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「迷わず来られた?」
開口一番、子どもをからかうような口調に口がへの字に曲がった。駅の改札近く、先に待ち合わせ場所にいた板井さんを見つけてそばへ駆け寄ったおれを見つけて微笑んでくれたとこまでは、とてもカッコ良かったのに。
「……迷ったの、最初だけじゃん」
初めてのデートの待ち合わせもここだった。先に着いたはずなのに、待ち合わせの改札を間違えて少し待たせてしまったのを、板井さんは思い出す度に楽しそうに話す。
ちょっとしたことでも覚えていてくれるのは嬉しい。楽しそうにされると怒るに怒れない。でも、ちょっと恥ずかしい思い出だから、いつも拗ねたみたいな気持ちになった。
「ごめんね、蒸し返して。可愛かったから」
頭を撫でられそうになって、一歩後ずさって逃げた。身長差があるから、少し距離をとれば板井さんの手はおれの頭には届かない。触ってもらうのも、撫でてもらうのも好きだし嬉しいけど、外ではだめだ。あと今は絶対子ども扱いしてるからイヤ。
「あれ、残念」
撫でようとしてからぶった右手をひらひら振って笑った顔がかわいくて、心臓がきゅんとする。
取引先の受付担当だった板井さんと会ったのは去年の年明け。仕事以外のことを話すようになったのは去年のゴールデンウイーク明けで、まだ一年経ってない。優しい兄ちゃんができたようで浮かれてたら、おれが作ったものを美味しかったって褒めてくれて、うっかり恋をした。
板井さんがおれのどこを好きになってくれたのかはまだよくわからないけど、よく可愛いと言って撫でてくれる。女の子みたいな顔のおれはカワイイって言われるのが苦手だったのに、板井さんのその言葉はすんなり受け取れるから、恋ってすごい。
変に大人ぶったりしないで自然体で接してくれる板井さんは、大人らしく大らかだけど適度に拗ねたりイタズラしたりもする。そういう彼を可愛いと思うし、きっと板井さんがおれに言う可愛いも、似たような気持ちのような気がしていた。
「懐かしいけど、やっぱり結構変わったなあ」
「板井さん、ここ来る度それ言う」
「え、マジ?」
駅から公園までの大したことない距離を歩いていると、聞き覚えのあるセリフが聞こえて笑ってしまう。驚いた、というよりショックを受けたような板井さんの顔に、軽く吹き出した。
「この変な雑貨屋とかは前からあったけど、前はこんなにおしゃれっぽくなかったんでしょ?」
「あはは……すごい、僕おじいちゃんみたい」
六歳上の板井さんは、若干歳の差が気になるらしい。同じ話を何回もしたって、話しててジェネレーションギャップを感じたって、結局おれは楽しいと思えてしまうから前ほど気にしなくなった。
ふふ、って笑えば、板井さんも笑顔になってくれる。笑顔が伝染るのはあくびと同じだ。
「ま、いっか。都築くん、楽しそうだし」
「基準おれ?」
「そりゃそうでしょ」
当たり前、みたいな顔で断言されるとちょっと照れる。心の中で、おれも、なんて呟いたら恥ずかしくなって視線が泳いだ。
しゃきっとしろおれ、ここ外だぞおれ、人通りも多いだろおれ、にやけんなおれ。
「今日もすごい列だなー。花見終わっても関係ないや」
板井さんの声に顔を上げたら、店から伸びた行列が公園に向かう階段まで伸びていた。この光景は見覚えがある。
「焼き鳥だっけ?」
「うん。美味くてコスパいい」
改装して少し雰囲気が変わったと聞いたのはいつだったっけ。行列がすごいと話題にはしても、行列がすごいから中に入ったことはない。
道からでも焼いている様子が見えるし、なんなら煙と香ばしい香りも漂っている。手際のいい店員の手元を見ても、あまり参考にはならなさそうだった。たぶん、ああいうのは音とか香りとか、体で覚えるものだ。そもそも家に炭焼き台はそうそう置けない。
「買ってく?」
「食べたいのあった?」
「え?」
板井さんの好きなもの、食べたいものはなるべく作ってあげたい。でも、プロの研究の結果だったり、店の設備だったりは真似できない。
焼き鳥だってそう。家でやるなら、わざわざ串に刺さずに他の料理にしてしまう方が簡単に美味しくできる。やってもバーベキューみたいな特別な時だけだ。
だから、板井さんが食べたいなら、作ろうか、じゃなくて、買って行こうか、の方がいいと思ったのに。食べたいわけじゃなかったのかな。
「あ、ごめん。お弁当、作って来てくれたのかと思ってて」
「あ、いや、はい……作っては、来ちゃったんだけど……焼き鳥、食べたいのかなって」
「僕には都築くんのお弁当が一番のごちそうだから、都築くんが食べたいんじゃなきゃ今はいいかな。そのうち機会があったら一緒に行こうか」
晴れた日の昼間のデートの時は、公園とかをぶらついて、おれが作った弁当を一緒に食べるのがいつものパターンになっていた。いつだって、店に入ろうと言われれば後で一人で食べるつもりだけれど、食べてくれるかなって期待するおれは、いつもリュックに二人分の弁当箱を入れる。
板井さんの弁当を作るのは、今となってはおれの日常だ。弁当屋に勤めるおれは、日々、板井さんの会社に弁当を届ける。そのついでに、板井さんのための、おれが作った弁当を持っていくのだ。
会社の売り上げが減ることになるけど、社長は気にするなと笑ってくれた。誰かのために毎日弁当を作ることは、これからのおれのためになるからと。
料理の技術はもちろん、飽きない献立を考えること、冷めても美味しいものを作ること。配送だけじゃなくて、もっとたくさん調理も任せてもらうために、おれに必要な経験を積ませてもらっている。
それでも、デートの時の弁当は特別だった。だって、目の前で食べてもらえる。うまくできれば、板井さんの美味しいがリアルタイムで聞ける。
初めての時以外、約束したわけでも、頼まれたわけでもない。それでも、一緒にお弁当を食べるのが嬉しくて、楽しくて、できれば次もって思う。何を入れようって、美味しいって言ってくれるかなって考えながら作るのも、いつもの弁当より更に楽しい。
もう、板井さんの中でデートの時はおれの弁当を食べるのが普通になってるのかな。そうだったら嬉しい。
勝手に機嫌よく歩くおれの隣で、板井さんが首を傾げた。
「今日はどうしよっか。動物園も見る?」
「うーん、とりあえず一周」
「ん」
傍目に見て、友達に見えるギリギリの近さで歩く。ただ歩いているだけなのにドキドキするし、普通の公園もキラキラして見えるのは、隣に板井さんがいるからだ。
今年は桜が咲くのが早くて、繁忙期が明けきらない板井さんとは花見に行けなかった。すっかり新緑に萌える公園は程よく木陰ができて心地いい。
桜は一緒に見られなかったけど、ツツジの香りは一緒に感じられて嬉しいなーなんて、浮かれているのが自分でもわかった。
「ね、板井さんはツツジの蜜吸ったことあ、る……どしたの?」
「……ん?あ、ごめん、ボーっとしてた。今日のおかずは何かなって」
心ここに在らずな様子が珍しくて、心配になる。四月も半ばだけど、まだ疲れが抜けてないのかな。
ふふ、と板井さんが眉を八の字にして笑った。おれの顔に心配って書いてあったんだろう。ちょっと困ったように大丈夫って笑われると、何も言えなくなる。
「いつもお弁当作ってくれるけど、食べるのは別だろ?一緒に昼飯ってのが嬉しくて」
嘘じゃない。と、思う。でも、それだけじゃない気がする。板井さんは、おれと違ってポーカーフェイスもちゃんとできる大人だ。
板井さんが歩き出して、ようやく立ち止まっていたことに気づいた。足取りはしっかりしていて、声もいつも通り。ちょっとだけ振り返って笑ってくれて、ちゃんと目が合った。
「お腹空いちゃった。空いてるベンチ探そ」
心配することなんかないはずなのに、落ち着かないのはどうしてだろう。
もやもやを抱えて、でも説明できる自信はなくて、なんでもないフリをする。上手く出来てるかは、わからないけど。
公園を半周くらいして見つけたベンチに二人で腰掛けた。ランニングするおにーさんや、談笑しながら犬の散歩をするおねーさんたち、人の気配が絶えず動く中、リュックから弁当を取り出す。
最初は、男二人で手作り弁当つつくのが恥ずかしかった。どう見られてるんだろうとか、陰口叩かれたりするんだろうかとか、嫌なことも考えた。
けど、おれのことを注視するのなんか板井さんくらいだと気づいてからは、他人の目を気にすることもなくなった。慣れたとも言うし、開き直ったとも言う。
リュックから取り出すのは、風呂敷に包んだ小ぶりの三段重だ。デートの時用にって板井さんが買ってくれたやつ。
おれと出かけるようになってから、すっかりマイ箸を持ち歩くようになった板井さんも自分のショルダーバッグから箸を取り出した。おしぼりを渡してから、膝の上の弁当箱の蓋を開ける。
「どうぞ」
「ありがとう!いただきまー……す?」
副菜が詰まった一段目を板井さんとの間のスペースに置き、主菜の二段目を板井さんに渡す。僕の膝に残った三段目には丸いものが並んでいて、それらがなんなのか理解できなかった板井さんは両手を合わせたまま小首を傾げて固まった。かわいい。
一段目はサラダ代わりに生春巻き、プチトマトと板井さんお気に入りのピクルス、ほうれん草の胡麻和えと菜の花の辛子和え。二段目は唐揚げ、肉じゃが、アスパラのベーコン巻とタコさんウィンナー。
「これは……おにぎり、で、いいの?」
三段目は、ご飯物。外で食べるから、いつもは普通のおにぎりか、サンドイッチの時もある。おかずは別にあるから、小さめの、中のおかずも少なめの三角おにぎりが多い。けど、今日はちょっと遊んでみた。
「海苔巻きとおいなりさん、味は三種類あるから当ててみて。黄色いのはオムライス」
「オムライス?」
三段目には一口大のおにぎり的なものを詰めた。おにぎりは、おかかと鮭とツナマヨ。いなりは、金ごまとゆずとワサビ。久々にオムライスを作りたくなって、でも外で食べにくいなと思って小さく丸めてラップで包んでみた。
板井さんはいつも美味しそうにおれが作ったものを食べてくれる。それが嬉しくて、この一年で随分レパートリーも増えた。
最近はちょっと凝った盛り付けに挑戦したり、ぱっと見中身がわからないものを出すこともある。すごいねって褒めてもらったり、板井さんのワクワクした顔を見たりするのは、おれの密かな楽しみだ。
「ほんとだ、オムライスだ」
「味薄くない?」
「美味しい。前に作ってくれたとろとろオムライスも美味しかったけど、こういうのもいいね。……おにぎりはどれからいこうかな」
「おかずも食べてよ?」
「もちろん!」
食べてる時の板井さんは、ちょっと幼い顔をする。にこにこして嬉しそう。会社でもそうなのかなと思って少しだけもやもやしたこともあるけど、板井さんの後輩さん情報で普段はそうでもないと聞いている。
おれが作ったものを、おれと食べてる時だけの顔。おれが板井さんにとって特別なんだって思えて、幸せを実感する。もっとその顔を見たくなる。
外見でわからないだけで中身はそう難しいものでもないから、板井さんはおにぎりの中身もいなりの中身も全問正解して楽しそうに笑ってくれた。
ごちそうさまでした、と両手を合わせてくれた板井さんに水筒のお茶を渡して、弁当箱をリュックにしまう。おれの料理をたくさん食べて満腹な時の、満たされた板井さんの顔が好きだ。
「ほうじ茶、珍しいね。美味しい」
「よかった。社長がくれたんだ。ウーロン茶ももらったんだけど、おれ苦手なんだよね……肉の下茹でとかに使っちゃおうかと思ってたんだけど、板井さん飲む?」
「ウーロン茶?苦手なの?」
「んー、なんていうか、後味?が、好きくない」
そっかー、と板井さんが空を仰ぐ。何か思い出そうとするような顔でうーんと唸っている横で、晒された喉仏にドキドキして視線を外した。
そよそよと吹く風に前髪が遊ばれる。先週くらいまでは春一番って感じの強風にうんざりしたものだけど、今日は随分と心地いい。ずず、とお茶を啜って一息つくと、板井さんが視線を戻してくれていた。
「都築くん、あったかいウーロン茶飲んだことある?」
「ホットウーロン?んー、ない、かなあ。ペットボトルでもらったり、飲み会とかで出されたりで苦手意識持っちゃってるから」
「お茶ってさ、入れ方とか飲み方とかで結構味変わったりするじゃない?僕、冷たいのよりあったかいウーロン茶の方が好きでさ。試してみたらどうかなって……ダメそうなら僕飲むし。あ、もちろん料理に使うならそれでいいんだけど」
「ううん。ありがとう。試してみる」
こういう、ちょっとした好みの話をするのが好きだ。好きなものを知りたいっていうのもあるけど、新しい発見があるのが嬉しい。知らないうちに食わず嫌いしていたことにも気づける。
楽しみが増えたと喜んでいると、板井さんが不思議そうな顔で首を傾げた。
「お茶といえば……僕さ、都築くんの麦茶好きなんだけど、なんか特別?」
「え?麦茶?普通に煮出して冷やしてるだけだよ?」
冬は煎茶か紅茶かコーヒーか、はたまた今日のようにほうじ茶か、気分に合わせて随分と選択肢が増える。急須で入れる煎茶以外は、ティーパックやインスタントだけど。
それに比べ、夏になると九割くらいの頻度で麦茶だ。大鍋で大量に作ってひたすら飲んでる。煮出している間がひたすら暑いけど、作ってしまえばしばらく冷蔵庫から出してコップに注ぐだけでいい。
「あー、あれかな。水出しの徳用じゃなくて、まんま麦のヤツ使ってる。ペットボトルのとはちょっと違うかもね。濃いめ?」
数年前、社長の奥さんが一回間違って通販したんだけど、家でわざわざ煮出したりしないからってくれたことがあった。節約にもなるし、もらえるものはありがたくもらうのはいつものことだ。
ペットボトルに入れて会社に持って行ったら、濃くて美味しいとおばちゃんたちに気に入られた。それから毎年、会社の分とは別におれの自宅用も合わせて結構な量を買ってもらう代わりに、夏の間の麦茶係になっている。
「家だけじゃなくて会社でも入れてるんだ」
「うん。仕事の合間に、空いたコンロ使うだけだから職場ではたいして苦じゃないし。板井さんも気に入ってくれてるとは思わなかった」
板井さんが好きなら、今年からはいつもより丁寧にいれよう、コツとか調べよう、とこっそり脳内メモした。
「ふふ。完全に胃袋掴まれちゃってるなあ」
「ご、ごめんなさい」
「謝らないでよ。イヤだなんて思ってないよ。むしろ、なんか嬉しい」
「嬉しい?」
「離れないでって言われてるみたい」
言われてみれば図星以外の何物でもなくて、両手で顔を覆った。
飽きられたくなくて色々新しいものに挑戦したり、また食べたいって思ってほしくて好みの味を探したり。ほとんど無意識だったけど、言われてみればそういうことだと納得する以外にない。
「違った?」
「……ちがいません」
ニコニコ聞かれて、強がりでも否定できなかった。おれの答えに笑みを深くする板井さんがかわいくて仕方ない。抱きつきたい衝動を我慢するのが大変だ。
勢いで動かないように拳を握りしめて深呼吸した。そして、昨日の自分を思い出す。
自分の願望が叶うかは、口に出してみなくちゃわからない。運任せにしてちゃだめだ。
「あのさ……今日は、うち、来ない?」
「ん?いいの?」
「夕飯、仕込んできたから……良かったら、食べてほしいなー、なんて」
弁当とは別に準備したおかずの数々は、板井さんと食べたくて作ったものだ。がんばれば一人で食べきることもできるけど、もし板井さんがいいよって言ってくれるなら一緒に食べたい。
思い切って誘ってみるけど、視線はつま先に落ちていた。
飽きられないようにとは思っていても、毎日のようにおれの料理を食べてもらっている。つい今しがたお弁当も食べてもらったし、夜はちゃんとしたご飯屋さんに行きたいかもしれない。
「都築くん」
「はい」
名前を呼ばれて体がちょっとだけ強張った。声が、困ってるみたいだったから。
顔を上げる勇気が出ないでいると、板井さんは覗きこむようにして強制的に視線を合わせてきた。眉尻が少し下がっている。
「そんな申し訳なさそうにしないでよ。ご飯作ってくれるの、いつも悪いなって思わなくもないけど、それよりずっと嬉しいよ。迷惑なんて思ったことない」
「でもおれ、まだまだ練習中っていうか、修行中っていうかだし」
「都築くん」
「社長に課題出された時は何日も同じもの作ったりするし」
「都築くん」
言い訳を並べるけど、少し強い口調で名前を呼ばれて黙る他なかった。困っていた板井さんの顔が、ちょっと怒っているように見える。
あんまり見ない顔だからちょっとドキドキするけど、それ以上にそんな顔をさせてしまった申し訳なさが先に立った。
「ごめんなさい」
謝ったら、板井さんの眉間にしわが寄って余計にいたたまれなくなる。本格的に怒らせてしまった。
「都築くん、わかってないでしょ」
「う」
ため息まで吐かれて内心泣きたい。
もう一度名前を呼ばれて、おずおずと顔を上げる。真面目な顔もカッコいい。嫌われたくない。
「罰として、おねだりしてください」
「……へ?」
言われたことをすぐに理解できなくて、瞬きして聞き返した。
今、おねだりしろって言ったのか。おねだりってなんだっけ。
「欲しいものでも、してほしいことでも。都築くんあんまりわがまま言わないでしょ?僕の嬉しいとか美味しいとか幸せとかが、ちゃんと伝わってないみたいだから」
実際にはしないけど、心情的にはほっぺ膨らませてそうな表情に見える。そうかな、喜んでくれてるとか、これ好きな味なんだなとか、勝手にわかってるつもりでいたのに。
びし、と人差し指を立てて軽く眉間にしわを寄せた板井さんが、下から覗き込むように念を押してくる。
「いい?ちゃんとわかるまで、甘やかすからね」
「え、あの」
「手、繋いで帰る?」
「えっ、や、やだ……!」
甘い誘惑に逆らうために、立ち上がって距離をとった。攫われないように自分の手も胸元に引き寄せる。
全力で拒否ってしまったから、さすがに板井さんが傷ついた顔をした。しまった、やり過ぎた、誤解です、と内心すごく焦る。
「そんなにイヤ?」
「だ、だって」
手なんか繋いだら、抱きつきたくなる。キスしたくなる。だから、外では極力近づきすぎないようにしてるし、触らない。
なんて、言えるわけない。
「だって?」
「っ追求、しないでぇ……」
両手で顔を覆って逃げる。絶対顔赤い。耳も熱い。
治まれって必死に心と体を宥めてたら、追いかけてきてくれた板井さんに上着の裾をちょんちょん引かれた。指の間から板井さんを窺うと、眉を八の字にして小首を傾げている。
「家でもだめ?」
耐えきれなくてしゃがみこんだ。
おれの恋人が可愛すぎる。そろそろ三十路見えてきたとかボヤいてるのに。腰とか肩とかマッサージするといかにもオッサンみたいなすごい声出すのに。
心配そうにこっちの様子をうかがってる気配がする。申し訳なくなって、かわいい、好きって気持ちでいっぱいになった。
「…………手、つなぐだけ?」
板井さんにだけ聞こえる音量で聞いてみる。反応のない数秒、不安がぎゅうぎゅう心臓を圧迫した。
こっそり反応を窺った時、驚いたような顔が見えたのは一瞬で、すぐに優しく緩む。そのまま隣にしゃがんだ板井さんは、同じ視線の高さで微笑んでくれた。
「してほしいこと、なんでも言ってってば」
好きすぎると、その人の周りがきらきら光って見える。ここ半年くらい、しょっちゅう陥る状態だ。
板井さんと付き合うまでこんなことなかったから、最初は少し混乱した。今は開き直って、メロメロっていうスキルなんだと思うことにしている。
ちなみに、おれに耐性はない。ないから、スキル使われたらもう、気持ちのままに動くしかなくなる。
「かえろ」
「え?もう?」
勢いをつけて立ち上がれば、しゃがんだままの板井さんがキョトン顔で見上げてきた。くそかわいい。
ゆっくり立ち上がった板井さんより先に歩きだす。一歩遅れてついてきてくれた板井さんに、聞こえなかったらそれでいいやくらいの声でわがままをこぼしてみる。
「……くっつきたい」
顔、赤いんだろうな。恥ずい。耳あっついや。
「ん。はやく帰ろう」
少しだけ歩調をはやめた板井さんがおれに並んで、そのまま追い抜いて一歩先を歩いていった。少し楽しそうな、軽い足取りを不思議に思って視線を上げる。
「……っ、ぅ」
板井さんの髪の間から覗く耳に、散ったはずの桜色が見えて心臓が止まるかと思った。
「これ、全部作ったの?」
「……作り始めたら、止まらなくなっちゃって」
板井さんを家に招いてごはんを食べるのは初めてじゃない。けど。
経理の仕事をしてる板井さんが忙しい決算の時期、他の部署の手伝いが多くなるお盆、年末、そして三月。会えない時期が続いた後のご飯会は、つい色々作りすぎる。
「美味しい!」
その度にぽかんって顔をするけど、その後は笑ってたくさん食べてくれる板井さんにも原因はあると思うんだ。調子に乗るっていうか、笑ってくれるならいっかって開き直っちゃうから。
なんて、責任転嫁してるおれの気持ちを知ってか知らずか、板井さんはご満悦で料理を頬張ってくれた。
「ん!これ……柚子胡椒?」
「あ、はい。ちょっと入れました」
「これ好き!」
ん゛っ!
と、声に出さなかったおれを誰か褒めてくれ。
大好きな恋人に満面の笑顔で好きって言われたら呼吸も止まる。板井さんが好きって言ったのは、おれじゃなくて柚子胡椒入りの漬けマグロだけど。
元気におかわり!とお茶碗を渡されることに幸せを感じると、これ母性?なんて思ったりもする。でもいいんだ、幸せだから。口いっぱい頬張ってもぐもぐしてる板井さん超かわいい。
幸せに浸っているうちに、おかわりしたご飯も半分くらいになっていく。それに気づいて、今更ながら冷蔵庫の中のものを思い出した。昨夜、ふと思い立って作ってしまったそれは、さすがに一人で食べきれない。
「あの、さ」
「ん?」
今まさに口に運ぼうとしたご飯の乗った箸を止めて、板井さんが聞く姿勢に入ってくれている。食事を止めてまで聞いてくれる板井さん優しい。
その優しい板井さんに、ごまかすみたいに笑って見せるのはちょっと良心が痛んだ。
「えっと……ケーキも、あるんだけど」
「………………これ、明日でもいい?」
板井さんはたっぷり時間をかけて、おれのセリフを噛んで呑んで理解して、まだ残ってるおかずと茶碗に残ったご飯を順番に見る。最後におれを見た板井さんは申し訳なさそうに眉を八の字にした。
久々のデート、久々の家ごはんに浮かれて作りすぎたおれが全面的に悪い。そもそも、残れば翌日以降のおれの飯になるだけだから、美味しく食べてもらえれば完食してくれなくてもおれ的には何の問題もない。
のだけど、板井さんはなるべく残さないようにって頑張ってくれるんだ。本当はそんなに量を食べる人じゃないのに、無理させてるんじゃって心配になる。
「ごめんなさい……」
「こっちこそだよ。せっかく作ってくれたのに……もっとたくさん食べられたらいいんだけど」
「ううん!最近お腹周り気にしてるの知ってたのに作りすぎたおれが悪いから!」
ピシ、て板井さんの苦笑が固まった。しまった、言っちゃいけないやつだった。
後悔するけど、口から出た言葉は戻ってこない。どう弁解しようか脳みそフル稼働するけど、そもそもおれそんなに頭よくないからなんの打開策も浮かばない。
「知っ、てた?」
「……風呂場で、運動しなきゃって呟いてるの聞いた」
板井さんの小さな質問に正直に答える以外に、おれにできることはなかった。
それを聞いて一瞬、体型気にしてる板井さんかわいいとか思っちゃったことまでは言わなかったけど。これって幸せ太りってやつかな、新婚みたいとか思って一人で勝手に撃沈したことも言えなかったけど。
言えない本心が後ろめたくて、俯けた顔を上げられなくて、言い訳を並べていく。
「加減しなきゃと、思ってるんだけど……美味しそうに食べてくれるから、つい調子に乗って」
「……いいよ。そのかわり」
おれの言葉をさえぎった板井さんの声に責めるような雰囲気はなかった。と思う。
恐る恐る顔を上げたら、頬杖をついた板井さんがいたずらっぽく笑っていた。
「ぽっちゃりしても、嫌いにならないでね」
こんなに好きなのに、どうやって嫌いになれって言うの。
「それとも、運動、付き合ってくれる?」
「うっ、ん?え、あ、はい……?」
指先をさわさわしながらイイ声で言われて、おれの頭はまともに考えるのを止めてしまった。
あれ、お誘いされてる?ソッチ?そんなつもりでたくさん作ったわけじゃないけどその気になってくれたなら大歓迎、いやおれはナニを。
板井さんの指がおれの指に絡む。外ではできない恋人つなぎだ。理解するより先に指先からじわじわ熱っぽくなっていく。
「都築くんさ、ゴールデンウィークは仕事休みだよね?」
「え?ごーるでん……あ、連休?うん、カレンダー通り。板井さんも、やっとちゃんと休める、んだよね?」
お酒は飲んでないのに顔がぽかぽか、胸はドキドキ、頭はぼーっとしていたけど、具体的で現実的な話を振られてちょっと思考が戻ってきた。あんまり深くは考えられてなかった気もするけど、ふわっと浮かんだ言葉が口から出ていく。
見当違いな答えではなかったらしく、板井さんはニッコリと笑った。なんだろう、めっちゃいい笑顔なんだけど。
「飛行機は平気?」
「え?うん……修学旅行、沖縄だったし」
飛行機経験は修学旅行の往復だけだ。映画見てるうちに着いた覚えしかない。
「いいね、楽しかった?その話あとで詳しく聞きたいな。でね」
「うん?」
「北海道行こう」
いつもは微笑む、って感じの板井さんがニッコニコしてる。と、見惚れてる場合じゃない。
板井さんの言葉を反芻して返事を、したかったのだけど。
「……へ?」
「北海道。二泊三日で。一緒にお花見がしたいです」
「は?」
「いや?」
理解が追いつかずに一文字しか返せないでいると、板井さんが笑顔を引っ込めてしまった。ちょ、ワンモア笑顔。
えっと、泊りで旅行、北海道で。なにそれ楽しそう。で、花見。
「花見?ゴールデンウィークに?」
「うん。向こうはその頃に桜が見頃らしいから」
興味がないわけではないことは伝わったのか、板井さんがパっと表情を明るくした。しょぼん顔からのギャップは心臓に悪い。
繋いだ手はにぎにぎされっぱなしだし、おれの口はあうあう言うだけで会話ができそうになかった。対する板井さんはとても楽しそうにとんでもないことを言う。
「せっかく初めての都築くんとの春なのに、お花見できなかったの悔しくて。三月後半の休日出勤が確定した日の夜に、勢いで飛行機と宿予約しちゃった」
「え」
「日程も宿も勝手に決めちゃったし、お金は一切気にしなくていいから。時間だけ、僕にください」
「ちょ、待って」
付き合って一か月くらいで、食費用の共通の財布を作った。弁当やらなにやら、板井さんの食事の大半をおれが作るようになったからだ。
二人で旅行するなら、そこから出してもいいのに。と言わせてもらえない圧を感じる気がするのは何故だろう。
「一緒に、行ってくれる?」
「ハイ、ヨロコンデ……」
言わされた感ハンパないのに、板井さんは嬉しそうにまた笑って、おれの手を放して食事を再開した。茶碗に残っていたご飯は食べてくれるらしい。
別に旅行がイヤなわけじゃないし楽しみだけど、板井さんはおれ以上に楽しみにしていそうな顔だ。そんな顔を見ちゃうと、半分お金出すよなんてせっかくの上機嫌を損ねそうなことは言えなかった。
「旅行中、遠慮なくおねだりしてね」
「う、うん……がんばる」
甘えたくないなんて言ったら嘘になるんだけど、素直になるのもまだちょっと恥ずかしい時がある。旅先で二人きりならイチャイチャもできるだろうけど、甘やかす気満々の板井さんに甘えちゃった場合、どうなるのか、どうされちゃうのか、わかったものではない。
とかなんとか考えてたら、一緒に食べたケーキより甘い運動をするハメになった。でも、それはそれでとても幸せで、板井さんも喜んでくれるなら、甘えたり、素直になってみたり、そういうことも頑張ってみてもいいかも、なんて思う。
どうせ三月の繁忙期中の残業代が入るからと変なスイッチが入っていたらしい板井さんが予約した宿は部屋に露天風呂がある快適すぎる所で、部屋に着いて早々、荷物が手から滑り落ちることになったりしたのは、また別のお話。
お粗末様でした
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