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■ 1 ■ 【2007年 マドリッド,スペイン】  火事の第一報が届いたのは、教会の鐘が正午を告げた直後だった。ホルヘは飲みかけていたビールを飲み干し、水色のポンコツ車に飛び乗った。スクープを取ること。それがホルヘの人生の目的の一つだった。もちろん、他にも目的はある。ビールを飲むこと、通りで女の子に声をかけること、スタジアムのシーズンチケットを手に入れること、それから気むずかしい娘を気だての良い娘に変えること。  都心を抜けて郊外への道に合流した辺りで、パトカーや消防車のサイレンが聞こえてきた。遅れて応援にやってきた消防車と先を争いながら、ホルヘは現場に到着した。平和そうな住宅地だ。野次馬が黒煙をあげるスーパーマーケットを囲んで騒いでいる。悪のりしてはしゃぐ若者を警察官が怒鳴っている。ホルヘはカメラをつかんで車外へ出た。そして野次馬をかき分け、前へ前へと進んでいく。  赤い火は見えなかった。消防士がいくぶん落ち着きを取り戻したようにスーパーマーケットに水をかけていた。ホルヘは仕方なくそれを撮影した。本当なら豪快に燃える炎を撮影したかったところだが。遅れを取ったのはしかたがない。しかもちょっと距離があった。それに火事の規模が小さすぎた。どっちみちたいした記事にはならなかっただろう。  それでもホルヘは一通り野次馬に取材してみることにした。  目撃者の話はこうだ。スーパーの裏手でポン、という小さな爆発音がしたあと、倉庫から火があがり、店内に煙が充満しはじめた。当然ながらパニックになる。母親は子どもを呼ぶ。子どもは先に出ているからと店員に促されて外に出るがいない。母親に二度目のパニックがくる。店に戻ろうとするが止められ、泣き叫ぶ。勇気ある野次馬の一人が言う。自分が行ってくる、と。非番の消防隊員だと言うので店員も店主もお願いする。数分後、店の中で何かが崩れ落ちる音がして、母親は気を失いそうになる。 「で?」ホルヘはいいネタをつかんだと胸の内で笑った。「そいつは子どもを助けたんだな? 今、どこにいる?」  野次馬は「さぁ」と辺りを見回した。「消防隊が到着して、整理しはじめたからわからなくなっちまった。非番の消防士なんだから消防車のとこにいるんじゃないのか? それか病院に運ばれたか。やけどしてたからさ、子どももヒーローも」  ホルヘはありがとうと告げて消防車の方へ向かった。部外者は入ってくるなと言われながら、ホルヘは強引に引き止めた若い消防士に怪我人を運んだ病院の名を聞いた。非番の消防士もそこに運ばれたのかと尋ねたが、知らないと言われた。  ヒーローを独占取材するチャンスだ。ホルヘはポンコツ車に乗り込み、アクセルを踏み込んだ。そしてさっき来た道を、さっきよりスピードをあげて戻り始めた。  マドリッド中心部に入る追い越し禁止の道で、ホルヘは前を走るのろまな赤い車を追い越した。追い越し際、ホルヘはのろまな運転手に罵声を浴びせようかと思ったが、中指を立てただけで思いとどまった。  どこかで見た顔のような気がした。が、一瞬で遠ざかる者を相手にするほどホルヘも暇ではなかった。今は聖テレサ病院に急ぐことだ。子どもを救ったヒーローの独占取材をして、そして記事と写真を売り、気むずかしい娘が気に入るようなものを買い、優しい娘にするのだ。そして娘に父はいないと言われるような、ぐうたらなろくでなしの父を卒業するのだ。今年こそクリスマスには娘と一緒にすばらしい休日を過ごすのだ。  去年は最低だったな。ホルヘは煙草に火をつけながら思った。一人娘のグロリアは、父親は仕事でいないのだとうそをついて、学校の友達の家に泊まって帰ってこなかった。ホルヘは一晩中、一人でクリスマスソングのCDを聞きながら娘が帰るのを待っていた。彼は娘の友だちの名前を知らなかったし、電話番号も知らなかった。翌日は酔っぱらっていて、娘が何時に戻ったかも気が付かなかった。クリスマスツリーは倒れていて、下に置いたプレゼントの包みは開かれてもいなかった。グロリアは前からほしがっていたスニーカーを友だちのお父さんにもらったと言ってはしゃいでおり、ぬいぐるみの入った包みを持ったホルヘは返して来いと怒鳴った。グロリアとはそれ以来、冷戦状態だ。  さっきの車の運転手の顔が急に頭の中によみがえり、ホルヘは思い切り急ブレーキをかけた。そしてバックミラーを睨む。後続車がクラクションを鳴らしながらホルヘの車を追い越していく。ホルヘはタイミングを見てUターンをした。畜生、畜生、畜生、畜生、あのクソ日系人め。ハンドルを殴りながらホルヘはアクセルを目一杯踏んだ。  赤い車は影も形もなかった。ホルヘは自分の頭を一発殴った。  ま、行き先はわかってるさ。
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