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「広谷先輩だけですか?」
「んー?おー草町。おひさー」
部室に顔を出すと、ほぼ常駐の有川さんと文月君の姿はなく、就職活動に忙しいと聞いていた広谷先輩が座椅子に腰掛けて本を読んでいた。
学内外に顔の広い有川業史という人物は優秀で有能で、面倒な人である。入学一ヶ月足らずで文芸同好会あきづきを創設、日々の活動は細々と地味だが学祭などのイベント事では数々の実績を残している。
学内ではその存在を知らない人を探すのも難しい程のサークルだが、メンバーはたった十人。しかも全員が有川さんのスカウトで、声がかからなければ入会を断られる。
何故僕に声がかかったのかは未だに謎だ。知り合ってから一年半程になるが、先輩であり友人である有川さんについては、ものを考える次元が違うのだと理解することを諦めた。
広谷逸人先輩は有川さんと同級のあきづき創設メンバーで、書類上は副会長という立場にいる。一部に天災扱いされている会長の無茶振り被害を一番受けているだろう、彼に対するあきづき下級生の信頼は厚い。
「有川と文月なら腹減ったっつって買い出し。オレは息抜きに来たはずが留守番」
「そうですか。……お元気そうで」
「おー元気だぞーイチオウな」
先輩が力なく笑う。疲れが溜まっているのだろうか。
広谷先輩は文化祭が終わってから大分印象が変わった。黒く染めたらしい髪は少し短くなって、サッパリしたように見える。
外見の印象が変わっても、猫背気味なのは相変わらずだ。実際は小野よりも背が高いのに、姿勢のせいで二人が並ぶと同じくらいに見えるのは、きっと今でも変わっていない。
荷物を置いて座布団を出しながら、まだ少し馴染めずにいる容姿を眺める。不意に視線を上げた広谷先輩と目が合った気がした。広谷先輩は、ぱっと見どこを見ているのかわからないくらい目が細い。
「そーゆー草町くんは悩み事ですかー?」
「え?」
覚えずぱちくりと瞬いてしまい、それを見た広谷先輩が吹き出した。問われた内容に驚いたことも忘れて、ついその様子を眺めてしまう。
そういえば、広谷先輩と二人で話す機会は今まであまりなかった。大概、有川さんの無茶を焦って止めに入ったり、悪戯が過ぎた文月君に怒鳴ったりしているので、こんな風に笑っているところは初めて見たかもしれない。
あきづきで一番人数が多い四年生の中でも揶揄われることが多い広谷先輩は、恐らく本来の優しい先輩然とした雰囲気のまま、目の端に涙を滲ませて穏やかに笑う。
「草町ってさ、表情動かない割にわかり易いよな」
「そうで、しょうか」
「うん、そう。ま、オレはわかってきたの最近っちゃあ最近だけどさ。根が素直なんだろうな」
広谷先輩が少し切なそうに表情を和らげる。若干の諦念が混ざったような声が、無性に落ち着かない気分にさせた。
早くから院に進むことを決めていた有川さん始め、四年生のほとんどは進路が決まったと聞いているが、就職氷河期が叫ばれるようになって久しい。大きなお世話だと解っていても、結果の出ない不安や肉体的、精神的負担を思うと、なんと声をかければいいのか見当もつかなかった。
「……先輩」
「んー?はは、何て顔してんだよ。草町は気遣いとか無縁のキャラだったじゃん。だいじょーぶだって。ちょっとうらやましーなって思っただけ」
「羨ましい?」
「根がアマノジャクなもんで」
先輩が笑いながら本を閉じ、ちゃぶ台を挟んで僕に向き直る。自身のことははぐらかすのに、他人のことには真摯だ。
「んで、素直でかわいー後輩君は、何に悩んでいるのかね」
頬杖をついてニコニコしながら問いかける様は人によっては胡散臭く見えるかもしれないし、口調は軽く、冗談にも聞こえた。しかしてその声はどこまでも優しく、話したいなら話せばいいし、冗談で済ませたいなら話さなくていいと選択肢を残してくれている。
こういう懐の深さを、有川さんも気に入っているのだろう。
一緒に馬鹿をやってくれて、行き過ぎそうになれば止めてくれる。決して踏み込み過ぎずに気にかけてくれる。心配の匙加減が絶妙で、決して重荷にはならない。
恐らく、地でそれらが出来てしまう。
クセの強すぎるあきづきのメンバーの中で、なんでこんな地味なオレがと嘆くこの人こそ、有川さんが選んだ一番の逸材なのではと思う。
「あきづきの人たちは僕を甘やかし過ぎだと思います」
「そりゃおめーの人柄のせいだろーな。いいじゃねーか、得だろ」
この優しい先輩も、暖かくなる頃にはもういない。なんだかんだと、ここでは相談に乗ってもらうことが多い気がするのは、気のせいではないだろう。
あたたかくて優しい、ありがたい場所だ。
僕の世界は大概答えが本に書いてあって、誰かに頼ったり、言葉に甘えたりすることがほとんどなかった。意識していなかっただけかもしれないが。
有川さんや文月くんに聞くと面倒なことになりそうな気がして、他に相談できそうな友人もおらず誰にも聞けなかったことを聞いてみようか。失礼な質問かもしれないし、笑われるかもしれないけれど、考えてみれば相談するには最適な人だ。
「先輩には、恋人はいらっしゃいますか?」
言い終わらないうちに、ゴンと鈍い音が響いた。先輩がちゃぶ台に突っ伏している。頭を支えていた腕はそのままに、額を思い切り打ち付けたようだ。
痛いと呻くこともなく、広谷先輩はピクリとも動かない。失礼が過ぎただろうかと不安になって声をかけた。
「先輩?」
「まさか、草町にコイバナ振られる日がくるとは思わなかった」
「以前、文月君にもそんなようなこと言われました」
「文月ともコイバナしたの!?」
先輩が勢い良く顔を上げて僕の顔をまじまじと見る。草町てなんか変わったよな、と呟いたきり質問の答えが返ってこない。
予想外の話を振られて一時的に思考停止しただけで怒っているわけではないと思うが、答えを乞うてもいいのだろうか。確認をしておいた方がいいかと思っただけで、まだ本題ではないのだが。
「あの、答えを強要する気はないんですが」
「え?ああ、恋人?うん、まあ今までに何人かは」
さらりと返ってきた答えに、ひとまず二人して頭を抱える心配はなさそうだと安心した。人に相談するのもどうかとは思うけれど、行き場のない自分の手をそろそろ何処かへ落ち着けたい。
瞼の裏に浮かぶのは小野の笑顔だ。体は抱きしめてくれる腕の熱さと強さを覚えている。思い返せば、衝動が背筋を撫でた。
煽られるようなこの感覚をどうしたらいいのか、答えが欲しい。それだけを思って口を開いた。
「それで、その……恋人に、触れたいと思った時はどうすれば」
「ふれっ!?ってぇ……!」
広谷先輩が今度はちゃぶ台に膝を強打した。抱え込んで痛みに耐えている。
「大丈夫ですか?」
「……や、うん、いたい、けど大丈夫」
しばらく唸っていた先輩は、顔を上げてもう一度僕に向き直った。
眉間に皺が寄り、僕が今まで見た中で一番目が開いている。小野程ではないが、比較的色素の薄い小さな瞳が僕を穴を空けんばかりに凝視している。正直、居心地が悪いくらいだ。
居たたまれなさに視線を外しかけた時、目の乾きに耐えられなかったかの様に広谷先輩が眉間を揉みながらキツく目を閉じた。
「えーと、何?草町は欲求不満なの?」
「欲求不満、というか……どうしたらいいのか、わからなくて」
「恋人サン、触らしてくんねーの?」
「いえ、そうではなく。その、好きだと言われて、色々あって付き合うことに、なって。数回ですが抱きしめられたり、口付けられたりもしたのですが、どうしたらいいのか」
「……されてばっかでなんもしてねーの?」
「はあ。まあ、そうですね。最近は、抱きしめられたら背中に手を回してみたいとか、髪が目の前にあったら触りたいだとか、衝動に駆られたりもするんですが、していいものか」
「……草町クンは小学生なの?」
「しょ……」
思わぬたとえに今度は僕の開いた口が塞がらない。
二十年弱生きてきて、初めての恋だ。好きだと伝え続けてもらって漸く気付けた想いだった。経験がない分、いささか感情や思考が幼いのではと思わなくもなかったが、よもや人生の半分を無かったことにされるとは思わなかった。
眉間を揉んでいた手で三度頬を支え、広谷先輩は心底疲れたとでも言うようにため息を吐く。
「イマドキ小学生だってそんな悩みもってねーと思うよ?おにーさんビックリだよ。つかさっきからビックリしすぎて何に驚いたらいいのかわかんなくなってきたよ」
「すみません……」
「イヤ、オレに謝られても困んだけどさ」
広谷先輩はうーん、と唸りながら口をへの字に曲げると、言葉を探すように腕を組んだ。
先輩がここまで驚いて、答えに悩むようなことだったのかと今更ながら反省する。小野は何を思って僕と付き合っていて、普通の恋人らしいことが出来ていない僕に何も言わないのだろう。
一応確認しとくけど、と前置きをして、広谷先輩が口を開く。
「……草町は相手の事が好きで、相手も草町を好きだって言ってんだろ?」
「はい」
違ったらどうしよう、とでも言いたげな表情で問われたことに素直に頷く。広谷先輩は意外そうに眉を上げたのも束の間、嬉しそうに頬を緩めた。
ふと、兄がいたらこんな感じだろうかと関係のないことを思ってしまう。僕の弟に好きな人が出来た時、僕もこんな風に笑えるだろうか。
「じゃあいいじゃん。なんも遠慮することないだろ。触りたいと思った時に素直に触ればいいじゃん。抱きしめたり髪触ったりキスしたりさ、相手が本気で嫌がってない時ならそういうの気軽にして良いカンケーなんじゃねーの?」
「そういうもの、ですか?」
「多分な。恋人の定義っつーか……距離感?は、人それぞれだろうけど。つか、むしろそんな何もしてこない草町に相手はなんも言ってこないの」
言及されたことはなかった。僕を抱きしめる時、口付ける時、触れていた身体が離れて至近距離で見る小野は、照れ臭そうで、幸せそうで。
「……たまに、寂しそう、な気が」
触れられる時は僕もいっぱいいっぱいだ。ドキドキと煩い心臓を落ち着けたくて、顔に血が集まるのを誤魔化すのに必死になる。
それでも顔が見たくなって視線を上げた先に一瞬滲む影の名を、僕は確かめられないでいた。確かめた後、改善できる自信がない。僕に希望混じりの憶測だけで動ける程の度胸はなかったが、一般的には手を出してもいい状況だったのか。
「それ、早めに動いた方がいいヤツじゃ……鈍そうな草町が寂しそうって思うくらいすーげー寂しいって顔してんだろ?」
「自惚れて手を出したら不快な思いをさせるかもと思っていたんですが」
「思慮深いのも考えもんっていうか、何その鉄の理性って感じ……?逆にスゲーわ。男なんて皆もっと衝動で生きてるもんだと思ってた」
「理性……衝動……」
口の中で先輩の言葉を反芻する。僕の衝動を抑えているのは、本当に理性だろうか。
胸に手を当てて自問すれば、返ってくるのはそんな褒められたものではなかった。僕は、大事なものを大切に扱うことが不得手だと自覚している、小野に嫌われなくないだけの臆病者だ。
「怖がっているだけではいけないと、そう思ってあの手を取ったはずなのに……弱いですね、僕は。自分を守ってばかりだ」
小野の想いに応えたい。小野の心を、守れるようになりたい。
それは確かに僕の中にある意志だ。意気込みだけでなく、事実そう在れるように、踏み出さなければ。
「カッコいいねえ、草町は」
「……?聞き慣れない評価です」
「えー?ウソだあ。自分は弱いって理解して口に出して、そんでもって変わろうって頑張れるヤツ、そんな多くないよ。オレとか、自分の弱さなんて直視しようとも思わねーもん」
「たとえそうだとしても、先輩は優しいです。他人に自然に優しくできる方が格好良いと思います」
冗談っぽく笑っていた先輩が固まる。たっぷり呼吸五回分の後、ずい、と机に乗り出して大真面目に言った。
「草町、実はめちゃくちゃモテるだろ。一部のすげーいい子に一途に想われるタイプだろ」
「僕は、告白されたのも、誰かを好きだと思ったのも、今の相手が初めてです」
「……なら、もっと楽しめば?」
「楽しむ?」
広谷先輩がよっこいせ、と席を立つ。半分程水が入ったケトルのスイッチを入れ、インスタントコーヒーの瓶に手を伸ばした。
湯が沸くのを待ちながら手際良く支度する背中は相変わらず姿勢が悪いけれど、声だけは少し楽しげだ。
「なんでもないこと話したり、一緒に飯食ったり、どっか出かけたりさ。それまで意識してなかったことが楽しみになったりしねえ?ヤキモチとか、苦しいこともたくさんあるけど……初恋なんて、相手のこと考えるだけでニヤけるくらい幸せー!ってなんねえ?」
「……解らなくは、ないです」
「ホンット人間ぽくなったな!入学した頃は本読めれば他なんも要らねーって感じだったのに!」
いよいよ広谷先輩の笑いが止まらなくなる。鼻歌でも歌いだしそうだ。
「初恋かーなっついなー……なんもかんも手探りだもんなー。思い出せば楽しかった気もするわ。リアルタイムの当事者はキッツイけど。つか何年前だ?」
独り言を垂れ流し始めた広谷先輩の背中を眺めて、そういえばと今まで読んだ恋愛ものの物語を思い出す。幸せなだけでは面白くないからか、紙の上の彼ら彼女らは大概苦悩しているけれど、結ばれれば幸せそうな、楽しそうな描写が増える。
そうか、恋は楽しいものなのか。
「草町はキスとかされるの嫌じゃないんだろ?自分から色々してみろよ。抱きしめて抱きしめ返されたんなら、抱きしめられた時に抱きしめ返してやりゃいーじゃん」
「なるほど」
「なるほど、じゃねーよ。待ってくれてる相手だからできることだぞ多分」
呆れ半分に笑いながら、コーヒーの入った湯呑みを手渡してくれる。
恐らく、触れていいらしい。それから、意識していなかったけれど、いろんな事がもっと楽しくていいらしい。
礼を言って湯呑みを受け取りながらも、なんだか無性に小野に会いたくなっていた。
「いやー春っスねー」
「でもまだ花満開って感じじゃないみたいだよ」
不意に割って入った声に出入り口に視線を投げると、広谷先輩がウゲ、と呻いた。先輩が声を上げなければ、僕が言っていたかもしれない。
眼鏡の奥の瞳を楽しげに光らせた有川さんが黒子のある口元に笑みを佩き、前髪を大きなヘアピンで留めて綺麗な額を晒した文月君が満面の笑みを浮かべている。こういう顔をしている時のこの二人には、なるべく近付きたくない。
「三部咲きくらいスかね」
「どうかな、二人とも思ったより奥手だったみたいだし、もしかしたらまだ蕾って感じじゃないかい?」
「オイ、お前らいつからそこに」
「可愛い後輩の恋を応援したいお節介な先輩としては、花咲か爺さんにならねばだよね」
「あの」
「安心してください、草町先パイ。あきづきが総力を上げて応援しちゃいますからね!」
「否、放っておいてください」
「そうだ、お前らは黙ってろ草町の為に」
ハッキリとした僕の拒絶と、広谷先輩の援護射撃はまるで手応えなく何処かへ消えた。
今までを振り返って、この二人を止められた事があったろうか。否、ない。しかし、今回の被害者は間違いなく僕と小野だ。何をする気か知らないが、丁重にお断りしなければ。
「正直、お気持ちも有難くありません。止めてください」
「どストレートっスね!でも止めません!」
「そう言わずに受け取っておくれよ。少し早めのクリスマスプレゼントだよ」
「要りません」
「小野サンきっと喜びますよ?」
「それ以上に失うものがありそうなので結構です」
「失うものなんてないさ。敢えて捨てるのは羞恥心かな。それだけの価値のあるものを手に出来るよ」
「僕はこれでも人間として生きていたいので羞恥心は捨てません」
「オレはこんなに必死に何かを拒絶する草町を見るのは初めてだ。止めてやれ」
「ピタン先パイちょっと黙ってて」
「ピタン言うな!」
こうして、心優しい先輩の支援虚しく、話はあれよあれよと言う間に有川さんの描くシナリオに染まっていったのだった。
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