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その女性を何度か見かけた事があった。
彼女は決まって雨の日に現れると、雨が止むまで窓の外を見ていた。
気がつけば僕は彼女から目が離せなくなっていた――。
雨が降ると、少し期待してしまう。
急に降り出した雨に画材を濡らさないよう、男は慌てて近くのカフェに駆け込んだ。
この店には何度も来ている。店主ともすっかり顔なじみだ。
入口の扉を開けると、店主が無言で笑みを浮かべ、すかさず空いている席に案内してくれる。
手巾で肩口に降り掛かった雨粒を払い、コートの内側にかばった画材を、向かい合う椅子にそっと置く。
降り出してすぐに店に飛び込んだので紙に水滴はかかっていない。画材の無事を確認してようやく男は椅子に腰掛ける。
その時、ようやく隣のテーブルに『彼女』が居ることに気がつく。
画材の確認に集中するあまり、近くに座る彼女に気づくのが遅れてた。
油断していた分、不意打ちを食らって心臓が小刻みに跳ねる。
『彼女』はいつものように、店の一番奥にある窓際の席に静かに座っていた。
目の前に置かれた温かいお茶にもほとんど口をつけず、一心に外を見つめている。
まるで喪服のように暗い色の服を身につけ、窓から差し込む薄明かりで逆光になっているその人は、影そのもののようだ。
しかし、髪に挿したカンパニュラの飾りですぐに彼女だとわかった。暗色の髪に紫の花が似合う。
彼女を初めて見かけたのは、どのくらい前になるだろうか。
窓辺に佇む彼女は、まるで他の人には見えていないものを見つめているようだった。
ずっと誰かを待っている。そんな眼差しにいつしか男は強く惹きつけられていた。
雨の音を聞きながら、さり気なく窓辺の彼女を眺めコーヒーを飲む。そんな日々が楽しみになりつつあった。
男が物思いに耽っていると、ぱたんと音を立てて椅子から画材が落ちてしまった。どうやら、背もたれへの立てかけ方が悪かったらしい。慌てて床に手を伸ばし画材を拾い集める。
転がってしまった筆の行方を目で追うと、白い手がすっと視界に入った。
意外なことに彼女が筆を拾い、男に差し出してくれていた。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
声がうわずりながらも礼を言う。
これは雨の神様がくれた好機だと思った。
「……きみ、いつも窓際に座っているよね。何度か見かけたことがあるよ」
「……」
椅子に座り直した彼女は、視線だけを男に向けてきた。
黒い瞳は光すら吸い込みそうなほど深い。
「雨は好き?僕は苦手だな。紙が湿るし、絵の具が乾きにくい」
挫けそうな自分を励まし、続けて彼女に話しかけてみた。すると僅かに彼女が頷く。
「半分は、好き。……あなたは絵描きなの?」
形の良い彼女の唇から小さな声がぽとりとこぼれ落ちた。その視線は男が椅子の上に置いた画材に向けられている。
彼女から話かけてくれたことに驚き、男は気持ちがざわついた。
「うん。まだまだ半人前だけどね。あのさ……もしよかったら、君の絵を描かせてもらえないかな?」
言ってしまってから男は少し後悔する。いきなり踏み込みすぎただろうか。
今更遅いかもしれないが、少しでも何気ない感じを装う。
「これもなにかの縁だし、ちょっと練習台になってくれると嬉しいんだけど」
ほんの一瞬、男に目線をあわせた彼女は、思案げな表情を浮かべて窓の外に目をそらしてしまった。沈黙の時間がやたらと長く感じる。
「……雨が降っている間だけなら」
そういって正面から男を見つめた。
美しい女の左頬にくっきりとひとすじ、鋭い退紅色の傷が走っている。
完璧なものを損ねるはずのその傷を、男は何故かきれいだと思った。
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