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「もうクリスマスケーキの予約始まってる。みんな気が早いね」
金曜日の家庭教師のアルバイト終わりに、駅まで迎えに来た小野と合流してアパートまで送ってもらうのが習慣になって一ヶ月程になる。夜食を求めてコンビニに寄るのは、もう何度目だろう。
呟きに顔を上げれば、見慣れた長身が二ヶ月近く先のイベントに向けた広告を眺めていた。横顔は長めの前髪で半分以上隠れている。
僕のまっ黒で癖の強い髪とは違う、素直な栗色の髪を綺麗だと思う。フランス人のおじいさん譲りだというヘーゼルの瞳と、頭頂部よりも後頭部寄りにある旋毛のどちらを覗き込もうか考えていたら振り返った小野と目が合った。
「なに?」
「……なんでもない」
光の加減で色を変えるその伽羅を愛おしいと思うようになったのは、まだ夏の終わりの頃だ。
恋とは無縁に生きてきた僕に好きだと伝え続けてくれた、想いを証明するように百夜通いを遂げてくれた小野将宗に応えてから、紙の白と文字の黒で埋め尽くされた僕の世界は驚くほど色付いた。
「肉まん買って帰ろうか」
「うん」
小野が微笑むから、僕の頬も自然と緩みそうになる。そろそろスクーターでの移動も寒くなってきたしマフラーかマスクが要るなと、懸命に無表情を取り繕いながらレジに向かう小野の背を追った。
帰り道の途中に寄り道をすることも、誰かと買い食いして少しずつ分け合うことも、それらが楽しいのだということも、小野が教えてくれた。そんな小さな幸せも知らない程閉じた世界で生きていたのだと、ほんの些細な喜びや嬉しいを見つける度に実感する。
会計を済ませてコンビニを出ると、冷えた風が額を撫でた。
「なんかいい事あった?嬉しそう」
コンビニ店員を誤魔化せても、僕の変化に敏感な小野には通用しない。ずっと見ていてくれたことを嬉しく思う反面、僕も早くそうなりたいと歯痒い思いを抱えることもあった。
素直に伝えれば、草町のペースでいいよ、俺だってまだまだ分かんないことだらけだしと笑うから、互いに一つ一つを確かめていくことにした。二人で手を繋いでゆっくり歩くような、応え合うこの時を大切に思っている。
「何もないよ。連れ出してくれてありがとうって思ってただけだ」
スクーターに鍵を挿しながら、小野が不思議そうに首を傾げて何の話?と目で問うてくる。
「たとえるなら……窓辺でずっと本を読んでるようなものだったんだ。時々窓の外を見て、満足してまた本を読むような。自分から外に出ようとは思ってなかった。実際に体験したらもっと感動できることも、文字情報だけで充分だと思ってた」
「そこから、オレが連れ出しちゃったってこと?」
「うん。だから、寄り道と買い食いの楽しさも、好きな人の隣を歩く高揚感も味わえた。知らなかった頃より、毎日が暖かい気がする。感謝してる」
「うぅ……」
僕の話を聞き終えると、小野はヘルメットを被って両手で顔を覆ってしまった。隠れてしまって見えないけれど、こういう時の小野は大概顔を真っ赤にして羞恥に耐えている。
「大丈夫か」
「草町が好きな人って言った……」
「……いい加減慣れたらどうだ」
「感動しちゃうもんは仕方なくない?感動のない人生より、あった方がよくない?」
「そりゃあ、あった方がいいだろうけれど……僕が好きと言う度に感動していたら小野の心臓が保たないんじゃないかと心配だ。僕はもっと小野と居たい」
「あああああダメダメ、そういうのは小出しでお願いします。コンボよくない。抱きしめちゃう」
「それは駄目だな。早く帰ろう。肉まんも冷める」
スクーターに跨って、のんびりと帰路を辿る。途中で公園に寄って、ベンチで冷めかけの肉まんとピザまんを半分こした。アイスは溶けるから、肉まんは冷めるから、コンビニで買い物をしたら公園に寄って少し話すのがいつもの流れだ。
夏場、それこそ夏休みでもあれば夜遅くとも学生たちがちらほらいたりするが、冬の夜の公園に人気はない。
街灯に照らされて、街中で隣に座るよりもほんの少しだけ近くに腰掛ける。人気はないが深夜にさしかかろうという時間だから、肩を寄せて、声を顰めて、内緒話をするように過ごした。
「雪が降ったらまたアレ食べたいね」
「アイスか?……炬燵でなら付き合おう」
「やった!電車止まらないといいなあ」
小野と二人、思い出と約束を積み重ねていく。一つ一つが色と熱を持っていて、恋をした人に対して春が来たと表現する気持ちをようやく理解できた。
デートと呼ぶには些か質素ないつもの寄り道の後、アパートまでの道のりは殊更短く感じる。体感時間は然程でもないが顔や手足が冷えるには充分で、アパートに着く頃には手が悴んで鍵を開けるのもやっとだ。
「つめたいね、ほっぺ」
荷物を置いて早々、小野の手が僕の頬に触れた。脱ぎ掛けのコートもそのままに、思わず擦り寄る。
風を通さないしっかりした作りの手袋をしている小野の手は、先ほどまで外にいたとは思えないほど温かい。僕の頬は夜風に冷えきっていたから、小野のぬくもりを吸い取るようにじわじわと体温を分けあっていった。
「……小野は、子ども体温だな」
「草町専用の人間ホッカイロだからね!……草町、なんかドキドキしてる?」
頬に触れる小野の長い指は僕の首にまで届いていて、頸動脈をドクドク流れる血液に気付く。
恋人になってまだ二ヶ月にも満たない。傍にいると安心するのに、触れられると胸が鳴って少し苦しい。頬が赤い理由が変わっていく。
「……うるさい」
「へへ、かっわいーの」
片手で僕の頬を包んでいた小野が、もう片方の手も使って僕の両頬を包む。温かさに目を細めていると、上向かされてかさついた唇が降りて来た。
まだ数えられる程度だけれど、何度しても慣れない。自身の唇を真一文字にしたまま柔らかな触れあいを享受した。
何度か食んで満足したのか、小野は僕の唇と頬を解放すると、今度は長い両腕で僕を体ごと包んだ。耳の近く、首に吐息がかかってくすぐったい。
触れたい。
そう思うようになってどのくらい経っただろう。僕の両腕は、変わらず僕の体の傍を離れなかった。
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