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第一章
怒ってる。どうやらボクの目の前の女は怒っているようだ。眉間にはマリアナ海溝を思わせるほどに深くしわを寄せ、目は白いところがないぐらいに真っ赤に充血していた。その何度も重ねた口からはそんなにあるかと思うほどにたくさんの罵詈雑言が吐き出されていた。おそらくボクに向けて投げかけられているのだろう。しかし、その言葉たちは全てボクを通り抜けて後ろの壁にぶつかっては落ちていく。
「あ、そう。」
ボクがそうつぶやくと女はより一層声を荒げた。その発せられた言葉はもはや聞き取ることもできず、声というよりかは音に近い何かだった。その奇妙な音を発していた女はついには周りにあるテレビのリモコンだったり、自分のカバンだったりを投げつけてくる。その投げつけられたモノたちはさすがに通り抜けることはなく、ボクに直接当たる。痛い。もう投げるものがあらかた無くなったタイミングでボクは一言、
「じゃあ、もういいよ」
と言って、その女の部屋を去った。
ドアが閉まる瞬間まで女は何やらお願いにも聞こえるような言葉を言っていたような気がするが、気にも留めることなくドアを閉めてそのマンションを出た。マンションの玄関口の自動ドアが開くと同時に生温かい風が頬をなでる。ボクは夏が嫌いだ。
帰り道にある喫煙所でタバコを吸っていると、ポケットに入れていた携帯が何度も震える。最初は無視していたが段々と煩わしくなってきたので確認すると、たくさんのLINE通知が届いていた。案の定、先程の女からだ。通知は数十件ほどあったが、基本的にはもう一度会って話したい、とのことで、後は同じような内容、その返事を催促するようなものだった。特にちゃんと読むこともしなかったが、スクロールした最後のほうに、
『二人の将来についてちゃんと考えたい。』
とあり、思わず笑ってしまった。ふかした煙がその拍子に口から出てふっと消えた。馬鹿言わないでくれ、たまたま街であっただけ、それもちょっと前ぐらいの話だろ?よく覚えてもないけど、落ち込んでたあなたを励ましてやったんだっけ。否定されていたあなたをボクは肯定してあげた。それだけで十分だってのになんでそれ以上を求めるのだろう?強欲だよほんと。愛もクソもなかったよ。あなたの本名だって知らないんだから。女のアカウントをブロックして、タバコの火を消して、ボクは再び帰路に就く。
何日か振りに帰ってきた家のポスト受けには大量のチラシが詰められていた。玄関を入ってすぐある洗い場は使ってないから埃だけが積もっていた。
ふーっと一息つきながら、ベッドに横たわる。天井を見上げて一言口にする。
「なにやってんだろう」
ふと顔を右に向けてテレビのほうを見る。いや、テレビの横にある写真に。捨てきれなくて、でも持ってても仕方ないからと思って燃やそうとしたけど途中でやめて、ボクと一緒に写っている人の顔が焦げて見えなくなってしまったその写真に。その写真の中のボクは笑っている。この時のボク、正確にはボクたちは、なんでも出来る気がしていた。夏も大好きだった。いっぱい海にも行った。たくさん写真を撮った。もうこの1枚しかないけど。
「いつまでも持ってても仕方ないか」
それを捨てようとベッドから起き上がり、写真に手を伸ばそうとしたとき、LINE通知が鳴る。画面を見るとそこには三年ぶりの名前が表示されていた。その下の本文には
『いつ空いてるの?』
とだけ書いてあった。
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