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大学の最寄りからモノレールで数駅先のターミナル駅は、平日休日も昼夜も関係なく人で溢れている。周りに遊べる場所のない近隣の学生たちの拠り所だ。
かく言う僕は週三日、家庭教師のアルバイトでここまで来る。小野やあきづきの皆と外食する時も、大概ここで済ませてしまっていた。
しばしば待ち合わせに使われる壁画の前には、平日の夜である今も疎らに人が立ち止まっている。人混みの中でも、長身で栗色の髪の恋人を見つけるのは簡単だ。
普段の待ち合わせは僕が早く着いて小野を待つことが多いから、そわそわと時折辺りを見渡す様を見るのは新鮮だった。
時間は約束の五分前。着いたのだから合流すればいいのだが、有川さんたちの笑みがチラついて足の進みが鈍る。もう一歩近づけずにいたら先に見つけられてしまった。
「……えっ、くさま、ち……え!?」
「待たせた」
「め、ずらしいなとは、思ってたけど……なんか、ずいぶんカワイイね」
オマケに余計な感想まで付いてくる。
普段の僕は全身安物のセール品だ。気温に合わせて重ね着はするが、組み合わせにあれこれ悩んだりはしない。そもそも種類がそれほどない。なんなら実家にいた頃母が買った服も未だに現役だ。
目に付いたものを暑くなく、寒くなく過ごせるように身に付ける。オシャレだの流行だの全く興味がない。不審者に見られなければいい。
そんな僕が、借り物と貰い物で飾り立てられて、未だかつてない程ゴテゴテしている。
ポンチョなんて幼稚園児の頃に羽織ったかどうかも記憶が定かでない。ふわっとしたシルエットは着る人を選ぶ気がする。明言しておくが、自分で選ぶことはまずない上着だ。
尻まで隠れるざっくり編まれたセーターの袖は手が半分隠れる程ある。暖かいが少し動きにくい。
マフラーは落ち着いた色のチェック柄で、首の後ろで蝶々結びされているらしい。外したら元には戻らないだろう。
細身のスラックスは、ハーフパンツにレギンスというおよそ防寒対策の足りない衣装を固辞した結果だ。たとえ寒さを気にしなくてよかったとして、装飾らしき紐やらボタンやらがたくさん付いたハーフパンツは何処ぞに引っ掛けそうで怖かった。
内側が起毛しているブーツはふくらはぎが半分程隠れて、フォルムがまるっこい。爪先が冷えないのはありがたかった。
きちんとした作りの手袋は有川さんから譲り受けたもので、文月君には仕上げとばかりにもこもこした毛糸の帽子を被せられた。
「ん」
「手紙?」
自分で説明するのは面倒だろう、と有川さんに預けられた小野宛の手紙を渡す。中を見てはいないが、事の顛末が書かれているはずだ。
封のされていないシンプルな包みから出てきた紙は二枚。小野が困った顔で手紙と僕の顔を交互に見る。
「どうした」
「あー、いや……ちょっと早いクリスマスプレゼントだよ!って言われても、有川サンからってだけで素直に喜べないって言うか、裏がありそうって言うか」
あきづき所属ではないのに、僕と関わったが故に有川さんを正しく理解している小野が不憫だ。小野と縁を切るつもりはないので、申し訳ないがもうしばらくは一緒に巻き込まれることになるだろう。
「かわいいカッコ見られて嬉しいけど、そんな乗り気じゃない顔になっちゃうんじゃ意味ないね」
小野の長い指が僕の眉間を揉みほぐす。わざわざ嵌めていた手袋を外してそんなことをするから、外気に晒されていた僕の肌が小野の体温を奪ってしまった。
こんなことのために有川さんたちの着せ替え人形になったわけじゃない。あまり気は進まないが、文月君の言う小野が喜ぶコトは実行せざるを得なさそうだ。
「行こっか」
「小野」
小野の手が離れて、歩き出そうとする背に声をかけて引き止めた。右手を伸ばして小野のコートの裾を摘む。
顔だけこちらに向けて目を丸くして数度瞬きした小野は、体ごと向き直ると首を傾げて疑問を示した。
「今日は北口で食べよう」
「え?うん。なんか食べたいもんある?」
「見たいものがある」
「……うん?」
どちらかと言うと、南口側に飲食店、北口側には買い物目的の店が多い。ファミリーレストランくらいならあるが、食事をするなら大概南口から外に出る。
わざわざ北口に行こうなどと言うのは初めてだ。そもそも、僕が図書館以外で何処ぞへ行きたいと言った覚えがない。だからか、小野もしきりに瞬きしたまま口を間抜けに開けている。
「どうしたの、有川サンたちになんか変なもの食べさせられたの」
「借りたくなかった知恵を借りただけだ」
「借りたっていうか、押し付けられて断れなかったみたいな顔してない?」
「否定はしない。で、行くのか。行かないのか」
「あ、行く行く。たとえ有川サンの入れ知恵でも、草町が見たいものは一緒に見たい」
嬉しそうに笑うな。有川さんの手柄に思えて癪だから。
夜に来るのは初めてだが、先週の休みに文月君に連れまわされて下見というか、何処へ行けと言う指示は受けている。
恋人と出かける場所を後輩に指定されるのはどうかと思うが、今更文句を言っても聞いてもらえないし、僕自身に一人でプランを練るための知識も経験も無さ過ぎた。
歩き出せば、小野も隣に並ぶ。
駅の改札を含むビルの中は外と繋がっていて寒いが、とても明るい。店々が季節物の似たり寄ったりなモチーフで飾り、聞き覚えのある曲が延々流れていた。
一歩建物の外に出れば空は真っ暗で、一層冷たい風がビルの隙間を縫ってくる。けれど、目の前に広がったのは光の海だった。
「う、わ……すっごいね、イルミネーション始まってたんだ」
「……うん」
知っていたはずの僕も一瞬目を奪われた。
いつからだったか、前へ倣えと青と白のLEDばかり使われるようになったイルミネーションがチカチカと夜の街を彩っている。木にぐるぐると巻き付けられた電飾や、動物や雪の結晶を象った光のオブジェが存在を主張し、会社帰りの人がごった返す駅前広場もなんとなく幻想的に見えた。
通行人の邪魔にならないよう気をつけながら、青白く照らされる人混みの中をゆっくりと歩く。
僕と同じく用があるのは大概南口側で、しかも普段スクーターで移動している小野もこのシーズンのイルミネーションは初めて見るようで、楽しげに辺りを見回していた。
色素の薄い小野の瞳は僅かな光も拾ってしまう。強い太陽光は明る過ぎて体調を崩しかねないため、小野は夏の日中はサングラスを手放さない。イルミネーションも眩しすぎるのではと少し心配していたが、このくらいなら平気そうだ。
ただの電飾の集まりなのに、いつもより少しだけ足取り軽く歩けるのが不思議だ。
隣で小野が笑っていると、平坦だった僕の世界の空気がうきうきと踊りだす。静寂を好んでいたはずなのに、そのうきうきは嫌なものではなかった。
「っ⁉……お、の?」
「へへ。グラサン通すとちょっと違く見えるでしょ?面白くない?」
駅から少し離れて、人混みもそれほどではなくなった辺りで不意に視界が暗くなって驚いた。楽しげな声を出す小野が仕掛けたことなのはわかるが、表情は全く見えない。
薄暗くても視界のハッキリしている小野と違い、僕は鳥目だった。夜にサングラスなんかかけたら真っ暗でまともに歩けなくなる。
「小野が影の塊になってるが……確かに、イルミネーションは綺麗に見えるな。星空みたいだ」
「えっ、オレ見えてない?」
小野がいきなりかけてきたサングラスなのに、今度はいきなりずり下げられた。至近距離で顔を覗き込まれる。
イルミネーションの明かりを逆光に、焦ったような、迷子みたいな顔にくすりと笑いが漏れた。
「外せば見えるよ。でも、このまま歩くのは怖いから返す」
「あ、うん。……はしゃぎすぎちゃった。ごめん」
「ちゃんと面白かった。見せてくれて、ありがとう。それに、はしゃぐ程楽しんでくれて良かった。もう少し先まで行こう」
「うん」
サングラスを小さなショルダーにしまった小野と再び歩き出す。他愛ない話をしながら、普段は行かない所まで足をのばした。
近隣住民の散歩道になっている少し開けた歩道の街路樹にまで電飾は巻きついていて、通行人ではなさそうなカップルもちらほらと歩いている。
「この先に公園あるだろう」
「ああ、入るのにお金かかるとこ?」
「ああ。凝ったイルミネーションが見られるらしい。中、入るか?」
恐らく、ぎょっとした顔で小野が立ち止まった。駅からは大分離れたので、電飾と街灯があっても微細な表情の変化までは判別できない。
僕と違って小野は夜目が利く。まじまじと僕の顔を眺め、終いには額に掌をあててきた。勝手に病人扱いしないでほしい。
「聞いた話をしただけだ。熱もない」
「……オレの記憶が間違ってなければ、クリスマスとか無駄に人が多くて家から出たくないとか、わざわざイルミネーション見に行ってどうするのか理解できないとか言ってたよね?」
そんな話をしたのは、確か一ヶ月くらい前だったと思う。学食で大分先の予定で盛り上がる学生たちを見ての感想だったはずだ。よく覚えているな。
「言ったな。でも、小野はこういうの見たかったんだろう?」
「うん、まあ。草町と見たいなーとは思ってたけど。オレのために誘ってくれたの?」
「時期が大分早いから小野の希望に添えてはいないかもしれないが、少しでも喜ぶならと思って」
「……クリスマス当日はコタツでみかん食べようね」
「それはいいな。クリスマスに限らず冬中やってそうだが」
「確かに。ね、草町」
「ん?」
「嬉しい。ありがとう」
「よかった。楽しそうな小野が見られて僕も嬉しい」
笑いあって、また歩きだす。
何度も何度も立ち止まって、確認したり、意見をぶつけたりして、また二人で歩き始める。この繰り返しを愛おしいと思うようになった。
座り込んで世界を眺めていただけだった僕の手を引いて、自分で歩いてこそ見える景色を教えてくれた。歩き続けなくてもいいと、時々一緒に休憩して、また進み出す。出来うる限り永く、隣を歩いていたい。
「あきづきの皆に言われたことがある」
「う、ん……⁉︎」
「ひとつ、人は思っているより他人のことを気にしていないから、度が過ぎなければ大概のことは視界に入っても認識されない。ひとつ、人前でイチャつきたくない気持ちは理解しないでもないが、恋人を不安にさせるのは如何なものか。ひとつ、御託はいいから手を繋いで歩くくらいしてやれ」
それから、もっと衝動のまま生きていいし、恋は楽しんでいい。
部屋の中でなら何度も握っているのに、ドキドキと心臓がうるさくて小指と薬指を握るので精一杯だった。でも、楽しい、と思う。
好きな人と手を繋いで歩くのは、ドキドキする。嬉しくなる。何処までも行けそうだと思うくらいに足取りが軽い。こんなに息が苦しいのに、冒険小説のクライマックスを読んでいる時みたいにワクワクする。
不意に、指が振り解かれてしっかりと握り直される。指が絡んで、身体も半歩分引き寄せられた。
「もしかして、手、繋いで歩くためにそんな可愛いカッコしてんの?」
「……妥協案だ。いつもの格好でこんなこと出来るか」
小声で話しても聞こえるくらいに近い。自由な左手でマフラーを鼻が隠れるくらい引き上げた。顔が熱い。
熱のやり場を探していたら、繋いだ手が小野のダウンジャケットのポケットへ持っていかれた。抗議する間も無く、頭頂部に重みを感じる。頬を寄せてきた小野が、ポケットの中でぎゅうと握る手に力を込めた。
「えへへ」
「なんだ」
「しあわせ」
小野といると、寿命がどんどん削られていく気がする。鼓動がうるさい。身体が熱い。静かに慎ましく生きていたはずなのに、小野が笑うと人生を全力疾走しているような気分になる。
人間は慣れる生き物であるはずなのに、心が暴走する感覚はなかなか慣れない。これからも隣にい続けたら、いつか慣れることが出来るだろうか。慣れることを諦める方が早い気もする。
その諦めに名前を付けるなら、しあわせがいい。
「帰ろう」
「えっ」
「帰る。さっさと歩け」
「帰るって、飯は⁉」
「コンビニかどこかで買う。もしくは家のカップ麺で済ます」
繋いだ手もそのままに、引きずる様に回れ右して歩き出した。驚いた小野が歩道のタイルの隆起に躓いて、危うく転びそうになったがギリギリ持ち堪える。
お互いを支える様に踏み止まったから、息がかかる程近くに顔があって二人して数瞬固まってしまった。ふは、と笑って、ちょっと落ち着こうと向かい合う。ポケットから出した手は繋がれたままだ。
「どしたの、いきなり」
「抱きしめたい」
笑顔のまま固まる小野を眺めるのはいったい何度目だろう。振り回されているのは自分だけではないと分かるから、この顔は嫌いじゃない。
「無性に抱きつきたいが外では嫌だ。だから早く帰ろう」
こういう時、素直に思うまま言葉を紡げば高確率で真っ赤になったかわいい顔も見られるから、むしろ好きだ。鳥目じゃなければ、白い肌が染まっていく様をもっとちゃんと見られたのに。
握った手に力がこもる。うつむいてしまった小野の顔を覗き込もうとしたら、左肩の辺りに額を寄せられた。小野の髪とマフラーが僕の顔下半分を包んで、小野の香りが鼻腔をくすぐる。
「……いつでも、バッチコイですが」
「やだ。帰る」
「あ、うん。そうだね。ちょっと抱きつくくらいじゃ済まなそう。超キスしたい。帰ろ帰ろ」
今度は僕が引きずられる番だった。しっかりと握った手をぐいぐい引っぱって進んでいく小野に続いて、早歩きに進む。
栗色の髪が揺れる後頭部を眺めていると、時折耳の端が覗いた。きっと真っ赤に染まっていることだろう。
身長差の分、足の長さも違うので、小野に遠慮なく大股で歩かれると、僕は回転数を上げないとついて行けなくなる。小走りになれば今も隣を歩けるだろうけれど、なんとなく引っぱられる感覚が楽しくてわざとゆっくり歩いた。
早く帰りたい。でも、もう少しこのまま。
人目のあるところではしゃぐのは趣味じゃないし公共の場でベタベタする気はないが、このくらいのドキドキは知ることができてよかった。小野も楽しそうな気がする。
ゆっくり歩いた駅からの道を引き返すのに、半分の時間もかからなかった。駅ビルが見えたあたりで手を離そうと力を抜いた時、一瞬だけ握り込まれてから放される。
繋いだ手を放す時、抱きしめた体を放す時、口付けて離れる時。小野は名残を惜しむように、一瞬強く、近く、僕に触れる。その度に、心臓を握られるような錯覚を覚えていた。
まだ放すなと、何度言いそうになったことだろう。駅を突っ切り、スクーターを停めているいつもの駐輪場へ向かう間、二人きりの時なら言ってもいいかなと、茹だった頭で考えていた。
スクーターの後部座席に跨り、小野の背にぎゅうとしがみ付く。びくりと小野の肩が震えて、軽く振り返ってなあに、と笑う。
普段、後部座席に乗せてもらう時は座席の端を掴む程度で、腰に手を回したりはしない。移動中にこんなにくっつくのは、付き合う前、デートに行こうと言った時以来だ。
「今日はデートだろう」
「あ、ハイ。そうだね。でも草町ばっかズルい気がします」
「帰ったらいくらでもどうぞ?」
「くっ……撤回不可だからね、そのセリフ!」
怒ったように叫んで、小野がスクーターのアクセルを開けた。師走の冷たい風が、火照った頬を撫でて心地いい。勝手に上がる体温も悪くない。
気持ちは早く早くと急いても、やはり小野は安全運転でいつもと同じだけの時間をかけてアパートにたどり着いた。いつもと違うのは、赤信号で止まる度に腹に回した僕の手を握っていたことだ。
握り返したら信号が変わっても離し難くなりそうだったから、僕はひたすらに耐えるだけの時間を過ごした。
「っあー、もう……すき」
「……うん」
アパートに着き、部屋に入ってドアが閉まりきる前に長い腕に閉じこめられた。せめて靴を脱がせろとか、玄関じゃ寒いだろうとか、思うことはたくさんあったけれど全部飲み込む。移動中、我慢していたのは僕も同じだ。
背に回った手の力が弱まることはなく、僕のマフラーに小野が顔を埋める様は猫が自分の匂いを付けようと首を摺り寄せているようだ。あんまりぎゅうぎゅうと抱きしめるから、僕も真似して擦り寄ろうにも動けない。
キツく抱きしめてくれるのは嬉しいが、今日の僕は先輩の教えに従い、衝動には逆らわないと決めていた。
「小野」
「もうちょっと」
「待てない」
「何を?っん」
小野が満足して放してくれるのを。
疑問に一瞬力が弱まったのを見逃さずにほんの少し身体を離し、両腕を小野の首に回す。十センチに満たない身長差を埋めるように背伸びをして、今度は僕から小野を引き寄せて口付けた。
真っ暗で静かな玄関で口付けを交わすと、小野の想いに応えたあの日を思い出す。耳のすぐ側に心臓があるかのように、どくどくと脈打っているのがわかった。
僕が、小野を想う音だ。
ゆっくりと唇を離して側近くで見つめあっても、暗すぎて小野の綺麗な伽羅の瞳が見えない。でもきっと、驚いて目を見開いている。息がかかるほど近くにいるはずなのに呼吸が感じられないから、それを忘れるくらい驚いているんだろう。
いつも思う。僕は心を伝えるのが下手だ。拒絶されることが怖くて、与えられるものに甘えてしまっていた。周りの助言を得て行動してみれば、こうして小野が動けなくなるくらい驚かせてしまう。
返ってこない反応は、思いの外不安を煽るものだった。いつも、こんな思いをさせていたのか。それなのに、何も言わずに隣に居てくれたのか。
小野の想いの深さが僕の心臓を掴んでいるみたいだ。苦しくなるくらい、僕も小野が好きだと伝えたくて、再び唇を寄せた。
「……ん、んぅ」
触れるだけだった拙い口付けに、吐息が混ざる。唇を押し付けて、食んで、舐めて、吸って。ゆっくり、呼吸を共有するように、応えあって深くなる。
背を滑った右手に腰を抱き寄せられた。左手は僕の頬に触れて、首の後ろに回る。
後ろ頭を支えられて少し楽になった分、気が緩んだのか足の力が抜けた。ガクン、と落ちそうになる体を小野が抱き留めてくれる。
「……だいじょうぶ?」
「うん……ありがとう」
驚いた声でのやり取りの後、二人して少し笑ってしまった。くすくすと笑いながら肩口に額を寄せてみる。
さっきのは、気の緩みではなくて安心しただけかもしれない。小野の腕や体温はいつも心地よく僕を包んでくれる。
「あー……とりあえず、上がろっか」
「うん」
靴を脱いで、台所の短い廊下を手を引かれて歩いた。外で繋いだのはさっきが初めてだけれど、自室でなら割とよくある光景だ。
照明を点けてコートをハンガーにかけたところで、小野がちゃぶ台の側の定位置で正座していた。唇を引き結んでまっすぐにこちらを見るから、僕も正面に正座して向き合うと小野が手の平を上にして右手を差し出してくる。
指が長くて、僕のそれよりも一回り大きい手には収まりがいいらしく、小野は意味もなく僕の手で遊ぶことがあった。本を読んでいる間、左手だけ小野に貸すのも日常茶飯事だ。
差し出された右手の意図を汲めなかったので、自分の右手を置いてみた。
「えっと」
「違ったか?」
「あ、やー……違わなくはないんだけど。フライングされた気分」
「うん?」
「まあ、いっか。あのね」
左手も使って、きゅ、と手を包まれる。まっすぐ僕の目を見る伽羅に天鵞絨が混じったのが見えた。光の加減で色を変えるヘーゼルの瞳は、時折小野の感情に染まる。
普段の伽羅色はもちろん好きだ。欲の透けた天鵞絨は最初苦手だったけれど、つられて体温が少し上がるような、そわそわと落ち着かない感覚も嫌いじゃない。
「草町に、触れたいです」
「うん。僕も、小野に触れたい。触ってほしい」
「……ありがとう」
「ありがとう?」
「好きでいさせてくれて、好きになってくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
手を握って、笑いあって、また口付けた。
「あー、のさ……」
「ん?」
「オレがこっち、でいいの?」
押し倒しておいて何を今更。という素直な感想が顔に出ていたらしく、小野が慌てる。僕の表情筋も、この一年弱で大分人並みのそれに近付いた。
交代でシャワーを浴びて、腸内洗浄まで済ませたのにこの段階でじゃあ役割を変えましょう、は流石に無理がある。
やり方を調べたり聞いたりして、最低限の知識は頭に入れておいたが、実行するとなれば簡単にはいかない。
準備だけでも時間はかかるし、慣れない行為で精神的に参る上に体力的に既に限界が見え始めていた。服を着直すのも億劫で、タオルを羽織って部屋に戻ったら軽く説教をされた。
僕は既にベッドの上でろくに動く気にならない状態で小野を見上げている。
「だってさ!なんかこう、えっと、そりゃすげぇ抱きたいんだけど、それこそ一年も二年も三年も前から好きで大好きで抱きたいんだけど!でも、草町だって男なわけだし、まあいつかは抱きたいけど草町がヤりたいと思ってくれるなら逆でも全然」
「ああ、そんなことか。まあ、僕もどっちでもいいと言えばどっちでもいいんだが」
「えっ⁉」
「は?」
心底驚いた顔をされても困る。何か変なこと言っただろうか。
「草町、オレで……勃つの?」
「さっきから言ってること滅茶苦茶だぞ」
「だ、だって」
「聖人君子じゃあるまいし、僕だって性欲くらいある。人より薄くても」
好きでもないが、ないわけじゃない。正直な所を言ったら、小野の顔はみるみる赤くなっていった。
時折思うが、小野は僕を神聖視している気がある。片思いの時期が長かったからだろうか。
赤い顔で、至極真面目に小野が問うた。
「ど、どんな……」
「どんなって?別に、普通に、こう」
「わーわーわー!待った!ちょっ、タンマ!」
口で言うのもなんだからと、とりあえず履かされたパンツに手をかけたら慌てて制される。
真面目に聞くから真面目に答えようとしたのに、何がしたいんだ。そんな性欲まみれの天鵞絨を曝しておいて。
まっすぐ、見上げた先には小野しかおらず、普段は滅多に見えない額が少し覗いている。真上から栗色の覆いに視界が閉ざされるこの空間は、きっと僕だけのものだ。
「小野は、童貞か?」
「はっ⁉︎……う、…………はい」
「後ろもしたことない?」
「……処女です」
「その使い方は合ってるのか……?」
何が言いたいのかわからない、と顔を真っ赤にさせているのがよく見える。そういう顔を、かわいいと思うようになった。
手を伸ばして頬に触れると、天鵞絨が揺れる。その色を、愛おしいと思う。
「小野。僕の童貞も処女もやるから、小野のも寄越せ」
「はい⁉」
頬に触れていた手を首にまわして引き寄せた。口唇が触れる。心地いいと思う。
触れて、食んで、閉じていた瞼を持ち上げる。至近距離で、揺れる瞳の奥を覗き込む。僕の目も、そんな色をしているんだろうか。
「おっとこまえ……ほれなおす。抱いてね、今度」
「ん。僕も小野に惚れてる。ヘタレだけど、かわいいと思うよ」
鼻が触れる距離で笑いあって、唇を求めた。
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