてるナナくん、一瞬邪魔されてイラだったくせに、俺の顔を見て目を細めて下品に口元を歪める男二人。  こういう時、身長はあるおかげで下衆を見上げなくて済むのは精神衛生上助かる。威圧的な雰囲気も出しやすいけど、ナナくんを怖がらせるのは避けたい。なるべく穏やかに、笑顔を崩さずナナくんに話しかける。 「ごめんね、一人にして。行こうか」 「え、あ、うん」  とっさの小芝居にナナくんもノってくれたけど、男たちはナナくんの腕を掴んで足を止めさせた。コートのシワの寄り方は軽く掴んだ程度ではなくて、ナナくんの表情も歪む。 「そんなツレナイこと言うなよ。おにーさんも一緒にどお?」 「結構です。放してください」 「キレーな顔してハッキリ言うね。だいじょうぶだよ、楽しくて気持ちいだけだから」  何が大丈夫なんだ、文脈がおかしいだろうが。日本語が通じないことに貼り付けた愛想笑いが引きつりそうになった。  こちらの意思など関係ないとばかりに俺の方にも伸びてきた手が腕に触れる前に振りはらう。触りたくもないけれど、そんなことよりナナくんの腕を痛めつける男の腕を放させる方が先だ。男の手首を掴んで思いきり力を込めてやる。 「ってえ!なにすんだ、テメェ!」 「こっちのセリフです。俺は放してくださいって言いました」  仏の顔も三度までって知らないらしい。最初に手を出さずに声をかけた、穏便に離れようとした、ハッキリ放せって言った。これ以上我慢してやる理由はない。  俺の小綺麗な顔は、凄むとそこそこ迫力がある。少し大きめの声を出せば、周囲の人たちがチラチラとこちらを気にし始めた。  周りの視線に若干怯んだ男たちを睨む。ナナくんは腕を掴まれて怖い思いをしたし、これ以上突っかかるなら何もしないつもりはない。  そっちが下がらないなら受けて立つぞってさらに力を込めれば、舌打ちして逃げて行った。傍迷惑甚だしい。 「……スグルくん、素だと俺なんだね」 「え。あー……うん」  男たちの背中が見えなくなるまで見届けて、背後から聞こえた声にギクリとした。普段はキャラを作ってるのは言ってあるけど、いきなり過ぎてビックリさせたかもしれない。ていうか、ナンパ男から助けるためとはいえ俺が気まずい。 ——ゆーくんへのかわいいアピールだったらばっかじゃないの!って言うけど、ただのモテちゃってすみませんキャラならぼくには関係ないし!  照れ隠しっぽい口調でも、ハッキリ言ってくれたことを思い出した。  素で話せる男友達がほしくないって言ったら嘘になる。それでも、ナナくん的には友達っていうよりライバルっていうくくりっぽかったから、仲良くなり過ぎないように、俺なりの線引きのつもりだった。 「なんで」  ナナくんは俺より頭一つ分以上小柄だから、俯かれると表情が見えない。ナナくんにはナナくんのプライドがあるだろうから、嫌な思いをさせてたら申し訳ないことをした。  それでも、俺にも曲げたくないものがある。 「友達……の、友達、助けたらいけない?」  姉の買い物に付き合った帰りに、ナナくんが絡まれてるのに気づいたのはたまたまだ。荷物持ちだったのに姉さんを一人で帰らせたから後で小言を言われるかもしれないけど、友達のピンチに何もしなかったってバレたらそれこそ鉄拳制裁される。  ナナくんが無事なら、その後に俺が怒られても恨まれてもいい。泣かれると、ちょっと困るけど。 「怖かっただろ。ごめんな、もっと上手くできたらよかったんだけど」 「ううん。助かった。翼ちゃんにもよくやってる?」 「何回かは」  俺の顔を見て、大半はすぐにシラけて帰ってくれる。でも、時々さっきみたいに俺まで連れていこうとする輩がいるのだ。そういうのはケガさせない程度に、ケガしても知らないぞっていうのを見せなきゃいけない。嫌だし、面倒だけど。  ナナくんはやっぱり、と笑ったけど、掴まれてた腕を摩る手が少し震えてる。気づかないふりをするのはよくても、このまま一人にはしておけなかった。 「えーと……あったかいものでも飲みに行く?」 「せっかくナンパから助けてくれたのに、今度はスグルくんがナンパすんの?」 「うん。寒いから」  言い訳がテキトー過ぎた気もするけど、ナナくんのコートの袖口をつまんで引けば大人しくついてくる。喫茶店とかファミレスを何軒か覗いたけど、運悪くどこも空いていなくて、仕方なく自販機でココアとコンポタを買った。 「さむ……」 「ごめん」 「うそうそ、仕方ないよ。ココアありがと。ベンチあって良かったね」  缶を頬にあてて暖をとるナナくんの口から、はあと息が白く舞った。手の震えは、治まっているように見える。自分の手の中の缶を眺めて、また白いため息を吐くナナくんに視線を移せば鼻の頭が少し赤くなっていた。 「これもどうぞ」 「え?ココアとコンポタの取り合わせはなくない?」 「じゃなくて。一気飲みするから、少し冷めるまで持ってて。飲み口下にして」  中のコーンを残さず飲むには、ちまちま飲まずに一気が一番だ。買ってすぐは熱いから、少し冷まさなきゃいけない。  少しぽけっとした様子で缶を受け取ったナナくんは、両頬に熱源を添えてクスクス笑った。 「少しずつ飲めるの買えばよかったのに」 「缶で飲むならコンポタかなって」 「紅茶とか好きそうなのに」 「うん、まあ好きだけど。買って飲むより自分好みに入れて飲みたい」 「あっはは!っぽい!」  何がそんなに面白かったのか、きゃらきゃらと笑われる。ナナくんはひとしきり笑って、そういえば、と小首を傾げた。 「そういえばスグルくん、今日はひとり?」 「ん?んー、まあ」  悠介は一緒じゃないのかと聞かれている気がしたから、姉さんの荷物持ちだったことは口にしなかった。曖昧にごまかしてしまったけど、ナナくんは深く突っ込んではこない。  悠介はここ一週間くらいバイトが忙しいらしく、まともに会えていない。放課後に待ち合わせて一緒に帰れても数駅分の短い時間だし、毎日でもない。  寂しくないと言えば嘘になるけど、なんとなく、ちょっとでも会いたい、とは言えないでいた。会えたら嬉しいのに、どこまで近づいていいのかわからないから、会えない日々はそれはそれで平穏なのだ。  悠介にこわいと言ってしまったあの日から、お互いに距離を測りかねている。どこまでが良くて、どこからがまだダメなのかがわからない。今までできていたスキンシップすらままならないほど、臆病になっていた。  悠介がこわいわけではないはずなのに、勝手に竦む体を改めて自覚してしまって自己嫌悪の日々だ。あの時から、全然成長してない。 「どしたの?こわい顔して」 「え?……こわい顔、してた?」 「してたしてた。なーに?ゆーくんとケンカでもした?」 「ケンカじゃ、ないけど」 「へーえ?」  いじわるな、少し楽しそうな顔でニマニマ笑われる。チャンス、とか思ってるのかな。  しかし、ナナくんはすぐに唇を突き出して拗ねた声を出した。俺の予想は外れたらしい。 「あーあ、どうせなら翼ちゃんに助けてほしかった」 「翼だったら、あの人たちの何人かは投げ飛ばされてたろうな」 「スグルくーん、チェンジー!」 「いや、ないから」  ブーブー言いながら足をバタバタさせる様子は高校生にしては子どもっぽいかもしれないけど、ナナくんにやられると咎める気になれない。容姿のせいか、言動のせいか、両方かな。  ナナくんはかわいいと思う。気持ち的にはかわいいもの好きの男子な気がするけど、外見は女の子っぽさを意識したかわいさだ。  俺は別にかわいくなりたいわけじゃないし、悠介と彼氏彼女に見られたいわけじゃない。だから、ナナくんの容姿や雰囲気をかわいいとは思っても羨ましいとは思わない。  俺は悠介にカッコイイって思われたいし、何かあれば守ってやりたいって思う、ただの男だ。  そう思った時、ナナくんと初めて会った時に自分で言った言葉の意味と、悠介とナナくんが並んだのを見た時のモヤモヤの理由を理解した。 「ナナくん」 「んー?」 「悠介がかわいい子がいいっていうなら仕方ないけど、悠介が俺がいいって言ってるうちは、悠介の隣、譲る気ないから」  羨ましかったんじゃない。そこは俺の場所なのにって思ったんだ。それは、自覚のなかった独占欲。  口に出して納得したら、なんだかすっきりした。ぽかんて口を開けたナナくんの頭をぽんぽん撫でる。派手に戦線布告されてからずいぶん経っちゃったけど、改めて受けて立つよ。 「なに、それ」 「ナナくん?」 「話の流れ、どーなってんの…………なにそれえ〜」  見開かれたナナくんの目が、一瞬で潤んでぼろぼろと涙を零した。それはもう勢いよく、ぼろぼろと。  あまりのことにとっさに動けなかった。同じ映像を繰り返すみたいに涙は止まらず、ナナくんの頬と膝を濡らす。  決して下を向かず、まっすぐ俺を見たまま涙を落とすナナくんにハンカチを渡せたのは、どれくらい経ってからだろう。受け取ったものが何なのかを認識してようやく自分が泣いていることに気づいたみたいに、ナナくんは目をパチクリさせた。その度にまたポロポロと涙の粒が零れていく。 「……ぼくさぁ」  ナナくんがハンカチを目に押し当てて呟いた声は小さくて、聞き間違いかと思った。  待って、待って、ナナくんが一つ大きく深呼吸して顔を上げるまで待つと、初めて会った時みたいなニッコリ笑顔を向けられる。 「フられちゃった」 「…………うん」  もう一粒、涙が落ちた。顎を伝ってコートに染みるまで見届けて、一言相槌を打つ。ナナくんをフったのは俺の恋人で、慰めも謝罪も俺が口にすべきではないのだろうし、そもそもかける言葉を見つけることができなかった。  何も言えずにただ座り込む俺の頬に、ナナくんはコンポタの缶を押し付けてきた。涙は止まっていたけど、赤くなった目元が切ない。 「ありがと。もう平気」 「……うん」  缶といっしょに渡された囁きは、真っ白な息に乗せるようにか細かった。肌より少しぬくい缶を受け取って、気を遣わせただろうかと反省する。  本当にもう平気そうな顔で、ナナくんはココアを飲んだ。振れる話題もなくて、コンポタを飲もうと口をつける。 「で、二人はどこまでいってんの?」  噎せた。 「なっ、どっ……、っはあ⁉」 「いーじゃん、ちょっとした知的こーきしんじゃん」  じゃん、とか言われても。潔い通り越して図太いって言ってよくないかな。そういえば初対面の時もこのくらいの勢いでグイグイ来られたっけ。  さすがにどんなに粘られたって話す気にはなれず、コーンが沈んでしまったであろうコンポタの缶を煽った。 「ライバルじゃ、なくなっちゃったし……あ、ちゃんとフってもらったのに未練たらしくアプローチするつもりないからねっ」  まだ好きなんだろうな、と思う。俺がとやかく言うことではないけど。  答えが出ることと、気持ちを整理したり、昇華したりすることは別物だから。 「だから……トモダチに、なりたい、なー……みたいな?」  どことなくそわそわした様子のナナくんの言葉に思わず呆けてしまった。意味を飲み込んだら、勝手に顔が緩んでいく。  いつだったか結月ちゃんと話した、そうなったら嬉しい、が思いもよらず転がってきた。ニヤけてしまうのは許してほしいところだけど、ナナくんにはあずかり知らぬことだからジト目で睨まれる。 「……笑わなくてもよくない?」 「ごめん、その……実は、友達になれたらいいのにと思ってた」 「え、ウソ」 「マジ。……ちょっと、じゃないな。かなり嬉しい」  驚いた顔のナナくんに、へへ、なんて笑えば、なにそれって呆れたようにまた笑われた。  本音を言えば、ライバルじゃなくなったら友達になれるかと聞かれれば可能性は低いと思ってたから驚いている。複雑な感情もきっとあるのに、歩み寄ってくれて嬉しかった。  今更のように連絡先を交換して、なんか変なのと笑い合う。 「改めて、これからよろしく。ナナくん」 「くん付けなくていーよ」 「そう?」 「ぼくもやめる」 「わかった」 「ふふ、学校でのゆーくんのこと、色々教えてあげる。ヤキモチやかせちゃったらゴメンね?」 「妬かないとは言わないけど、妬いたら妬いたで悠介は喜ぶ」 「ノロケられた!」 「むしろ、悠介が妬くくらい仲良くしよ」 「あはは!まっかせて!」  力強い返事に、また笑った。  なんだかスッキリしたなと思いながら、帰ろっかと立ち上がる。ナナの手から空き缶を攫って、自分のと一緒にゴミ箱に入れた。振り返ると、駅ビルの明かりを背負ったナナが立っている。 「ね、スグル」  ニッコリと、ナナは笑う。本当は目の周りが赤いのに、暗くてはっきりとは見えないせいで、さっきまでぼろぼろ泣いていたとは思えない。何度か見たはずの笑顔なのに、なんだか一番ナナらしく見えた。  こちらに拳を突き出して、胸を張って、友達が堂々と宣言する。 「仲原央は、もっとかっこよくなるよ。スグルくらい。んーん、翼ちゃんくらい!」  笑顔に、声に、こっちの心まで奮えた。 「マジか。楽しみだな」  声が震えないように拳を強く握って、コツンとぶつけた。俺は、友達に恥じない顔で笑えているだろうか。  がんばれ、と思う。負けるか、と思う。俺たちは友達になったけど、変わらずライバルだった。 『起きてる?』 『起きてる。どした?』 『明日、会えるかなって思って』 『もちろん。オレも会いたい。駅で待ち合わせでいい?』 『うん。HR終わったら連絡する』 『わかった。んじゃ、明日な』 『うん、明日。おやすみ』 『おやすみ』  昨夜そんなやりとりをしたのに、終業式もホームルームも終えた俺は、クラスメイトへの年末の挨拶もそこそこに校門を飛び出していた。今日は部活もない。部長と結月ちゃんには一昨日よいお年をって言い合った。  走って、走って、駅の向こうまで。土曜の昼時、クリスマスイブの街は少しだけ浮き足立っているように見える。  毎日のように走っているのに、隣の高校まで全力疾走しただけで心臓が破れそうだ。走った以外の原因がチラついて、それがまた顔に熱を持ってくる。冬の冷たい空気に晒したいのに、色づいているだろうそれはとても人に見せられなくてマフラーを引き上げた。  校門から少し離れた、冬休みへ向かう帝蘭生が見える場所に陣取る。悠介と初めて会った時も、ここで翼を待った。あの時は結月ちゃんも一緒だったが、今日は一人だ。 「あれ、優?」 「っ!」  ちらちらと感じる視線に騒ぎになりませんようにと念じた時聞こえた待ち人の声に、ガバッと顔を上げる。数歩先、手を伸ばせば届くところにキョトン顔の悠介がいた。  会いたくて走ってきたのに、いざ目の前にいると言葉が出てこない。いまだ整っていない息のせいで、意識していないと噎せて咳き込みそうだ。 「既読つかないと思ったらこっちまで来たのか」 「……っえと、ごめん」 「いや、いいけど……ちょう息切れてんじゃん」  大丈夫?と覗き込まれて、ぐっと喉が鳴る。  心配してくれて嬉しい。上目遣いかわいい。会いたかった相手が目の前にいるだけで口が緩んで仕方ないから、頑なにマフラーで隠した。 「そんなに会いたかった?」 「うん」 「っうぇ……そ、そっか」  からかうみたいな顔で聞かれて、つい反射的に頷いた。驚いて真っ赤になる悠介を見たら、走って飛んでた理性が戻ってきて顔の色が伝染る。  顔を赤くして俯く俺たちに、不満そうな声がかかった。 「もしもーし。クリスマスイブだからって校門の前でイチャつかないでくれますー?」  顔を上げれば、ナナが腰に手を当てて仁王立ちしていた。その後ろには迷惑そうな顔の翼もいる。  可愛らしくプクッと頬を膨らませたナナの顔には、ぱっと見泣き腫らした名残は見えなかった。俺の顔が心配しているように見えたのか、一言文句を言って満足したのか、ナナは笑って手を振ってくる。 「やほ、すぐる。昨日ぶりー」 「ん。昨日ぶり、ナナ」 「え、何。なんで仲よさげなん」  手を振り返すと、間に入ってきた悠介に真面目な顔で問い詰められた。振っていた手を握られそうになって、とっさに引っ込める。  昨日のことは、まだ悠介にも翼にも言っていなかった。翼を盗み見れば、納得したような顔をしている。多分ナナから聞いたんだろう。  話すつもりではいるけど、場所が悪い。後で話すことにして、ざっくりまとめる。 「色々あった」 「いろいろ?」 「色々はイロイロだよ!ね、冬休みヒマ?初売り一緒に行こーよ、三人で!」  悠介の追及の目は、ナナの乱入で簡単に逸れた。はずなんだけど、ナナが俺の右腕を掴んで引き寄せたから悠介の目が据わった。初めて見る目だ。嬉しいような、面倒くさそうな、見ていたいけど見ていられずに明後日に視線を投げた。  悠介が俺の左の手首を攫って引き寄せつつナナに突っかかる。 「ちょお待て。三人?どの三人?」  今ここにいるのは四人だ。翼が若干遠いけど。翼は黙って先に帰ったりはしないし、話は聞いているけどむやみに混ざったりはしない。嫌な予感だけは感じているのか、眉間にシワが寄っていた。俺も似たような心境だ。  俺と翼の嫌な予感を肯定するように、ナナが俺の腕をぐいと引いてさらにくっついてくる。当然でしょ?とばかりに真顔のオマケ付きだ。 「ボクと翼ちゃんとすぐる」 「オレも混ぜてよ!荷物持ちでいいから!」  流れ的に予想できたナナのセリフと、必死すぎる悠介の叫びにちょっと笑った。恨みがましげに悠介に睨まれ、掴まれた手首に力が入る。  俺がヤキモチをやくと喜ぶ悠介の気持ちがちょっとわかった。独占欲が嬉しい。奪われまいと必死な顔がかわいい。想ってくれる心が愛おしい。  珍しく、少しだけイタズラ心が湧いた。 「荷物持ちは任せてくれていいよ」 「優まで仲間はずれにしないで⁉」  本気の懇願にナナと二人で笑って、ふと駆られた衝動をやり過ごす。人目がなかったらデコチューくらいしちゃってたかもしれない。  好きな子をいじめたい心境は今まで理解できなかったけど、こういう感じだろうか。執着されたい。独占したいと思われたい。もっと、求められたい。だからちょっかいだして、反応で確かめる。少なくとも俺は、片思いだったら絶対できない所業だ。 「なんでもいいけど、そろそろ移動しない?」  男三人でじゃれていたら、いい加減ジャマだと判断したらしい翼が一言かけて歩き出した。慌てて後に追うけど、歩きながらも悠介とナナはやいやいと言い合い続けている。  先を行く翼に歩調を合わせると、ちらりとこちらを見たもののすぐに視線は前へ戻った。 「二人でどっか行くんじゃなかったの?」 「あ、うん……どっかっていうか、なんていうか」 「別に詳細話さなくていいけど。邪魔するつもりないし」  言葉通りなんだろうなあ、と思う。俺と悠介が二人でいたいなら別行動をするし、みんなでわいわいしたいなら傍にいてくれるのが翼だ。  甘えているんだと、わかっている。昔からそうだ。ずっと、守られている。 「央とは仲良くできそう?」 「うん。今みたいなテンションまだ慣れないっていうか、ちょっと久々で新鮮って感じするけど」  少しだけ振り返れば、二人はいまだ論争中だ。中三になった春、たくさんの友達から少しだけ距離をとってから、帰り道にこんなに賑やかなことは滅多になかった。新しくできた友達は結月ちゃんや部長みたいな静かなタイプだったから、言い合いをしたり、大声で笑ったりみたいなことはほとんどない。  悠介も、俺と二人の時はなんだかんだ普通だ。ナナといると普段見ない顔が見られてちょっと嬉しいなんて、ずいぶん余裕のある感想も抱く。 「ねえ!初詣一緒に行くよね⁉初売りも!」 「うぉっ、と、え?あ、うん」  どん、と背後からタックルする勢いでナナが断定調で聞いてきた。体格差のせいか衝撃はさほどでもないけど、いきなりでびっくりしたから返事がとってつけたようになる。  俺の返答はお気に召さなかったのか、ナナは眉を釣り上げて更に詰問してきた。 「なに、ヤなの⁉」 「優、ゼロ距離の友達少ないからビビってるだけよ」 「び、ビビってないっ……あの、ビビって、ないしっ、出かけるのヤじゃないから……そんな、揺らさないで」  マフラーを鷲掴まれて勢いよく前後に振られたので、なんとか宥めようと声を出す。しかし、結局見かねた翼が止めるまでナナは俺を揺さぶり続けた。あたま、ぐわんぐわんする。  悠介に心配そうな顔で覗き込まれながら少し歩き、まだ少し不満そうな顔で翼の注意を聞いているナナを窺った。  本当に、ビビってるわけでも、一緒に初詣が嫌なわけでもないから、なんとか誤解は解きたいところだ。 「えと、初詣と初売り?あとで連絡でもいい?」  高校生なのだから、ある程度は時間の融通を自分でつけられる。高校生だからこそ、避けられないイベントもある。年始の親戚の集まりはその最たるもののひとつだ。特にうちは、姉の許しなく欠席はありえない。  その辺はお互いの共通認識だったのか、ナナはそれでいいよ、と軽く頷いた。鼻歌でも歌いそうな軽い足取りで数歩分先を行くと、くるっと振り向いてニヤッといたずらっ子の顔をする。 「しょーがないから、ゆーくんも一緒に来てもいいよ」 「しょーがないってなんだよ!」  きゃー、と男子高校生にしては可愛らしい声を響かせながら、ごく小規模な追いかけっこが始まった。兄弟のよう、と表現していいのかどうかは微妙なところだけれど、一番近いような気もする。  悠介は一人っ子だからか、あんまり兄貴っぽい感じはしない。放任で育ったしっかり者、って感じだ。央は弟なのか妹なのか迷う。いや、間違いなく弟のはずなのだけど。とにかく末っ子っぽいイメージだ。家族構成はまだ知らないから、今度聞いてみよう。  とにかく、わかりやすい事実は一つ。 「仲良いんだな、ほんとに。教室でもあんな感じ?」 「まあ、そうね。だいたいは。優だって、すぐなれるわよ」 「うん。……翼も、なんか仲良くなったんだって?」 「ん、まあね。こっちもイロイロあったから」 「そっか」  翼と話していると落ち着く。学校にいる間ずっとそわそわして、ホームルームが終わってすぐ走ってきたのがずいぶん昔のことみたいだ。  守られている実感がそうさせるのか、ただ甘えてしまっているだけなのか。どちらでもいいけれど、何かしら恩返しがしたい。 「悠介とは」  少しだけ、翼の声が小さく沈んだ。表情を窺おうにも、珍しく俯きがちで俺からは見えない。  何かを言いかけては口を噤み、言葉を探すような沈黙のあと、翼は小さく息を吐いた。 「ごめん、なんでもない」 「だいじょうぶ」  とっさに出た言葉に、翼が顔を上げた。なんだかそれだけでほっとする。それと一緒に、心配をかけていたことが身にしみた。  悠介との距離感や、自分の許容範囲がわからなくなって、動けなくなって、顔を合わせれば気まずくて、会えなくてほっとするくせに、会えないのはイヤで。今日はきっと会いたくて仕方ないみたいな、変な顔をしてた。  迷ったり、怖がったり、そういうかっこ悪いところは翼に隠せたためしがない。 「大丈夫。俺が怖がってただけで悠介は悪くないし、怖かったのも……たぶん、もう平気」  まだ、実際やってみたらダメかもしれない可能性は捨てきれない。それでも平気だと口に出せばそんな気がしてきた。 「そう」  翼が笑うと、不安が薄れていく。俺の幼馴染すげえなって、自然に笑えるようになる。  央と話して気づいた感情に、芯みたいな、輪郭みたいなものができていくのがわかった。翼の存在が、俺の存在を明確にしてくれる。きっと、翼が俺よりも俺を見てきたことを知っているから、そう思うんだろう。 「優。今日、帰ってくる?」 「え、と……」  だいぶ際どい質問だ、と思うのは、やましい期待があるからかな。詳しいことは聞いてこないし、こちらも話さない。でも、察してしまうこともある。  ナナの首根っこというか、マフラーを捕まえた悠介と目が合って息と足が止まった。無意識に視線が下がって、一歩先で歩みを止めた翼を見てようやく呼吸を思い出す。  翼の質問、昨日のナナと話したこと、自分の気持ち。順番に思い出して、今言えるそのままを口に出した。 「わかんない。昨日、ケーキ作ったから姉さんたちと食べて」 「わかった。ありがと。これ、今のうちに渡しとくわ」 「え?」  翼が学生鞄から小さな包みを取り出して渡してくる。流れで受け取ったそれは、シンプルだけど綺麗な藍色の紙袋で、空色のリボンのところには小さなベルが付いていた。  手のひらに乗るくらいの包みと翼の顔を見比べるうちに、翼は更に二つ、包みを取り出す。 「悠介にも」 「オレも?」 「これは央に」 「えっ?あ、はい……え⁉」  俺のやつの色違いっぽい、燕脂の袋に銀色のリボンがかかったものが悠介の手のひらに乗る。ナナには両手に収まるくらいの小箱で、オレンジ色のリボンが鮮やかだった。  三人それぞれに渡すものを渡して、満足した顔で翼は再び歩き出す。 「メリークリスマス。じゃあね」 「え、ちょ」 「待ってよ翼ちゃん!すぐる、連絡ゼッタイだかんね!まだ良いお年をって言わないかんね!」 「う、うん」  ビシ!と指を刺して念押ししてくるナナに素直に頷く。ナナは満足げな笑顔を見せ、慌てて翼の背を追いかけていった。  同じ電車に乗るはずなのに見送ってしまったのは、翼がそうさせる勢いだったからだ。邪魔するつもりはない、との言葉通りで、文句を言おうにも言葉がない。 「……なんつーの、ああいうの。すまーと?勝てる気がしない」 「俺、ここ十年はそれ思ってる」  同じく隣で立ちすくんで二人を見送っていた悠介の言葉に真顔で頷いた。  道のど真ん中で立ち往生していたのを思い出し、歩き出そうとすると袖口を引かれる。そんな些細なことに、そっか二人っきりだ、なんて思ってしまって心臓が跳ねた。  俺の心中なんて素知らぬ顔で、悠介は道の端に寄って今しがたもらったプレゼントに手をかけた。 「なんだろ」 「さあ……会えるかわかんなかったから家に置いてきちゃったんだよな、俺。まあ、今の感じじゃ渡すスキなかったけど。明日でいいかな」 「……プレゼント、あげんの」 「え?うん……毎年の恒例行事的な?うちの親忙しくて翼んちに厄介になることもよくあったし」  半分独り言のつもりで口から出た言葉は無意識だった。手を止めて見上げられて目が合う。  うちと翼の家はお隣さんで家族ぐるみの付き合いがある。うちの姉弟と翼んちの兄妹みんなでちょっとしたプレゼントをそれぞれに送りあうのが慣例だ。お兄さんたちにはちょっと凝ったケーキなり料理なりで済まさせてもらい、姉たちにはリクエストを請い、毎年翼の分で頭をひねる。今年は手作りのリュックにした。  いつものことすぎて全く意識していなかったが、高校生の男女でプレゼントのやりとりって、もしかして特別だったりするだろうか。幼馴染でもアウトだったりするのか。  翼が気にしていないなら世間体など知ったこっちゃないが、悠介の表情がどこかひっかかる。 「なに、ヤキモチ?」 「……いーよ、プレゼントくらい。そりゃそーかと思っただけ」  思いついて口に出したそれは正解だったらしく、図星をつかれて居心地悪そうな悠介は視線を外して唇を尖らせた。かわいい。  触れたい衝動をなんとか堪えているうちに、悠介は開封の儀を再開した。シールの封を丁寧に剥がして中身を取り出した悠介に倣って、俺も中を確認する。 「おー……シャレオツ」  手のひらに収まるくらいの小さなそれは、そこらのドラッグストアにあるか怪しいくらいには、ちゃんとしたリップバームだった。パッケージは英字で、翼の字が並ぶメッセージカードが同封されている。簡単な注意書きを日本語にしてくれたんだろう。  一週間くらい前だったか、そろそろ新しいの買わなきゃとぼやいたような気がしなくもない。それから用意したのだろうか。おそらく姉に聞いただろうブランドものだ。  人の言動を本当によく見聞きしている。俺は買い足そうとしていたし、悠介はさほど気にしないらしく唇が荒れていることもしばしばだ。俺たちは学校も違うし、おそろいのブランドものなんて目立つもの持っていても、気づく人はそういない。 「お礼……とりあえずメッセ入れとくか。あー、もらえると思ってなかったから何も用意してねーや」 「ついでだから気にすんなとか言いそう」 「……ツーカーかよ幼馴染。まんま返ってきたわ」  プレゼントを丁寧にカバンにしまう。その間にもメッセージのやりとりは続いていて、ナナからちょうカワイイ入浴剤もらった!と写真付きで報告が来た。ナナが好きそうな可愛らしい形だけど若干見切れていて、写真の半分は嬉しそうなナナの笑顔だ。  女子顔負けの完璧な自撮りだなあなんて思っていると、大真面目な顔の悠介に袖を引かれる。 「オレらも撮ろ。ツーショで」 「えー……?自撮りでナナに対抗してどうすんの」 「なんか悔しいじゃん。オレのピンじゃ敵うわけないからこそのツーショじゃん、リア充感じゃん」 「男二人でリア充感て言われても……ナナと翼のツーショに比べたら見劣りするだろ」 「くっ……オレが優並みにイケメンだったら負けねえのに」 「だからなんの勝負なんだよ」  呆れ顔で断れば、ちぇ、と拗ねたように俺の肩に頭を乗せて寄りかかってくる。そのままメッセージのやりとりを続けるから、なんとも居心地悪く悠介の気がすむのを待った。  ギリギリ友達の、そこらの道端でしても微笑ましく思われて終わるスキンシップ。腰に手を回したり、あまつさえ抱き寄せたりしなければ変に勘ぐられることもない。はずだ。そう信じて棒立ちを決め込む。 「くっそー、仲良しかよコイツら……あ、これから買い物行かねえ?翼が好きそうなの教えてよ」 「え……うん」 「優?」  クリスマスイブに恋人といて、別の女の子へのプレゼント選びをするのはアリだろうか。普段の俺だったらアリだと思う。相手、翼だし。  自分はしっかり翼へのプレゼントを用意していて言えた義理ではないかもしれないけど、今日は悠介を独り占めしたかった。 「それ、今から?」 「や、今度でもいいけど」 「ケーキ作ってきたから、悠介んちで一緒に食べたいなって……」 「え、うち?」  悠介の顔が引きつったのに気づいてしまって、心臓が縮む。今までほとんど二つ返事で頷いてくれていたから油断していた。  嫌だとか、都合が悪いとかなら無理強いはできない。ちょっとでもいいから会いたい、二人きりになりたい、そんな当初の目的は果たしているけれど、正直に言えばもう少しだけ一緒にいたいし、場所によっては恋人っぽいこともしたい。 「あっ!ダメじゃない!ダメじゃないからな!ダメでは、ないんだけど……!」  残念に思ったのが顔に出てたらしい。全力でダメじゃないを連呼されて、ダメじゃないならイヤなのか、みたいな卑屈な考えもなくはないけど、必死過ぎて申し訳なくなる。 「べつに、無理にとは」 「無理とかイヤとかじゃなくて!来てほしいけど!えーと」 「なに?」  珍しく歯切れが悪い。言いにくそうに、というか、言わなきゃだめ?って顔で見てこられて罪悪感が湧いた。それもなんとなく察してくれたのだろう、悠介は渋々口を開く。 「今日……お袋、夜勤で、その……若い子はクリスマス忙しいだろってこの週末ガッツリ仕事入れてて……帰ってくんの、週明けらしくて。まあその分年末年始は休むらしいんだけど」  ボソボソと話す悠介の言葉をゆっくり理解して、少し気恥ずかしくなる。  おばさんが帰ってくるまで多少の時間は二人でいられるだろう、くらいのつもりだったのに、クリスマスの夜に親が帰って来ない家で二人きり。お膳立てされたような、あの時、怖がって進めなかった一歩を踏み出すチャンスだ。  どこまでできるかは置いておいても、もう一度触れてほしいっていう気持ちを再確認して腹を括る俺に対し、悠介はまだ口の中でもごもごしている。 「なに?」 「…………無理やりじゃないなら、恋人……連れ込んでもいいって」  連れ込むって。おばさん、別の言い方はなかったんすか。  内心ツッコミを入れて、悠介の心中を察した。ただ実行するのと、親に推奨されるのでは心持ちがまるで違う。なんなら言わせて悪かったと俺が謝りたい。 「思春期の息子にそゆこと言う?みたいな……応援なのか知らんけど逆にやりにくいわ!みたいな……あっ、ヤるってそーゆーのじゃなくて!家に呼びにくい的な話だから!」 「わかってるからもう少し音量下げて」  誤解されまいと思ったのは理解できるけど、ここは駅前通りだ。男子高校生の下ネタなんてもっとひどい話はたくさんあるだろうけど、どっちにしろ大声で話すもんじゃない。  強くなった語気を宥めつつ、いい加減移動しようと足を踏み出しかけた時、まだ何か言いたげな悠介の顔が視界をかすめた。しばらく黙って様子を見ていたら、大真面目な顔でぽつりとつぶやいた。 「……手を、出さない自信がない」  一瞬で顔に血が上ったのがわかる。耳っていうか、首まで熱い。マフラー取りたいけど絶対取れない、っていうか熱がこもるのは無視して目元近くまで引き上げた。  お互い、そんなにそういう欲を隠さないのは男同士だからだと思う。耐性というか、慣れみたいなものもあった。だけど、こないだ逃げて以来のあからさまな言い様に完全に不意をつかれた。  心臓が爆走して痛いくらいだ。耳の奥で血が流れてるのが聞こえる。悠介が伸ばしてくれた手を、今度こそ取りたい。  うつむきがちに自分の理性が信用に足るかみたいなことをブツブツ言ってる悠介の耳に顔を近づけて、悠介にだけ聞こえる声量で、精一杯ふつうを装って囁いた。 「いーよ、手、出して」 「へっ」  悠介の顔が上がるよりも先に早足に歩き出す。どもりながら待ってと叫んだ悠介の顔を見たかったけど、きっとまだ顔が赤いから振り向けなかった。  染まった耳は見られてしまっただろうけど、恐らくお互い様だ。色づいた肌は冬の寒さのせいにして、前を向いて足を進めながら口を開く。 「肉、買って帰ろ。クリスマスだし。手羽元とモモ肉どっちがいい?」 「……優」 「おっさんみたいな下ネタはいーから。どっちもいらない?」 「どっちもいる!」 「ハイハイ、野菜も食べろよ」 「デザートは」 「ガトーショコラ」 「もう一声」 「ブッシュドノエルがいいなら作るけど」 「それも気になるけど、さっきの」  少し大股で歩けば、身長差の分、コンパスの短い悠介は若干小走りになって追いかけてくる。話しながら歩けばすぐに駅について、定期のICカードで改札を抜け、タイミングよくホームに入ってきた電車に乗り込んだ。  車両が動き出せば、前を歩いて顔色を隠すなんて芸当もできない。いろんな理由で上気した頬を晒した悠介はまっすぐこっちを見てきて、少し言葉に詰まった。 「……男に二言はないから変な言い方すんな」 「っふが」  照れ隠しに真面目な顔した悠介の鼻をつまんだら間抜けな返事が返ってきて、二人して笑った。  鼻から離した手は悠介の左手にさらわれる。自分たちの影に隠れて見えない位置まで持って行かれて、指先が絡んだ。  いつもなら、外ではしない触れ方だった。少し落ち着いた気がしていた心臓がまたトクトクと存在を主張する。  コートで着膨れていてドアの近くなら死角を作れるから。電車を降りるまでの数分だけだから。  珍しく心の中で言い訳を並べて、指先の温度を感じる。握るってほどじゃないけど、電車の揺れくらいじゃ離れない触れ方がくすぐったい。黙ったままでいるのも居たたまれなくて話題を探した。 「そういえば、ナナに告られたんだって?」 「え?うん……ん?どこ情報?や、本人か。……こういうの、言った方がいいのか言わない方がいいのか、どっち?電話とかメッセじゃねーなと思って言わなかったんだけど」  肯定されて終わりかと思っていたのに、ちゃんと考えてくれていたことに驚いた。悠介個人のことにも、俺がどう思うかが影響するのか。なんだろう、嬉しい。  意外だと思ったのは顔に出ていたらしく、心外だとばかりに手のひらに軽く爪を立てられた。ごめんと謝ったけど、少し顔が緩んでる気がしてマフラーで口元を隠す。 「うーん、どっちだろ」 「優がしてほしいのはどっち?」 「……隠されたらもやっとしそうだけど、言わなくていいって悠介が判断したならそれでいい」 「それは、信頼ですかね?」 「……そう、なのかな。隠すのと、黙ってるのってちょっと違う気しない?」 「ん。なんとなくわかる」 「誠意のかたちなんて人それぞれだし……聞いたら答えてくれるなら、俺はそれでいい」  俺の答えはお気に召したのか、悠介はなんだか優しい顔で微笑んでいた。その顔好きだなと思ったのに、なんだか恥ずかしくなって見ていられない。  視線を外したタイミングで電車が悠介んちの最寄り駅に着いた。触れていた手が離れて、人の流れに乗って電車を降りる。 「優は?言ってくれる?」 「俺?」 「確実に俺より告られる確率高いだろ」 「そういうことがないようにってキャラ作ってんのに……」 「そういやそーだ」  にししって笑う悠介の半歩後ろをついて歩いた。改札を出て、スーパーを目指す。 「悠介はどうしてほしい?」  何気なく聞き返したつもりだった。すぐに返事があると思っていたのに、悠介は立ち止まって黙り込んでしまったので危うくぶつかりそうになる。  軽く顔を覗き込むと、悠介は眉間にシワを寄せた苦々しい顔で、ものすごく言いにくそうに口を開いた。 「…………ちなみに、今年に入って何人くらい……?」 「三人。全員、初対面の名前も知らなかった子」  今年っていうか、悠介と付き合いだしてからだ。しばらく平和だったのにどうしたことだろう。いや、文化祭の後は去年もあれやこれやあったけど。  女の子っぽい言葉遣いと、男子高校生としては綺麗めの所作、加えて手芸部の活動をはじめとする女子力の高い趣味、特技による校内への牽制効果は絶大だ。八割くらい女子扱いされるのにも、もう慣れた。  ちなみに、校外での対策の一つとして可愛らしい色やデザインのシュシュを愛用している。勝手に彼女からのプレゼント、みたいな勘違いをしてくれるらしい。  まあ、あれこれしたところでここ三ヶ月弱の間の三人のような心の強い子もいる。失礼な言い方になるけれど、事故みたいなものだ。 「黙っててごめん。聞かれれば答えるよ。正直、誰に告白されたなんて話、報告するものっていう発想がなかった……んだ、けど。悠介は別、だよな。うん」 「恋人っぽい特別扱いってドキドキするな」 「茶化すなよ」  思いつめたような顔がいつもの感じに戻ったのを確かめて、改めて歩き出す。駅から悠介の家の途中にあるスーパーに寄るのもな二週間ぶりくらいか。 「なんというか、あんまり俺の事情で振り回したくはないんだよな……翼とか、ナナとかと仲良くしててやきもち妬いてくれるのは嬉しいけど」 「それもそーだ、オレ的にもそっちのがモヤる!翼はともかく、仲原といきなり距離詰めすぎじゃね⁉︎」 「うん、俺もそう思う」  頷いたら、思い切りヘソを曲げた顔をされた。口がひん曲がってる。地団駄を踏みそうな、外だったら道端の石ころでも蹴飛ばしていそうな雰囲気だ。  さっきまで機嫌よく俺が野菜を入れるカゴを持ってたのに、悠介はわざと膝に当てるように歩いた。やっぱり、やきもち妬かれるのはちょっと嬉しい。  勝手知ったる他所のスーパー、迷いなく進む俺の後について、悠介は時々俺の膝裏にカゴをぶつけて不満を伝えてきた。態度が小学生みたい、なんて言ったら怒るだろうけど、結局一言で言うなら可愛い、だ。  精肉売り場で鶏肉を吟味しながら、昨日のナナとのやりとりを思い出す。 「ナナにさ、体育祭とかの写真もらった」 「……なんて?」  ガシガシとぶつかってきていたカゴの動きが止まった。地味に痛かったからそれはいいんだけど、数歩進んでも追ってくる気配がなくて振り向く。  理解できない、みたいな顔の悠介がいた。眉間にシワが寄ってるのは珍しい。 「徒競走かなんかで派手にすっころんでるやつとか」 「ちょ、おい。よりによってそれかよ︎」 「あと、誰のか知らないけどお弁当のおかず、あーんてしてるのとか」 「えー……それ覚えてない。なんだっけ」 「去年のって言ってた気がする。女子にもらったって」 「ますます覚えてない」  写真としてはかわいいんだけど、シチュエーションとしてはすごくモヤっとした。俺と会う前だし、その場のノリだってわからなくはないけど、なんとなくイヤなんだ。俺が翼やナナと仲良くしたら悠介が拗ねるのと似たようなもの。  肉の選別を終えて、記憶の中の悠介んちのキッチンの調味料を思い出す。そろそろ砂糖がなくなりそうだったはずだ。でも、最後に行ったのはずいぶん前だからおばさんが買い足してくれているかもしれない。  悠介は調味料を使うような料理をすることがほとんどないから知らないだろう。一人の時にカップ麺とかインスタントのみそ汁とか、あっためるだけのおかずとかばかりなのはどうかと思う。おばさんの苦労がうかがえるというものだ。  かといって、俺がいれば作ってやっちゃうのもそれを助長しているのだろうけど、まあそこは今は置いておこう。砂糖はそうそう悪くなるものじゃないし、なんならうちに持って帰ってもいい。  調味料のコーナーに寄ってからレジに向かった。こうして悠介と二人でスーパーに寄るようになって間もない頃は、隙をみてお菓子を入れたり戻したりの幼稚園児とその親みたいな攻防があったものだ。それがなくなったのは、そんなことしなくても俺に言えば摘めるような菓子は作られると悠介が学習したから。お気に入りはメレンゲ使ってふわふわに作ったホットケーキ。  もしかして俺って悠介の食育上よろしくないのでは、なんて考えてるうちに会計も終わる。お手伝いを覚えた小学生みたいに悠介がカゴからエコバッグへ買ったものを入れかえ始めた。ちなみに、悠介がエコバッグを持ち始めたのも俺の影響。  俺の甘やかし方は恋人っていうより親みたいだし、甘える代わりにお手伝いを覚えた悠介は子どもみたいだ。でも、肉のパックは小袋に入れたり、つぶれないように入れる順番を考えたりするようになったり、俺が鞄から出したエコバックにも同じくらい詰めたりする悠介は、嫁さんに家事を仕込まれた旦那を見てるみたいな気分にもなる。  俺が姉に仕込まれたことは、きっとこれからの俺にも役立つ。俺が悠介に教えたことは、そのうちのごく一部でしかない。俺がそばにいるなら、それでも問題は多分ないからいいやなんて、我ながらだいぶ重い。  それでも、ドンと来いとか言って笑いそうだな、なんて思いながら家路をたどった。 「もう、女子からあーんとかしないからな」 「は?」 「気にしてるかなって」 「あー、うーん……別に?」 「別にかよ。優にはあーんしてほしいです」 「ソーデスカ」  悠介の生活力について考えている間、悠介は俺のことを考えていてくれたらしい。返事が素っ気なくなったのは悠介が相変わらずストレートにモノを言うからだ。照れるじゃん、強がりだって言いたいじゃん。  ちょっと申し訳なくなって、言うのは少し恥ずかしかったネタをひっぱりだした。 「騎馬戦で活躍してるやつ、カッコよかった」 「う……」 「なに?」  急に両手で顔を覆って天を仰ぐから、悠介が持っていたエコバッグがガサガサと音を立てた。おい、卵入っってるんだぞ。  肘で止まったバッグは歩く度に悠介の胸のあたりをごすごす叩いて痛そうだけど、悠介は気にした風もなくそのまま歩く。これ止まった方がいいのか。 「急に褒めるから……テレる」  小さな声と、真っ赤な耳が言葉を裏付けている。言うの恥ずかしいな、なんて思ってたのに、反応がかわいくてどうでもよくなった。 「ふふ、なんだそれ」 「イケメンから言われるカッコイイは特別なんですー」  笑っちゃったけど、悠介は怒らなかった。顔を隠していた手を外してエコバッグを持ち直す。照れたまま、ちょっと嬉しそうにしてるのがわかってくすぐったい。  コートのポケットの中でスマホに触る。いきなりカメラ向けたら驚くかな。片手が塞がってるしブレるかもしれない。  結局、スマホがポケットから寒空の下に出ることはなかった。代わりに昨夜の感動を口にしてみる。 「なんか、さ。あんまり悠介の写真持ってないなって思って。ナナにいっぱい写真もらって、カメラロールに悠介がいっぱいいるの見たら、嬉しくなった」  毎日とは言わないけど、しょっちゅう一緒に帰って、会わなくても電話もメッセージのやりとりもする。目の前で笑ったり拗ねたり照れたりする悠介を見ているだけで満足してたのに、いざ手元に写真があると、そわそわする時がある。  悠介も写ってる文化祭の時の集合写真は机に飾ってある。スマホに送られてきた画像と、感じることが違うのが不思議だった。何が違うのかわからないけど、手元の画像たちは、見ていてそわそわする、ドキドキする、会いたいなあって思う。  自分で自分の脳内お花畑感が恥ずかしくなってマフラーを引き上げて鼻まで隠した。悠介の様子を窺えば、目元も耳も真っ赤だ。 「悠介?」 「ごめん、ちょっと待って、顔熱い」  そんなに照れなくてもよくないかな。でも、かわいいからいいか。  本音を言うのは照れ臭かったけど、そんな反応が返ってくるならこれからも頑張ってみてもいいかもしれない。 「俺も、写真撮っていい?」 「ダメなわけないだろ。つーかオレももっと優撮る!それとは別に会う前の写真見たい!欲しい!」  調子にのったら思わぬ反撃がきた。勢いつけすぎだろ、ビビるわ。あんまり真剣な目で迫られると、まっすぐ見返せないからやめてほしい。 「お、俺のはいいよ」 「よくねーから!優がくれないなら翼にもらう!いや、妹ちゃんかお姉さんにねだる!」 「こわいもんなしか!俺がやるから姉さんたちにはねだんな‼︎」 「翼ならいいのか⁉︎アルバムを見に家に遊びに行きたいです!」 「マジでやめろ」 「ケチ!」  子ども心に、かわいいって言われるのは好きじゃなかった。一丁前に男の子だったんだと思う。  大人の顔色見てニコニコはしてたけど、内心はカッコイイって言われたかった。かわいいものが嫌いだったわけじゃないけど、それとこれとは話が違うものだ。少なくとも、俺にとっては。  悠介に言われたら自分がどう思うのかわからなくて、ちょっとイヤだ。今の俺に対するかわいい、は俺が悠介に対して思うのと似てるのかなって思えるからまだ平気なのに、変な感じ。 「そういう、話じゃなくて」 「ん?」  我ながらアホなやりとりをしてるうちに、悠介のアパートが見えてくる。生まれる前に建てられた、決して新しくはないそのアパートは、なんだか暖かくて好きだ。  キッチンは狭いけど料理をあんまりしない佐々木家では十分で、風呂は一人ならゆっくりできる程度には広い。生活を考えて、自分たちに合うようにと選ばれた部屋。 「ナナと話してたらさ、なんか」  好きな場所だけど、入る時はまだ少し緊張する。招かれて、歓迎されている照れくささ。悠介のテリトリーに入る感覚。少しずつ自分がそこに慣れ始めている気がして、嬉しいような、自意識過剰だと我に返るような。  階段を上って、悠介の手から買い物袋を預かった。自由になった両手でカバンの中から鍵を出す悠介を見ながら、もう何度思ったか知れないことをまた思う。 「自分で思ってたより、ずっと……すき、だなあと、思って」  ガチャン。  鍵が開く。しかし、扉は開かない。  鍵を刺したままの悠介が、ぽかんって顔で俺を見てた。だいぶ恥ずかしいこと言ったのに反応がないのは困る。 「あの、なんか言っ、てぅえっ?」  ガチャ、ギィバタン! 「仲直りのちゅー、する?」  ドアが勢いよく開いたかと思うと、結構な強さで腕を引かれて部屋の中へ連れ込まれた。目の前に悠介の手で狐が召喚される。  一時停止からの早送りかよ、ビックリすんじゃん。ていうか、何これ壁ドン?いや、ドアドン?  そういえば女子が教室で話してたことあったな。なんだっけ、逃がさない!みたいな感じにきゅんとするとか、彼で視界いっぱいになってドキドキするとか、なんとか。聞いた時は、へーそーなんだー、くらいだったけど、実際にやられると実感する。  俺の方が悠介より背が高いから閉じ込められてる感は薄いんだけど。逃げようと思えばたぶん逃げられるんだけど。これは、結構クる。  照明のついていない玄関は薄暗いのに、見上げられる視線の強さをビシビシ感じて逸らせない。そのくせ、キス待ちの狐が小首をかしげててかわいい。  ドキドキしてる理由が、ビックリから好きに変わってく。わー好きーみたいな、アホな感じで心臓が躍ってて色々ヤバい。暗くてよかった。きっとふやけた顔してる。  すごく近いけど、お互いセーターやらコートやらで着ぶくれているからドキドキは伝わってないと信じたい。躍る心臓は喉も圧迫するのか、ちょっとつっかえながら必死に声を出した。 「ケンカ、してたつもり、ないけど」 「それはそーだけど。ちょっとヒートアップしたし……それに」  悠介の視線が下がって、そのまま肩口におでこを押し付けられる。しょぼくれた雰囲気の悠介は珍しい。  なんだか不安になってぎゅっと両手を握ったら、ガサ、とエコバッグが音を立てた。存在忘れてた、あっぶねえ。 「ごめんな」  買い物袋に気を取られた隙に投げられた言葉に、息を呑んだ。相変わらず俺はドアと悠介に挟まれている。正面は悠介がいてあたたかいはずなのに、背後から感じる冷気が不安を煽るように主張してきた。  謝られるようなことをされた覚えはないし、顔を見て安心したいけど悠介は顔を上げない。俺は身動き取れなくて、せめて両手が空いていれば抱きしめられたのに、それもできなかった。  できることを探して、精一杯明るい声で聞き返す。 「なんの話?」 「正直に言う。あの後、わざとバイトのシフト増やした」  なんだそんなこと、なんて笑うつもりだったけど、悠介の言葉を理解するのに少し時間がかかってタイミングを逃した。  あの後。俺が、悠介を拒んだ後。わざと、会わない理由を作ってたってことか。 「我慢、できる気がしなくて。オレのせいで傷つけないようにと思ってそうしたのに、会える時間が減ったら余計に触りたくなって、理性と戦ってたら挙動不審になってた自覚もある。本当にごめん」  悠介は縋るみたいにすり寄ってきた。それでも、左手はドアについたままだし、狐つくってた右手は下されて俺に触れることはない。  こんなに近いのに、マフラーごしでも息遣いは感じるのに、悠介の手は俺に触れなかった。それが寂しくて、俺を想う悠介の心だと思うと嬉しくも思う。 「なんで、謝んの」 「え」  会わない理由が必要だったのは、会いたいから。  触れないのは、本気で触れたいと思ってくれてるから。 「俺のためだったんじゃないの?俺なんて……寂しいくせに、会えない日はそれはそれで平穏、なんて思ってた。こっちこそ、ごめん。ありがとう」  首筋にある悠介の頭に頬を寄せた。髪が冷たい。  不意に手首にひやりとしたものが触れる。コートの袖と手袋の間に忍び込んだのは、悠介の冷えた指だった。手袋を軽くひっかけるように、指先が遊ぶ。 「寂しかった?」 「ん。まあ、それなりに。でも、どんな顔したらいいのか、どこまで近づいても自分が大丈夫なのか、わかんなくて」 「うん」  オレの手のひらから少しだけ体温を奪っていた指先と体が離れて、今度はエコバッグが攫われた。床に下された気配がして、また狐が戻ってくる。 「ケンカじゃないけど、お互いごめんってことで、仲直り?」  付き合う前、仲直りのちゅー、なるものを図書館で出会った少女に教わった。口にするのか、ほっぺにするのか、本当のところはわからないけど、狐を模した指先を合わせる形で俺たちの習慣になっている。唐揚げの最後の一個を取り合ったとか、半分こするのは肉まんにするかピザまんにするかとか、くだらない言い合いの終わりの合図だ。  自由になった左手で狐を作ろうとして、形に決まりなんてないんだし、って思い直す。持ち上げた左手は悠介の右手をスルーして、マフラーごと襟足を包んで引き寄せた。 「こっちで」  久しぶりに触れた悠介の唇はひんやりして、少しカサカサしてる。オレの口だって冷えていただろうに、触れあっているとだんだんあたたかくなっていった。  唇から、頬へ、体へ、つま先まで、ちょっとずつ体がぬくく緩んでいくような感覚に浸っていると、狐だった悠介の手がオレの腰を撫で、背中へ回される。カサついた唇をなめれば、下唇を甘噛みされた。  しばらくじゃれあっていれば、互いの息はすっかり熱くなる。暖房もつけずに玄関先でいちゃついて体中ぽっかぽかだ。 「ねえ、あれ聞いて」 「あれ?どれ?」 「新婚さんの、旦那が帰ってきた時のやつ」 「……風呂か飯か?みたいな?」 「みたいなじゃなくて!もうちょっとかわいい感じで!」 「いや、飯の支度これからだし」  男のロマンがわからないとは言わないけど、言う側ってなると別の話っていうか、賛同しかねる。普通に恥ずかしい。  俺の心境なんて知ったこっちゃないのか、悠介は唇を尖らせて不満げだ。じゃあそっちが言ってみろなんて言ったらウインク付きでやられそうな気がして、俺は口を閉じることにした。  足元のエコバッグを持ち直して、靴を脱ぐ。悠介はしばらく考えるそぶりを見せ、よし、と何かを決めた顔をした。 「飯、風呂、優でいただきます」 「お、おう」  そんな宣言されて、どんな顔をしてどんな返事をすればよかったんだろう。悠介は俺の反応はそんなに気にしていないのか、室内に入り、鼻歌まじりにコタツの電源を入れた。  カバンを置きに行ったのか自室に消えた悠介を見送って数秒、立ちすくむ。男に二言はないとは言ったけど、こうも段取りバッチリにイタシましょうみたいな空気になると、恥ずかしい通り越して真顔にならざるを得なかった。思考がマヒしてる感ある。  マヒしたものは仕方ない。考えるのは止めてコートを脱ぎ、食事の支度をすることにした。 「……すげー豪華」 「ごめん、やりすぎた」  結果的に、こたつ机は作った料理で埋め尽くされた。否、若干乗り切ってなくてお盆の上に乗ってるのもある。いや、つい、こう、視界の端にいる悠介にドキドキしてるのをごまかそうと手を動かしてたらいつのまにか。  さて、ケーキもあるのにこれはどれだけ減らせるのだろうかと内心頭を抱えていると、隣からぐう、と元気な腹の虫が鳴いた。 「……えへ」 「思う存分食べてくれ」 「うん、いただきます。あ、そだ。忘れるとこだった。これからはコレ使ってな」 「ん?」  飲み物とか取り皿とかを用意してくれていた悠介が、俺の前に鮮やかな食器を置く。 「箸?」 「うん。優専用!マグカップも。あと、歯ブラシとコップも常備用を買ったし、予備のパンツもあるからいつでもお泊りオッケー!でも彼ジャーは萌えるので寝間着は俺の使ってな。優も着られるサイズ買ったから」  少し種類が増えた調味料や紅茶、作り置きの常備菜を入れておくために買い足されたタッパー、新調された包丁。悠介と悠介のお母さん、二人の思い出が詰まった場所に、ちょっとずつ俺が混じっていくのが嬉しかった。  ちょっとずつで十分だったのに、急に俺分増えすぎじゃないだろうか。おばさんにはなんて言ってあるんだろう。おばさんの胃は掴んでいると思ってるけど、場合によっては次に会う時にどんな顔をすべきか真剣に考えなきゃいけない。  言葉もなくぐるぐると思案してしまって、悠介が目の前で手を振った。 「優?……っあ、重かった?迷惑!?」 「え?あっ、ち、ちがう!」 「彼ジャーはアウトだった!?」 「い、や……そこは恥ずかしいけど」 「パジャマもかわいいかなとは思ったんだけど」 「ジャージでいい!ていうか、ちゃんと……嬉しい、し」 「ほんと?オレが選んじゃったから、好みじゃなかったらゴメンなんだけど」  少しだけ不安そうな顔をするから、改めて手元の箸を手に取る。雲一つない晴れた空色は不思議と手に馴染んだ。マグは深い藍色で、シンプルだけれどしっかりした作りに見えた。  長く使えるようにとか、使いやすいものとか、考えて、探して、選んでくれたんだろう。それが嬉しい。  口には出さなかったはずだけど顔は勝手に緩んでたみたいで、悠介は満足げに笑って手を合わせた。 「よかった!いただきまーす!」 「いただきます。ごはん、おかわりあるからな」 「うん!でも、満腹すぎて動けなくなるのはイヤだから腹八分目ちょいくらいを目指す」 「は」  新しい箸での最初の一口になるはずだった白米が、空しく茶碗に戻った。茶碗を落とさなかっただけマシかな。  本当に、今日はことあるごとに、何をするにも恥ずかしくなるし抑えがきかないし穴があったら入りたい。いや、挿れられるの俺か。ってそういう話じゃなくて。  意識しすぎかなって深呼吸した。空腹なのもきっとよくない。改めて新品の箸で一口目を頬張って顔を上げると、幸せそうに口いっぱい唐揚げを頬張っている悠介がいた。眺めてるだけでもやもやしてた感情が解けていく。  意識しようがしまいが、なるようにしかならないし、俺が悠介を好きなことは変わらない。今、一緒にいられることを楽しもうと思ったら呼吸が楽になった。 「ごちそうさまでした!」 「おそまつさまでした」  結局半分くらい食べて、両手を合わせた。残ったおかずはラップをかけて冷蔵庫にしまって、茶碗や箸を流しへ運ぶ。流しは二人並ぶには狭いから、洗い物はいつも悠介がしてくれた。  悠介が食器を片付けている間に俺が食後のお茶を入れるのがいつもの流れだ。お湯を沸かそうとケトルを手に取る。 「ケーキあるし、今日は紅茶かな」 「うーん、オレ、後でもいいなあ」 「お腹いっぱい?」 「だってどれも美味いんだもん……気ぃつけてたのに食いすぎた。つーか、運動したらまた腹減る、ってぇ!」  思わず足が出た。軽く足をぶつけただけで悠介は大げさに痛がったけど、口元が笑ってる。 「今日、オッサン発言多すぎ」 「えー?そう?なんだろ、浮かれてんのかな」  そう言われると、今さっき食べきれないほどおかずを作った俺としても返す言葉がなかった。浮かれてないなんて言ったらウソだろうな、くらいには自覚している。  恥ずかしいやりとりも、好きって言うのも、想われてるってわかる悠介の目も、嫌じゃない。恥ずかしいし、どんな顔してるかわかんないし、ニヤけないようにすると口が曲がるだけだ。 「風呂、先入る?」 「……あとで」 「一緒に入る?」 「入んない!」  悠介が余裕っぽいというか、楽しそうなのはちょっと誤算だ。笑顔を見ると嬉しくなっちゃって、うわーってなって、語気が強くなる。落ち着け、俺。  すぐにお茶を飲む感じでもなさそうだし、コタツ机の上を拭いてしまえばやることもなくて、そのままコタツに収まった。ぬくいなあって、ちょっとだけ冷静になる。現実逃避ではない。 「メリークリスマス」  コタツの魔力に抗うこともせず、少しひんやりした天板に頬を押し付けてぼうっとしてると、上から綺麗にラッピングされた手のひらくらいの箱が下りてきた。顔を上げれば、悠介が机の角を挟んで隣に座りこんでいる。  洗い物終わったのかと納得して、視線を下げるとさっきの箱がある。見れば見るほど、プレゼントですっていうビジュアルだ。ていうか、悠介はさっきメリークリスマスって言ったか。 「これは」 「プレゼント」 「え?なんで?」 「なんで?……クリスマスだから?」  お互いに素でなんでそんなこと聞くのかわからないって顔をして首を傾げた。瞬き数回分考えて、補足を試みる。 「えっと。箸とか、マグとか、じゃないの?プレゼント。もう色々もらったつもりだったんだけど。もらいすぎなくらい」 「それは優のだけど、うちに置いとく日用品じゃん」 「う、うん……?」  何を当たり前のことを、みたいな顔されても困る。 「要らなかった?プレゼント」 「えっ?いや、そうじゃなくて……さっき結構、盛大に喜んじゃったから、追加で来られても感情が追い付かない。みたいな?」  悠介んちに置いていく日用品なのは確かにその通りなのだけど、そういうことじゃない。悠介の家に俺の日用品が必要だって思ってもらえてたことが嬉しかったんだ。  しかも、こんなちゃんとしたのっていうか、綺麗にラッピングしてあるのがくるとは思ってなくて驚いたのもある。普段は縁がなさそうな、店に行くのも買うのもちょっと勇気が要りそうな品だ。 「そんな、喜んでた?」  意外そうな顔で確認される。悠介にとっては、特別でもなんでもないことだったんだろう。当たり前みたいに必要だと思ってくれたから、あげたいって思ってくれたから用意してくれたものだ。  だから、俺は嬉しかった。一人で感動してないで、ちゃんと言うべきだったんだ。 「うん、めっちゃ喜んでた。一周回って言葉が出てこなかったっていうか、ちょっと、きゅんとした」 「マジか」 「うん」  嬉しいとか、幸せとか、ちゃんと伝わってほしくて、しっかり視線を合わせる。照れくさかったけど、目が合えば自然に笑えた。 「さっきのも、これも、すごく嬉しい。ありがとう」  俺の顔もそこそこ赤い自覚はあるけど、悠介はみるみるうちに耳まで赤くなる。それでも視線は外さないから、こっちが根負けして逃げた。  渡すタイミングを見計らっているうちに半分忘れてたものに手を伸ばす。カバンの中のそれは、悠介がくれたものとは正反対の手作り感あふれる見た目だった。 「あー、えっと、俺からも……メリークリスマス」 「えっ?」 「え?」  悠介の正面に置いたのはキレイめの包装袋にリボンをかけただけのものだけど、一応プレゼントだとわかるはずだ。不思議そうな顔されても困る。 「ケーキがプレゼントじゃねーの?飯も、めっちゃ作ってもらったんだけど」 「え?ケーキはケーキじゃん。おばさんの分もあるし」  こんなやりとり、さっきもしたな。  悠介も同じことを考えたのがわかって、二人してふきだして笑った。 「まあいいや、嬉しいから。な、開けていい?」 「うん」 「……おお!手袋!」  わくわくとリボンを解いて、キラキラした顔でライオンの王子よろしく掲げられるとは思わずちょっと照れる。  早速はめて手を握ったり開いたりする様子を見る分には、サイズは大丈夫そうで安心した。手をつないだ時の感覚で作っちゃったけど、なんとかなってよかった。 「悠介、マフラーはするのに手袋してなくて寒そうだったから。使いやすい色にしたつもりだけど」 「超カッコイイ!気に入った!」  ちょっといい臙脂の毛糸とダークグレーのフェイクレザーで作った手袋は、特別難しいものじゃない。装飾もないし、ざっくり言えば二セット作って縫い合わせただけだ。丁寧に作ったつもりだけど、喜んでもらえたなら作ってよかった。  手以外でも感触を確かめるみたいに両手で頬を包んだ悠介が笑う。ああ、その表情好きだな。 「ふへへ、あったかい。売り物じゃねーの?って疑いたくなる安定の優クオリティだな。ありがと。大事にする」 「……ん」  笑顔が好きだな、と思う。俺が作ったものでそんな顔をしてくれることが嬉しくて、幸せだと思う。 「ふふ。優も笑ってないで開けてみてよ」 「え、笑ってた?」 「うん。ちょーかわいい顔で笑ってた。ちゅーしたくなった」 「……開けてからにして」  笑ってたっていうより緩んでただけな気がして、意識して表情を引き締めた。  促されたし、遠慮なくもらった包みに手を伸ばす。見慣れないロゴの入った包装紙を丁寧に剥がして箱を開けた。 「優が自分で作れなさそうで普段使いできるの何かなーって、めっちゃ考えたんだー」 「ペン?」 「うん。シャーペンなら、学校でも家でもオレのこと思い出してもらえるだろ?」  ぴたりと収められたペンを手に取ってみる。商品棚に無造作にまとめて置いてあるようなものじゃなくて、ケースに陳列してありそうな雰囲気があって、ただ持ち上げるのにもちょっと緊張した。  夜空みたいな青だ。磨かれた銀のパーツがシックで、高校生が持つには少し背伸びしているような気もする。 「どう?」 「うん、気に入った。慣れるまで緊張しそうだけど」 「へへ。会うの我慢してた分稼いだから、ちょっとイイのにしてみた。っても何万もするわけじゃないから気にせず使って」 「ん。ありがとう」  おばさんの教育の賜物なのか、悠介は案外、お金の使い方が上手い。不要なものは買わないけど、必要ならちょっと高くても買うし、手持ちがないなら自分で稼いでいた。そんな悠介が選んだものだから、感謝はしても遠慮はしない。  せっかくこんなに綺麗なのに、ペンケースにそのまま放り込んだらすぐに傷だらけになりそうだ。ペンケースの中にこれ用のポケットでも付けようか。  いっそペンケースごと新しく作るとこまで検討し始めたあたりで視線を感じた。顔を向ければ、思ったより近くに悠介の顔があって驚く。 「もう、ちゅーしていい?」 「……え?」 「開けたらって言った」  言ったか?言ったな、そういえば。え、待ってたの? 「あっ、ぅ……えっと」  自分の発言を思い出している間にシャーペンが取り上げられて箱に戻された。代わりに悠介の指が絡んでくる。くすぐったいし、恥ずかしいし、次に何て言っていいのかわからなくて変な沈黙が落ちた。  どうしよう。キスしたいとか、抱きしめたいとか、体に触れたいとか、プレゼントに浮かれて若干忘れてた色々がぶり返す。したいことはあるけど、どれもどう始めたらいいのかいまいちわからない。悠介がそういう雰囲気にしてくれたのに、いざ聞かれると頭が真っ白になってどう返したらいいのかわからなくなった。  いいよって言えばいいのか、黙って目を瞑ればいいのか、考えれば考えるほど動くタイミングを逃している気がする。やっぱいい、とか言われる前になんとかしたい。  ふと、今日、家を出る時に姉に言われたことを思い出した。 ——帰りは何時?赤飯炊いとくから。  て、違う。これじゃない。これは要らねえよって即答して首キメられそうになったヤツだ。  これじゃなくて。 ——困った時は、とりあえず手を握って三秒見つめなさい。なるべく上目遣いの眉は八の字で。三秒したら、ガッチリ合ってた視線をそらす。恥じらうのを忘れるな。 「………………っ」  前嶋家で姉の言葉は絶対だ。やってみたけど。たぶん、言われた通りにできたけど。できたというより、途中からそうせざるを得なかった、という方が正しい。  こんな、いかにもな空気で、胸ん中欲まみれの状態で、手を握って三秒以上好きな人の目を見続けるの無理。心臓苦しい。 「っ?ふぁ……ん⁉︎」  必死で暴れる心臓をなんとかしようとしていて、反応が遅れた。俺が握ってなかった方の右手で顎を固定されて唇を奪われる。  一瞬何をされたか理解できなかった。いつも、慎重に、確かめながら触れてくれるから。 強引にキスされたことに驚きこそあれ嫌悪感はない。姉の助言は困った時の解決法のはずがどうしてこうなった。  いきなりどうしたとは思ったけれど、少しだけ嬉しいとすら思っていることに戸惑いながら、必死で悠介に応える。お互いに、まだそんなに技巧的とは言えない拙いキスだ。けれど、いつものじわじわ幸せにうなじが痺れるようなものでもない。  なんというか、いつもより、激しい。食むような、というより、噛みつかれているような。息を交換するというより、奪われるような。そんな奥の歯を舐められたことなんかないから腰にクる。 「んっ!ん……ぅ、んん」  嫌じゃない。それは自分の中でハッキリしているのに、体が追いつかなくて距離を取りそうになる。怯みからくる微かな抵抗も、顎から項にまわった悠介の腕に引き寄せられて意味を成さない。  立っていたら、きっと腰が抜けていた。座っているのに、膝が笑う。 「っは、ぁ……!」  脳が溶かされるみたいな感覚に耐えきれなくなって、ほとんど無意識に悠介の二の腕を掴んだ。多分、痛いくらいに掴んでしまった。唇が一瞬解放された隙に、悠介の肩に額を押し付ける。 「っ、はぁ……は、ぁ……ごめ」  荒い呼吸を繰り返し、指先が震えているのに気付く。キスで酸欠とか恥ずかしい。  肩を借りたまましばらく息を整えていると、悠介が首筋にすり寄ってきた。くすぐったいけど、なんだか嬉しい気持ちが湧いて好きにさせていたら舐められた。 「……ん、ちょ、さすがに、くすぐった……んっ!」  ピリ、と痛みが走ったかと思うと熱い息がかかって、悠介の指が何度か往復する。自分で見えないあたりをじっと見られて、落ち着かない。 「消えるまででいいから、誰にも見せないで」  左の首筋、悠介がなぞるあたり、シャツのボタンをしっかり閉めてギリギリ見えるかどうかの位置にほくろがある。鏡ごしでなければ見えない場所だけど、そうそう消えるものじゃない。  なんのことだろうと思っていると、悠介が下唇を舐めて見せた。さっき、舐められて、吸われた? 「つ、けた?」 「うん。実はちょっと練習した。大成功!」  ドヤ顔で言われて、ちょっとイラッとした。いや、モヤっと、かな。  自分からは見えないキスマークを指先でなぞる。見えないからか、あんまり実感が湧かない。 「嫌だった?」  悠介が不安そうに顔を覗きこんできた。モヤモヤの原因を考えていただけだから、そんな顔をされると困る。  キスマークを付けられるのなんて初めてだからちょっと驚いただけで、嫌だったわけでも怒っているわけでもなかった。鏡を見た時に自分がどう思うかがわからないから、直視する前にちょっと気合いを入れないといけない気がするだけだ。  なんだろう、一方的な感じが物足りないのかな。悠介にやったらどんな顔するだろう。練習してないけど、俺にもできるだろうか。  そこまで考えて、モヤモヤの理由に気づく。 「練習?」 「っ自分の腕とかだから!誰かを実験台にとかしてないから!!断じて!神に、いや翼に誓って!!」  俺の想定したものを正しく理解したらしい悠介が、俺の両肩を掴んで揺さぶらんばかりに力強く宣言した。半分くらいは冗談のつもりだったのに、大真面目に応えてもらったら思っていたより安心している自分がいるのが不思議な感じだ。  それより、わざわざ翼に言い直したのがなんだかおかしくて思わず笑いが漏れた。ツボに入っちゃって、声を殺しても肩が揺れる。ついには悠介の顔を見ていられなくてうつむいた。 「何がそんなにおかしいんだよ!」  俺が悪いのに、ガチギレっぽい悠介まで面白く見える。俺はちょっと涙目になりながら、必死に呼吸を整えた。 「ごめんごめん。それなら、いいんだ……でも、タートルネックあんまり持ってないから、近いうちに買い物付き合って」 「喜んで!」  口調は怒ってるのに、言葉が丁寧でまたちょっと笑えてくる。悠介が口を尖らせて、眉間に皺を寄せて、全力で不服を訴えてくるのがおかしくて、かわいかった。  こんな、アホみたいなやりとりでまた、好きだなあって実感する。自分でも自覚しきれていないのだけど、悠介にはどのくらい伝わっているのだろう。  手を伸ばして、悠介の頬に触れる。払いのけたりはしないのに、頬を膨らませて不機嫌アピールしてくるから俺の顔が緩んだ。 「それから」 「なに?」 「俺の練習には付き合ってほしいな」  二度、三度と瞬きした悠介が、ゆっくりと後ろへ倒れていった。流石に手が届かなくて見送った先で、カーペットに沈んだ悠介が両手で顔を隠して細かく震えている。 「すきにして」  かすかに聞こえた了承にまた笑った。 「風呂、いただきました」 「おかー」  カーペットに沈んだ後、コタツの中に潜ろうとした悠介を引っ張り出して風呂場に追い立て、上がってきた悠介の髪を乾かしてから俺も風呂に入った。その間の俺については割愛させていただく。正直、一人でいる間の記憶が曖昧だ。心中察してほしい。  洗面台に、本当に俺用の歯ブラシセットがあって感動したのは覚えている。俺が着ても余裕なジャージも早速使わせてもらっていた。昨日悠介が着て寝たという余計な情報のおかげでドキドキする。 「ほれ、おいで」 「やってくれんの?」 「もちろん。優に乾かしてもらうの、ちょー気持ちよかった。寝落ちるかと思った」 「それはよかった」  ベッドに腰かけた悠介の前に座ると、悠介の手とドライヤーの温風が髪を混ぜた。時々、頼まれて妹の髪を乾かすことはあるけど、やってもらうことはあんまりない。  悠介の髪は乾くとふわふわになって梳かしていても楽しかったけど、俺の髪はどうだろう。慣れていないのか、遊んでいるのか、乾かすっていうより単に撫でるような手つきが混ざる悠介の手は気持ちがよかった。 「んー、こんなもん?まだ?」 「ん、大丈夫。ありがとう」  ドライヤーの音が止むと、一気に静かになる。帰ってきてからずっとそうだったのに、二人きりなんだと改めて思ってしまって勝手にいたたまれなくなった。  ずいぶん伸びた髪は、少し俯けば顔を隠してくれる。ドライヤーのコンセントをまとめながら洗面台に戻しに行く悠介を髪越しに見送った。  落ち着こうと思って深呼吸すれば悠介の匂いがして、やっちまったと膝に顔を埋めたら俺のためのジャージなのを思い出して頭を抱えた。悠介の部屋なんだから当たり前なのだけど、どこもかしこも好きな人であふれてて大変ヤバい。語彙がなくなるほどに。 「うお、どした?」 「えっ?あっ、なんでも!ないです!」 「はは、なんで敬語」  戻ってきた悠介に不審がられたけど笑ってごまかした。ごまかされてくれたのは、悠介も緊張してるからだ。ちょっと動きがぎこちない。  ご飯はめいっぱい食べた。風呂も入った。この後は、悠介の宣言通りに俺がいただかれる予定なのだから、緊張するなって言われても無理だ。  なるべく普通を装っていたかった。自分が望んだことで、悠介が求めてくれていることであっても、未知に対して怖気づくのはどうしようもない。どう行動するのが正しいのかもわからず、ただ黙っていられなくて、必死に話題を探した。 「あー、あれ、使う?」 「へっ?」 「翼がくれたプレゼント。リップバーム」 「あ、うん。そだな!せっかくだし!」  カバンから出したリップバームを出し、俺のすぐ傍に座った悠介が唇に塗り始める。新品のチューブからおっかなびっくり指先に出して唇に塗る様子は慣れてない感全開だ。  自分では気にせずしてきた仕草だけど、口元をじっと見るせいか、改めて人がやってるのを見るとちょっとそわそわする。ガン見して引かれないようにと思いつつ、つい視線が唇に行くのを止められないでいると悠介の口がへの字に曲がった。 「んー?」 「どした?」 「加減がわからん……あれ、付けすぎた?なんかいい匂いするけど、ぺたぺたする」  悠介は眉をひそめて指先を付けたり離したりを繰り返す。カサついていることの多い悠介の唇がつやつやしていて、なんだか美味しそうだ、なんて思った時には口を開いていた。 「もらったげる」  唇をいじる手を取り上げて顔を寄せる。唇で触れたそこは、いつになくしっとりして吸いつくようで心地いい。角度を変えては何度も押し付けて、モヒートの香りを分け合った。  互いの唇にリップバームがすっかり馴染んでから顔を離す。トクトクと、心臓がスキップしているみたいだ。  不意に悠介が指先で俺の唇に触れた。ふにふにと弾力を楽しむような、確かめるような手つきだ。視線もじっと唇から離れなくて戸惑う。 「なに?」 「や、きもちーなと思って。もしかして、今までガサガサしてて痛かった?」 「……べつに、気にしてなかったし」  正直に白状するなら、荒れた唇はドキドキに拍車をかけてくれていた。ウブな男子高校生が想像する女の子のぷるぷるの唇じゃない、ちょっと荒れた悠介の唇は、好きな人とキスしてるんだと強く意識させられる。  かといって、柔らかい唇が嫌なわけでもなかった。単純に気持ちがいいし、もっと触れたいなんて思ってしまう。 「オレ、いっつも優の唇ちょーきもちいと思ってた」 「……そゆのは言わんでいい」 「なんでよ、いーじゃん。これからはオレもぷるっぷるのクチビル目指すから!きもちーからもっとって言わせてみせる!」  ついさっき似たようなことを思った自覚があって目をそらした。なにこれ恥ずい。  ちょっとでいいから放っておいてほしかったんだけど、悠介は目が合わないのが不満らしくておでこをくっつけてきた。近い。スキップしてた心臓が走り出すから止めてほしい。  うそ。もっと近くにきてほしい。 「今までだって、気持ちよかった、よ?」 「えっ、あ……そ、そう、デスカ」 「なので、もうちょっといいですか」 「モチロンデス」  なので、の使い方はちょっとおかしかったかもしれない。でも、悠介がキスを拒まなかったからなんでもよかった。  さっきまでより深く口づけて、舌を吸って、歯列をなぞる。息切れして中断したくない。そのために焦る気持ちを抑えつけて、ゆっくり、ゆっくり呼吸と唾液を交換した。  頭がふわふわしてきた頃、ジャージの中に悠介の手が入ってくる。少しだけひんやりしているのは、緊張してるからかな。脇腹に触れた手が、腰から肩甲骨までするりと撫で上げた。 「んぁ」  背中はなんとか我慢できたけど、ジャージごしでも局部に触れられたらさすがに声が出た。焦らされてるのかと思うくらい優しく往復する指先に腰が浮きそうになる。気づけば俺も悠介の背に腕を回してしがみついていた。  キスと、体を這う左手と、一番敏感なところを刺激する右手に翻弄される。ほとんど無意識にキスに応えて、ふわふわした悠介の髪に指を絡ませ、悠介の下腹に手を伸ばした。  お互いに反応しているのがわかれば、手は大胆に刺激を与えあってすぐに布ごしじゃ物足りなくなる。直接触ってほしい。ちゃんと触りたい。 「へーき?」 「……ん。だいじょうぶ」 「よかった」  少しずつ削られてく理性と闘っているのか、悠介はぎこちなく笑った。その顔はずるい。心臓をぎゅ、って掴まれたみたいになる。  思考停止状態の俺は、手を引かれるままベッドの上に移動して座り込んだ。ぼうっとしたまま、向かいに座った悠介の口元へ運ばれる自分の手を眺める。  視線の先で、指と手の甲の間くらいに悠介が口づけた。そのまま、指と指の間を舐められる。わざと音が鳴るように吸ったり舐めたり、煽るような目で見上げられて生唾を飲み込んだ。 「え、と」 「なに?」 「でんき、消して」 「……見たい」  正直か。悠介の本気の目に一瞬グラついた自分に驚いた。  だけど、ここで折れて後々恥ずか死ぬのは嫌だ。盛り上がってる最中はよくても、十中八九後で頭を抱える。俺だって気持ちよくなってる悠介は見たいけど、その後のダメージは考えたくない。 「明るすぎる、のは、ちょっと」 「下心とは別に、見えないままシてケガさせたくないっていう、もっともらしい理由もあるんですが」  すぐに反論できなくて口ごもる。俺のためだったのがちょっと嬉しいとか思っちゃったからだ。理由が惚れた弱みっぽくて、ちょっと悔しい。  気遣い痛み入るが、一時のリスクより今後の付き合い方にも関わる羞恥が問題なので受け入れるわけにはいかない。必死に自分の意思を確認して、あんまり口には出したくなかった事実を告白する。 「準備、してあるから」 「え」  真面目な顔をしていた悠介の目がまんまるになった。そんなに驚かれると余計に恥ずかしい。  抱かれるための準備なんて、キレイなものではない。恥ずかしいし、しんどいし、恥ずかしいし、結構大変だし、恥ずかしい。  誰に見られてるわけでもないのに、ひたすら恥ずかしかった。そういうことをしてる自分が信じられない、なのにやってる自分がいる矛盾で頭がパンクした。シャワーで自分をごまかしてたけど、ちょっと泣いた。  がんばったんだ。自分でいじってどんなに違和感があっても、悠介に触れられるならきっと違って感じると思ったから。求めてくれるなら、応えたいと思ったから。 「ひいた?」 「感動してる……マジで?」  どんな反応が返ってくるのか、少し怖くて目を見て聞けなかった俺の純情を返してくれ。涙目になりそうなのを必死に堪えてたのに、言葉通りって顔を見たら涙も引っ込んだ。  良くも悪くも悠介は素直で、男子らしくカッコつけたがりなとこはあるけど、情けないとこも隠さない。そこが好きだなと思うし、それなら俺も変に気負わないで自然体でいられるようになりたいと思った。  要は開き直ればいいんだ。たぶん。全部、俺自身も知らないところまで、曝すことを決めたのは俺自身だ。好きってことを隠してるわけでもないんだし、ダメならダメって言ってくれるだろうし。  不安や、恥ずかしいって思ってることを伝えることも慣れていきたい。一時の気の迷いとか、青春の一ページとかじゃなく、ながく、隣にいたいから。 「優?」 「引かれなくてよかった」  悠介の肩に頬をのせて体重を預けてみた。受け止めて、支えてくれる手が優しい。それだけで、不安が軽くなるから不思議だ。  悠介が頭を撫でてくれる。さらさらと髪の間を泳ぐ指先が心地いい。  甘えてみるってハードルが高く感じていたけど、やってみると案外出来てしまうものだ。甘やかされると想像以上に安心して、体の余計な力が抜けていく。  体格差はあるけど、全力で寄りかかっても簡単には潰れない。それも安心する理由のひとつだろう。心だけじゃなくて、遠慮せず全身を投げだせる。干したての、ふっかふかの布団にダイブするみたいな至福感に目を閉じた。 「すげー今更、なんだけどさ。優は、本当にそっちでいいの」  少し硬い声で聞かれて、数回瞬きして考える。そういえば、ちゃんと話し合ったことはなかった。  触りあってるだけの時はほとんど意識してなかったけど、思いがけず押し倒されたあの時、トラウマ踏み抜いて怖いと思うのと一緒に、俺が「される」んだなって漠然と思ったのはうっすらと覚えている。 「しょうじき、どっちでもいいかなと思ってる」  事実だけを言うなら、勃たなきゃ挿れられないわけだけど、そこはたぶんお互い問題ない。それ以外で決めるなら、どうしたいかっていう意思だ。 「悠介が抱かれたいならがんばるよ。でも悠介、俺を抱きたいって思ってくれてるだろ」  自惚れ、じゃないと思う。手とか、声とか、何より目が、そう言ってるように感じることがある。そわそわするような、ドキドキするような、悠介の男の顔だ。  俺は、欲しがられることに疲れているんだと思っていた。名前も知らない子に告白されたり、あることないこと噂されたり、いるだけで勝手に求められて消費されている感覚が少なからずあって、それが寂しいような、悲しいような気がしていた。  悠介が俺に求めるのは、目の保養になる「キレイな前嶋くん」じゃない。俺の心と、生身の身体、そのまんまの俺の全部。理想とか、こうあってほしいみたいな偶像とかじゃない、ありのままの俺自身。 「それが、なんか……うれしかったから」  悠介が、気持ちよくてとけるとこを見たくないと言ったらウソになる。俺の全部で満たしてやりたいとも、思う。それでも結局、二人で触れあって、二人で幸せって笑えれば役割はどっちでもいいっていう結論になった。  結論がわかってたのに逃げてしまったのは俺の弱さだから、乗り越えて、全力で応えたい。  顔を上げて、額同士をくっつけた。至近距離で目が合う。 「こないだ、ごめんな」 「んーん。オレも、ごめん」  目を閉じて、口の中で感じる悠介の吐息が熱い。首筋に抱き着けば、自分のものじゃない鼓動を感じた。俺と同じくらい速い悠介のドキドキが伝わってくる。それは、ちょっとくすぐったいけど心地よくて、悠介にとってもそうであったらいいと思った。  悠介の手のひらがゆっくり俺を撫でてく。きっとそのうち、俺の身体で悠介が触ったことがない場所なんてなくなるんだろう。  早くそうなればいいと思うし、ゆっくりでいいなとも思う。どっちだったとしても、悠介の手に触れられるのは気持ちいいし、嬉しい。  悠介が俺に触られることをどう思ってるのか、本当のところは知らない。それでも、耳の裏をかいてみたり、背を擦れば息が熱くなる。お互いの、それきもちい、を探して、感じてる時間はとても充実感があった。  再び服の中に入ってきた手が胸のあたりを遊んでいく。全身触れられるのは構わないけど、開発しようとか思われてたらどうしよう。どう思ってたって、何度もしてればそういうことになっちゃうのかもしれない。なるようにしかならないなら、早めに腹くくっておいたほうが楽なのかな。 「ん、ぁ」  弄られれば胸は変化を見せるけど、今のところ快感にはつながらない。だけど、快感に直結する場所を直に触られれば声も出る。ていうか、同時にされると下の快感をはき違えて胸が覚えそうで落ち着かないんだけど。あれ、これが開発?  かろうじて残ってた理性も、そんな余計な事を考えるのに使ってたら声を抑える方に意識が向かない。大声で喘いだりはしないけど、漏れる声はだいぶ濡れていた。  俺ばっかり気持ちよくなるのもって悠介のズボンに手をかけたけど、それを阻むように局部を擦る手が強くなる。急な刺激に耐えるように悠介にしがみついていれば、下から聞こえてくる音が水音交じりになっていった。 「ん……ぬぐ」 「そのままでいいよ」  力の入りにくい下半身に力を入れて腰を上げかけたところで返ってきた言葉に、いろんなものが一時停止する。なんて言った。そのままって何。  悠介の肩を支えに中腰で固まってしまった俺に、悠介がちゅ、とキスをしてきた。なんで今した。一生懸命いろいろ考えてんのに全部吹っ飛ぶじゃんか。  反応しない俺に何を思ったのか更にキスを続けようとするから、さすがに顔の間に手を入れてまともに会話するための距離を確保した。なんでダメなの、みたいな顔されても困る。こっちからすれば、なんでしたの、と、なにがしたいの、も聞きたい。 「せつめい」 「なんの」 「そのままってなに」 「脱いだらさすがに寒いじゃん。汚したら洗濯するし……盛り上がって脱がしたらごめんだけど」  結局洗濯するんなら布団を被ればいいんじゃ、と思っていると、言葉とは裏腹に下着ごとズボンを奪われる。いきなりのことに言葉もなく、魚みたいに口を開閉させるくらいしかできない俺の腰周りに、悠介は何事もなかったかのように布団をかけた。  え、何。なんで俺下半身布団巻きにされてんの。ていうか隠れてんの足と尻くらいで俺の息子が悠介に丸見えなんですけど。 「もしかしたら、ちょっとつらいかもだけど。このままシよ」 「こ、のまま?」 「オレが押し倒したら怖いだろ。だからアレだ、対面座位?」 「たいめ……」  この前の反省を踏まえた俺への気遣いかと感動したのに、礼を言う間もなく体位の話をされた。しかも、たいめんざい。お互い初めてのセックスで、対面座位。正常位だって上手くいくかわかんないのに。  難易度の問題なのか、そもそもどっちが楽なのかは童貞の俺には判断がつかない。乏しい知識とイメージで、なんとなく正常位だろうと思っていたから混乱していた。  確かに、やっぱりダメ、なんていう事態の可能性は低いかもしれない。漏れ聞こえる男子の猥談から後背位が楽なんてのは聞くけど、顔が見えないのは不安だからそれよりはマシかもしれない。顔が見えて、距離が近くて、俺がギブアップする可能性も低い、良案なのかもしれない。  それでも素直にうなずけなかったのは何故だったのか、はっきりとはわからなかった。ただ、俺の都合ありきのそれは、悠介をちゃんと気持ちよくできるんだろうか。 「おれが、のるんならいいだろ」 「えっ」  悠介の腰を抱き寄せて、悠介に覆いかぶさるように体を倒す。悠介が油断していたのかは知らないけど、ぼふん、と簡単にベッドに倒れこんだ。  反撃されないうちにキスで口をふさぎ、そっちに意識がいってる隙に悠介の下着を太ももくらいまで下した。さらされた下腹部の上に跨って、絶句している悠介を見下ろす。  心臓バクバクだけど、押し倒された時のような恐怖感がなくて少し安心した。自分の下でしっかり反応しているソレに、若干怯みながらもホッとする。 「……ぜっけいかなぁ、っんぐ」 「だまって」  茶化してくるのをキスで黙らせたのは照れ隠しだって、きっとバレバレだ。だって顔めっちゃ熱い。  マウントはとったけど、そこから動けないでいれば悠介の方がどうしようって顔をした。主導権を奪ったのは俺なんだから、俺が何とかしないといけない。そのタイミングでふと思い出す。  電気消すの忘れた。 「で、でんきけしてくる」 「この流れで?」 「う……わっ!?ひゃっ」  突然視界が薄暗くなったかと思うと、いきなり尻を直に撫で上げられて情けない声が出る。もう遅いとわかっていても両手で口を押えつけて、抗議しようと視線を下せば悠介の胸から上が消えていた。  何がどうなって、と混乱したまま必死に周りの状況を確認する。  薄暗くなったのは、布団を被っているかららしい。俺の腰周りにあったのを悠介が蹴り上げたんだろう。若干頭隠して尻隠さず状態になりかけてる。  消えた悠介の胸から上はといえば、布団の外にあるようだ。ガサゴソ音がして、バサッと布団がめくられると悠介の顔が戻ってきた。 「ちょっと持ってて」 「あ、はい」  反射で受け取ったものは、よくよく見るとローションのボトルだった。何度か触りっこした時にも使ったけど、記憶にあるものよりも重い。封は切られているけれど新品だ。  ドキドキと耳の奥でまた血流が主張を始めた俺の下で、悠介がコンドームの封を切った。ドクンドクンと心臓が稼働音の音量を上げる。意味もなくぎゅ、とローションボトルを握りしめてコンドームの装着を眺めてしまった。  これ、挿れるのか。  思わず生唾を飲んだ俺から、悠介は気にした風もなくボトルを取り上げた。きゅぽ、とふたが開いて、出てきた液体が悠介の右手を濡らす。  握りこんで力を抜いてを繰り返され、とろりとしたローションはくちゅくちゅと音を立てた。 「わっ、ん!」  目の前で進む準備に開いた口を塞げないでいたら、ぐい、と引き寄せられる。悠介をまたいだままだったから、倒れこんだ拍子に腰が上がった。 「っ!ぁ、う」  ぬるっとした何かが中に挿ってくる。何かっていうか、まあ指なんだろうけど。  自分でするのとは感覚が全くの別物で、何がとかは置いといてとりあえず挿ってるって事実が信じられない。しっかり挿ってる感触があるのに、え、うそだろ?って思ってしまう。 「は、ぅ……ん、は、はいって、る?」 「うん。指一本。平気?」  一応頷いたつもりだけど、ものすごくぎこちなかったかもしれない。悠介の眉が八の字になってる。  やっぱり止めようなんて言われたら二度とできない気がして、それだけは嫌で、目の前の悠介に抱きついた。テンパってて気づかなかったけど、悠介のベッドの中は悠介の匂いでいっぱいだ。エロいこととは関係ないドキドキがぶり返してくる。  ドキドキはしてるのに、目の前にいるのも、中に挿ってきてる指も悠介だと思ったらちょっと落ち着いた。ちゃんと呼吸できるようになる。  俺の反応に集中してるっぽい悠介の指が動き出した。大丈夫って伝わったのかな。それはそれで恥ずかしい。  悠介の指がゆっくり壁を押すように出入りする。自分で慣らしたから痛い無理なんてことはないのが救いだ。代わりに違和感がすごい。  セックスはちょっと恥ずかしいけど気持ちいいこと、怖いことじゃない。自分に言い聞かせるように何度も頭の中で繰り返し、いつか気持ちよくなれるように、悠介のやり方を覚えられるように指の感触を必死で追いかけた。 「んー、これ、かなあ」 「なに」 「前立腺」  胸はまだ抵抗あるけど、これからもえっちするならそっちは早めに開発してもらった方が俺が楽そう。  自然とそんな風に思った自分に撃沈して悠介の肩口に額を押し付けた。あかん、俺もう、まともに頭動いてない。  いっそ理性なんてさっさと手放してしまいたくなっているうちに違和感が体積を増した。たぶん、指が増えてる。最初は出し入れするだけだったのに、バラバラ動きだしたら頭に大量のハテナが浮かんだ。  体の中でなんか動いてる。押されたり、拡げられたり、とにかく自分の意思ではないし、リズムも強さも不意打ちだし、かといって身構えたらちょっと辛い。必死で呼吸を繰り返して力を抜くことだけを意識する。 「ご、めん、な」 「なにが?」 「めんど、くさいだろ」 「え、ちょう楽しいけど」 「え」  楽しい。人の尻いじるのが。 「ふあ!」  指がまた増えた。膝が笑いだして震える腰を抱き寄せられる。落とした先にはゴムを被った悠介が存在を主張していて臨戦態勢だ。  反応してくれてることに安心する。それと同時に、待たせてることが申し訳なくなった。 「きもちよくは、まだできてないだろうけど。俺の指にビクビクしたり、息が熱かったり、敏感なとこで感じてくれてるのはわかるし。しがみついてくれるのかわいいし、漏れる声ちょう腰にクるし」 「いい!もういい!わかった、から!」  今まで黙ってたのは話し出すと止まらないからかってくらいすらすらと出てくる言葉にこっちが音を上げた。話すのは止めたけど悠介の指は止まらず、動きが大胆になっていく。  いつの間にかローションを足したのか、動きに合わせて水音が大きく聞こえだした。目をきつく閉じれば音は余計に響くけれど、いよいよそんなのにも構っていられない。違和感をやり過ごすことに集中すれば、頬を優しく撫でられた。 「ちゃんと、感じて」  驚いて目を見開いたはずなのに、視界がぼやけている。痛いのでも怖いのでもないのに、勝手に涙目になっていた。  悠介は俺の顔を引き寄せて、瞼に口づける。瞬きを繰り返す俺に微笑んで、とても優しいキスをしてくれた。薄れたモヒートの香りを感じながら、悠介に呼吸のタイミングまでリードしてもらう。  そのまま、どのくらい弄られただろう。キスに夢中になっている間に体はほぐれていき、出入りは少しずつ楽になっていった。  今挿ってるのが三本なのか、いつのまにか四本になったのかはわからないけど、気にしないことにして体を起こす。布団を被って薄暗ない中、半勃ちの俺と張り詰めた悠介を視界に入れて、一度深呼吸した。 「ゆうすけ、手かして」  覚悟は決めてある。それでも不安は残っていた。  握られた手が、一歩踏み出す勇気をくれる。 「っう、ぅ……んぁ」 「優、息。吐いて、吸って」 「ふっ……はぁ、ん」 「じょうず」 「ん」  指とは段違いの異物感に体は怯んだ。悠介を受け入れるのに邪魔なものを必死に意識の外に追い出して、ゆっくりと腰を落としていく。  苦しい。だけどビリビリしたこの感覚が悠介に触れているって証だ。もう少し、もう少し。ちゃんと、悠介の全部がほしい。俺の全部をあげたい。  好きが溢れて、キスしたいのに悠介が遠い。ぎゅ、と繋いだ手を握ったら、悠介が少し体を起こして迎えにきてくれた。  なだめるように唇を舐められ、舌を吸って歯列をなぞる。激しくはないけど、深いキス。 「は、いった……?」 「ん。挿ったよ。がんばったな」  時間の感覚がもうないけど、どのくらいかかったんだろう。いっぱい我慢させてるだろうと思うのに、悠介は頭を撫でてくれた。それだけで色々ふっとぶ。 「おいで」 「ん」  素直に悠介に抱き着いて全体重を預けた。そういえば、結局服を着たままだ。素肌だったら、どんな感じなんだろう。想像するとまたドキドキした。  重いとか文句も言わず、悠介は心配そうな声で聞いてくる。 「へーき?」 「んー……いわかん、すごいけど……ほっとしたせいか、たぶん、へーき」 「ほっとした?」 「ちゃんと、はいってよかったー……みたいな」  まだ挿れただけなのに、達成感が半端ない。違和感が消えたわけじゃないけど、安堵の方が大きかった。労ってもらって、全力で甘えてしまっている。 「ん……それ、きもちぃ」 「うん。うん……がんばってくれて、ありがとな。オレもきもちい」  頭も、頬も、背中も撫でてもらって、おでこにちゅーもしてもらった。多幸感に包まれるってこういう感じだろうか。  もっと早く、こうできていればよかった。それと同時に、最初に逃げちゃったからこそ今こんな風に思えているのかもとも考える。  俺がこわがってる間に悠介が俺を好きじゃなくなる可能性を、俺はあんまり考えてなかった。  根拠なんてない。強いて言うなら、悠介の笑顔だ。  好きだから心配すんなよ、とでも言いたげな顔で笑うから。ナナみたいに可愛い子に迫られるより、俺がヤキモチ妬くことを喜んで笑うから。勝手に安心していた。  そんな都合のいいバカなことを考えるくらい。ウソだろ、そんなに?と自分で引くくらい。なんだかどうしようもなく、悠介が好きだ。  それに気づけたから、失敗も遠回りも無駄じゃなかった。きっともう大丈夫。もっと触れたい。もっと、触れてほしい。 「あのさ、ゆうすけ」 「ん?」 「すき」  好きって思って、口に出したら勝手に顔が笑った。  自分の顔色はわからないけど、たぶん相当ひどいことになっているだろう。汗かいたし、涙目にもなったし。それでも今、もう一度伝えたかった。 「ごめん、むり」 「んぁっ⁉︎」  視界が反転する。ずん、と下半身に重い衝撃が何度も繰り返された。揺れる視界の中、余裕の消えた悠介の顔が、どうしようもなく愛おしかった。  怖いとか、フラッシュバックする人影とか、あるはずなのに意識がそっちにいかない。視界いっぱい悠介がいる。自分でも知らない深いところに悠介がいる。悠介の息遣いを感じる。  身体も心も悠介で満たされてる。 「ゆ、すけ……」 「ごめん、おれ」 「すき」  大丈夫とか、ありがとうとか、他にも言いたい気がしたけど、その二文字に全部入ってる気がした。それしか頭に浮かばない。 「っすぐる。すきだ。だいすき」 「ん……っ、ぁ、ん。おれ、も……だいすき」  悠介が好き。悠介が好きって言ってくれる。俺の中で、悠介が気持ちよくなってくれてる。激しく腰を振るのをやめられないくらいに感じてくれてる。  腹の間で揺れるそこに悠介が触れて、甘いしびれに喉が鳴いた。気持ちいいと幸せが同じくらい、いや、幸せが少し多いくらいだ。  中をかき混ぜて、奥を突いて、快感を追う悠介を俺も追いかける。足りない分は嬉しいとか、幸せとか、悠介がくれる感情で補った。  少しずつ追い詰められて首筋に縋りつく。自分に咲かせてもらった花の喜びを思い出し、衝動のまま吸いついた。  赤く咲いたのは、俺の独占欲。好きって気持ち。心に追い付いた身体で、もっと二人で気持ちよくなりたいっていう願い。  欲張りな俺に応えるみたいに力強く抱き寄せられて、幸せに泣きそうになりながら果てた。
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