天使はベッドで夢を見る

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「翼を堕としても、結局、一緒になれなかったんだよ」  そうベッドで呟く男は、自分のことを元天使だと名乗った。所謂、堕天使というやつらしい。ただ風俗店で働いている私は、あ、こいつやばいかもしれない、と無意識に視線を逸らした。適当に話を合わせようと、からかうように言った。 「あは、天使が風俗くる?」 「店の前のお兄さんが、寂しくない?っていうから」 「ああ、キャッチね」  こういうお店だと思わなかったけど、と呟く横顔は、確かに天使と見間違えるほど綺麗であった。白い肌に、色素の薄い髪の毛と睫毛は店の下品な光に照らされようと美しく瞬いていた。  まあ、終わりまでまだ時間がある。少しその妄想を聞いてみよう、と興味がでできた。 「確かにお兄さん、天使みたいに綺麗だもんね」  勘違いするのも無理ないか。まじまじと顔を見る。ヒゲも何も生えていない顔は、まるで絵画だった。 「ね、お兄さんが翼落とした理由って、女関係?」 「……そうだね」 「え〜、聞きたい」  陶器の様な表情筋は、1ミリも動かない。もしかして怒ってしまったのかと思ったが、眉ひとつピクリとも動かない。 「……彼女が人間で、僕が天使だったら、僕が人間になるしかないでしょ」 「彼女が天使になっちゃいけないの?」 「そう簡単になれるものでもないし、“なる”ものでもないから」  ふうん、そんなもんなのね、と話半分に聞く。お客さんだよ、と扉をあけてびっくりした。よくもまあ、こんな界隈にこんな美形が居たものだ。死んだ様な目で情事を終わらすと、ベッドに横になり天井を仰いで前は天使だと言ったのだ。誰でもヤバいやつと思うだろう。 「翼切るのって痛いの?」 「そりゃ……君たちが腕を落とすのと一緒じゃないか」 「うそ、痛くないの?」 「痛いよ。それでも一緒になりたかったんだ」  生気のなかった目に少しだけ悲しみが深くなる。すごいなぁ、腕を落とすぐらいの痛みを、好きな人のために耐えれるんだ。私とは大違いだ。 「……そんなに、好きだったの?」 「好きだった……好きだよ、今でも」 「どんな人?」  長い睫毛に縁取られた色素の薄い、青味がかった瞳がちらりと横目でこちらを見る。 「綺麗な人だよ、心の綺麗な人だった。地上に落ちた僕を助けてくれた」 「ふうん、なんだか聖母みたいな人ね」 「……君にすこし似てた」  そう呟く彼を、きょとんとした丸い目で見る。この自分が? カラカラと笑いながら枕を軽く叩いた。 「ははは、私に? ……ああ! だから私を選んだのね」 「そういうわけでは、ないけど」 「図星じゃないの」  耳にかけた長い自分の髪から、シャンプーの匂いが漂う。枕に頭を預けたまま、美しい顔面を見上げた。ただの蛍光灯に助ける金色の髪は絹のように光を透かしている。 「で、くっつかなかったの? その人と」 「もう、決まった人がいたみたいなんだ」 「うそぉ、あなたみたいな美形だったらいくらでも奪えるでしょ」 「とても幸せそうだった、奪おうとは思わないよ」 「でも、貴方は翼まで落としたワケでしょう?」  たかが、やばい奴の戯言なのにここまで真剣になってしまうのも、おかしな話だった。だけど、嘘をついてるような感じもしない、不思議な空気を纏ってた。 「人間は、恋をした時何を犠牲にする?」 「色々あるけど……時間やお金じゃない? プレゼントとか、一緒にいる時間」  そういうと、ピクリとも動かなかった顔が、困ったような顔をした。悲しみ、それを自身で笑うかのような切なげな笑みだった。 「僕は、ただ翼を犠牲にしただけだ」 「でも、大きな犠牲じゃない」 「それに痛みが伴おうと、仲間たちに侮辱されようと彼女のための犠牲ではなかったんだよ」 「そんなこと……」 「ただ、彼女と同じ人間になりたかった」  そんな自己満だったのかもしれない、そう微笑むと、翼があったであろう肩をさする。  なんて悲しそうな顔。ここなんて、ろくなものじゃないでしょうに。きっと、天界の方が綺麗なものだらけだろうに。 「あなたにも愛されて、他にも愛されてる人がいる。その彼女、とても羨ましい」  何本も横線が入っている、私の汚い手首。私のこの傷だって、好きな人と一緒にいたいからつけた傷だ。ずっと横にいて欲しくて、いてくれなくて、振り向いて欲しくて、くれなかった。この世界に1人の様な気がした。生きていない様な気がした。そんなただの醜い願望と寂しさの傷。  そんな傷を隠すように、手首をギュ、と握る。 「翼を犠牲にして来た世界は、ご期待に添えるものじゃなかったでしょう」 「確かに横に彼女はいないけど」  ベッドを軋ませて、上半身を起こした。産毛一本も生えていない肌は陶器のようで露わになった背中には肩甲骨からざっくりと裂かれたような傷が2つ、付いていた。まだ完全に治っていないような赤黒い傷は生々しく、本当に翼を切ったような傷であった。 「彼女と同じ人間になって、同じ目でこの世界を見れてる。悲しみも嬉しさも、同じ人間という目で見れてること」 「その傷……」  それだけで充分だ。そう微笑む顔は、悲しげで、とても満足している顔には見えなかった。けれど、きっともうどうにもならないこと、どうにかしようともしていないとこはひしひしと分かった。 「これを話すと、信じてくれなくて。君だけだよ、真剣に聞いてくれたのは……」 「そんな」 「ありがとう」  そう微笑む顔は、眩しいほど美しかった。そんな笑顔を向けられる人間ではないのに、と心が痛くなる。薄汚れたTシャツを着る。背中にはうっすら血が滲んでいた。 「……私にとってこの世界は汚くて寂しくて、嫌な世界だけど。あなたにとっては汚くても、寂しくても、素敵な世界なのね」  そう微笑む、髪は絹の様に靡いてベールの様だった。その中で、白いシーツを被った自分も、まるで処女のように、絵画のマリアのような、綺麗になれたような気がした。実際は、使い古された風俗店のシーツなんて、それとは真逆のものである。きっと似てると言われた女性とも、似ても似つかないのだろうな。 「そうだね、みんな一生懸命生きてる、いい世界だ」  こんな話の中で、この世界も悪くないのかもしれない、と思ってしまう自分の頭の悪さも自覚した。天使が翼を堕としてまで来たかった世界は寂しく汚れた世界であろうと、その宝石が埋め込まれたような瞳から見る世界は、きっと違う世界なのだろう。寂しくても、悲しくても、きっと彼女が心を暖かくしてくれているんだろう。  あなたの話が本当かどうかなんて、今更考えないことにしよう。  今はただ、その瞳が欲しいと、透明な涙が頬を伝う。
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