堅物教師と前髪少年

2/2
5人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
 彼が職員室のドアを開けやって来たのは、ホームルーム終了後すぐの事だった。  控えめに戸を閉めて傍にやって来た彼の手には、あの時と同じノートと筆箱があった。丹生 冬真、もう顔と名前は完全に覚えた。さすがにあんな印象的な瞳、忘れられる訳がない。 「先生、それで続き……」 「ああ、ちょっと待て」  ノートを開きかけた彼を制止し、荷物を纏めて立ち上がる。手の中に握った物をポケットに入れてから、私は口を開いた。 「これから此処で他の先生方の会議があるから、資料室でやろう。そこでなら落ち着いてできる」 「わ、分かりました」  少し困惑顔で、彼は床に置いていた荷物を肩に掛け直す。職員室の出入口を潜ったところで、二・三人の職員が入れ違いに入って来た。ナイスタイミングだ。  社会科資料室の扉を開け入ると、古書独特のすえた臭いが鼻をついた。そのまま部屋の奥、窓際にある事務机の椅子に座り、傍にあった黒い座面のパイプ椅子をすぐ横に置く。 「ここに座ってくれ」  促すと、彼は肩にかけたスクールバッグを床に下ろしそこに座った。長い前髪の隙間から、あの色がちらりと見える。  私はあえて視線をやらないように、受け取ったノートに視線を落とした。 「それで、分からない部分はどこだ?」 「あっ、ここです。『十九世紀初めに栄えた江戸文化は?』って問題と、それから……」 「ああ、ここは『化政文化』だ。この時代は浮世絵や滑稽本、歌舞伎や川柳などの町人文化が栄えたと言われていて――」  説明しながらも、横を見ないようにするので精一杯だった。何とか意識しないようにと思う反面、余計に視線を向けたくなってしまう。それでも鋼の意思で頑なにノートに目を落としていると、ふいに彼が「あっ」と小さな声を上げた。  思わずそちらを見ると、どうやら消しゴムを落としたようで必死に捜していた。一緒になって屈むと事務机の下の奥に、青と白の四角いパッケージが見える。  床を這う体勢になり片腕を伸ばすと、指先に引っ掛かった。苦心して手繰り寄せ、掴めたそれを手に左を見る。 「落としたの、これ……」  そこには、乱れた前髪のせいではっきりと目が見えるようになった、丹生の顔があった。  消しゴムが見つかった安堵(あんど)からか、その表情は晴れやかで。思わず、口走ってしまった。 「――なあ。前髪、切った方が似合うと思うぞ」  彼はほんの少し呆気に取られた顔をしてから、すぐに(うつむ)いた。 「校則違反ですよね。分かってます、検査の日には何とかします」 「そうじゃない」  強く遮ると、伏せられた顔がゆっくりと持ち上がる。私はその隙を突くように、手をポケットに突っ込んである物を取り出した。  水瓶座モチーフの、シルバーのヘアピン。それを彼の長い前髪に通し、片側で留める。 「ほら、やっぱり隠していたら勿体ないじゃないか。こんな綺麗な瞳、一度見たら忘れられないぞ」  対面にあるヘーゼルの瞳は、驚きに見開かれたままだった。  あまりにも固まっているので不思議に思ったが、よくよく思い返してみると、とても同性相手にする事ではなかったと気付く。もう取り消せないので、私は慌てて弁解を始めた。 「あ、いやっ……やましい気持ちとかでは断じて無くてな! その、お前の呟きが聞こえたものだから!」 「…………やっぱり、そうですか」  それを聞いた彼は、また沈んだ顔になり留められたヘアピンを外した。  纏められていた前髪がさらりと流れ、目元を覆い隠す。 「僕、隠していた方が楽なので。ジロジロ見られて、また気持ち悪いとか言われたら、たまったもんじゃありませんから」  一見平気そうな態度で言われた言葉だったが、しかし確実に傷付いてきた過去が見えていた。手の中のヘアピンを事務机の上に置くと、彼は荷物を手に立ち上がる。  私は無意識に椅子から腰を浮かせると、その肩を掴んでいた。 「なっ……!」 「そんな事言うやつがこの学校にいたら、私が怒ってやる」 「え?」  丹生は、目の前の教師が何を言っているのか理解出来ないという顔をしていた。正直なところ、自分でも何を口走っているのか理解出来ていない。そんな状態の頭でも、口だけは素直に動いていた。 「を貶(けな)すような奴は、大声で叱ってやる。価値観を否定されたんだからな。廊下に立たせて、バケツでも持たせてやるさ。……だから丹生、自分を否定するな」  そこまで言ってから、どんな言葉を彼に伝えたかったのかやっと分かった気がした。  私は、否定して欲しく無かったんだ。自分が美しいと思ったものだから、誇らしげに見せて欲しかった。  隠して欲しく、無かったのだ。 「頼むから、私が美しいと思ったものを否定しないでくれ。……恥ずかしいものだと、思わないでくれ」  丹生が今どんな表情をしているのか、長い前髪のせいで(うかが)えない。勝手な言い分に苛立っているのか、それとも気持ち悪がっているのか。たぶん後者が濃厚だろう。  言い切った後でまた我に返った私は、おもむろに立ち上がると彼に背を向け、壁際の棚の整理を始めた。もちろん顔を見られないようにする為だ。 「ま、まあ私は生徒達から嫌われているからな! 今更ああだこうだと言われたところで、痛くも痒くも――」 「小野井先生」  強めの呼び掛けに、思わず振り返る。  彼は前髪を指でそっと分けてから、小さく微笑んだ。 「また来ても、いいですか?」  その瞳は、笑顔がとても良く似合う色をしていた。  END.
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!