Ⅰ.出会いは突然に

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Ⅰ.出会いは突然に

 常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことだとアインシュタインは言った。何が普通で何が異常なのか、おそらくはそれを切り分けている時点で自分は既に常識に縛られた『非常識』な人間なのだろうということを、冴木(さえき)は痛感していた。  広いマンションの一室。3LDKの部屋に一人暮らしの部屋は空間が広く、真ん中に体格の良い成人男性が二人座っても広々としていた。  その広い空間の中で、男に縛られている。  既に背中に後ろ手に回した腕は床に平行するように横一線の姿勢からピクリとも動かせない。  自分を縛っている男の手際は良く、背中から脇腹の上部を通って胸元へ、胸元から首筋を経由して再び背中の側へ。手品のように縄を操って冴木の身体の輪郭に縄を這わせていく。  身体にかけられた縄に新たに縄を通して引き抜く時は、身体をこすらないように必ず肌と縄の間に指を挟んでくれていた。  時々ぐっと身体を締め付けられる感触に息を飲み、時々縄のテンションを整えるための指が縄と肌の間を流れていくと、ほんの少し息が落ち着く。  女性がドレスのコルセットや着物を着る時はこんな感じなのだろうか。  少しでも何か違うことを考えていないと落ち着かないこの空間で、冴木はただぼーっと座って縛られながら、何故こんなことになったのかを考えていた。 ◇  冴木(さえき)(はるか)は某IT企業で働く二十九歳の男性だ。  一応IT企業だったが、Webのようなオープン系の仕事からロボットエンジニアリングまでなんでもやる。そして絵に描いたようなブラックだ。  徹夜、休日出勤は当たり前。サービス残業は月に二百時間を超えるが、手取り額は月に十万円くらいしかないので若い社員は常に貧困で六畳一間の狭い社宅から抜け出せない。  社内では常に怒鳴り声と恫喝まがいの説教が飛び交い、セクハラも多い。  大阪城を三日で作れと言われるような無茶な納期を拒否権なく押し付けられ、過ぎれば「どう責任を取るつもりだ」という怒鳴り声をBGMに徹夜のデスマーチが幕を開ける。  それでも冴木は特に何も感じてはいなかった。  何も感じず、機械のように頭を下げて奴隷のように働く。  人はそれを社畜と呼んだ。  ある年の暮れ、そんな社畜の彼はその年も仕事が終わらず、誰もいないオフィスで黙々と仕事を続けていた。  身体が強いのが彼の取り柄だ。学生時代はスポーツをしていたこともあって、メカニックがメインの彼は不健康な生活を送っている割に体格が良い方だった。  とはいえ、そんな彼の身体も不死身ではない。  年末年始でビル空調が全て止められているオフィスは既に氷点下であり、スーツの上にコートを着て、更にその上にダウンを着て中にカイロまで仕込んでいても、それでも寒い。  真冬に外で仕事をしているのと大差ない。  テレビでは歌合戦が終わってゆく年くる年が始まろうかという頃になっても、オフィスから光が消えることはなかった。  机の上には大量のデッドブルの空き缶。夕飯はコンビニで買ったカップ蕎麦。一応年越し蕎麦のつもりだったが、パソコンの画面を見ながら食べていたため味は覚えていない。  どころか仕事のことで頭がいっぱいで、食べた記憶さえ怪しい。  終電近くなって残っていた社員がほぼ全て帰ってしまった後もたった一人で仕事を続けていた冴木が、床の上で冷たくなって倒れているところを警備員に発見されたのは翌朝、元旦の早朝のことだった。 ◇  情けは人の為ならず。というのがその老人の口癖だった。  出版社でカメラマンをしていた四条(しじょう)が初夢も楽しむ暇もなくスマホの音に叩き起こされたのはとある元旦の朝のこと。  駆け出しのころによく仕事の世話をしてくれた爺さんが昨日救急車で運ばれたらしいと、友人からの連絡だった。  ここ何年か会っていなかったものの、もう結構な歳だった爺さんの顔が頭を過ぎり、慌てて病院へタクシーを飛ばした。  だがしかし。四条が病室で見たのは、点滴の管を付けたままベッドの上で看護婦に餅が食べたいと元気に強請(ねだ)る爺さんの姿。  一気に脱力した四条に、当の爺さんの方はしわを重ねたあくどい顔でニカっと笑って力いっぱい年始の挨拶をしてくる有様である。  ホッとしたやら疲れたやらで挨拶もそこそこに苦笑している四条の耳に隣のベッドのカーテンの中から声が聞こえてきたのは、ちょうどその時だった。 ◇  情けは人の為にはならないから、人に情けをかけるのはやめておきなさい。  きっと昔の人は本当はこの意味で(ことわざ)を作ったに違いない。  …と、四条は思う。  情けは、人の為ならず自分の為にもなるなんて一体誰がそんなことを考えたのだろう。  あの時爺さんが緊急入院していた病室に担ぎ込まれた青年は、正月にも拘わらず徹夜でオフィスで仕事をしていて過労で倒れて搬送されてきたのだという。  爺さんとは対極に今にも死にそうな真っ青な顔の青年は、爺さんと同じく緊急入院が必要だと言われたそうだが入院費が支払えないので帰らせて欲しいと駄々をこねていた。
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