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堅物教師と前髪少年
「今日はここまで。次週テストだからな」
口にした途端、目の前からブーイングが巻き起こる。
三十年近く教師をしていればそんなもの慣れっこなので、適当にあしらいながら教室を出る。後ろから「鬼教師!」「ハゲ!」「白髪増えろ!」とか聞こえてくるが、それも振り返って睨んでやればこの通り、あっという間に黙り込む。
男子校に赴任してきてから、今日で約一か月。
今までは共学の高校ばかりだったので初めての経験に緊張していたが、そんなものはただの杞憂に過ぎなかった。同性同士で気兼ねする必要もないし、スカート丈を注意して変態呼ばわりされる事もない辺り、むしろ前回よりも気楽と言える。
「そこ、ズボン下ろすな! 恰好悪いぞ!」
廊下でたむろしていた集団の、ズボンを腰の位置にまでずらして穿いている男子に叱責を飛ばす。鋭い眼光と共にチッと舌打ちが返ってきた。先ほどのブーイングといい今といい、学生達からの評判は順調に下がってきていると言える。
そういえば同僚の教師からも、「お前は真面目すぎる」と言われた事があった。教師である以上、それはむしろ良い事なのだと思っていたが……良い言い方をしただけであって、違う言い方をすれば「融通が利かない」のだろう。
キツイ言い方になってしまうのは、堅物さからどうしようもないものだと思う。けどせめて、若い教師みたいに、学生の中に混じって和気あいあいとしてみたい。そう思うのは、先日見た教師もののドラマの影響だろうか。
背中越しに、さっきの男子達の大声が聞こえてくる。
「あーあ、かもちん先生戻ってきてくんねーかな! マジで小野井とチェンジしてーわ」
「聞こえるって、成績落とされるぞ」
忠告してくれるのは有り難いが、完全に駄々洩れだ。
小野井というのは私の苗字だ。私と代わりばんこに学校を去って行ったのは、鴨木という若い男性教師。生徒とは友達同士のような関係で、とても人気があったらしい。そりゃあ人気教師が去った代わりに私のような親しみもない堅物教師がやって来たら不満にも感じるだろう。タイミングのせいだけでは無いと、分かってはいるのだが。
「――小野井先生!」
溜息の直後に名を呼ばれ、驚いて振り返ると、そこに居たのはノートを手に此方を見ている生徒だった。さっき授業をしたクラスの一人で、確か丹生という名前だったか。目が隠れるほど前髪が長く、一見して男子と分からないほどに線が細い。
彼は私に向け、ノートを差し出してきた。
「呼び止めてしまってすみません。さっきの授業で分からない所があったので、ちょっと聞きたくて」
「あ、ああ」
受け取って目を通すと、それは私の担当教科である地理歴史科のノートだった。名前の欄には、『丹生 冬真』と書かれている。正直彼に関しては印象が薄いので、下の名前は初めて知った。
丹生はノートを開くと、私が授業中テストに出すと言った範囲を指で示した。
「ここなんですけど……」
屈んだ事で、髪が完全に目を覆う。見えてはいるようだが、此方からすれば「とっとと切れ!」と言いたくなってしまう長さだ。ウズウズしてきた私は、彼の前髪の束をさらりと持ち上げた。
前髪の奥に隠されていたのは、透き通ったヘーゼルの瞳。その瞳は、驚きと困惑に揺れていた。目を引く、薄茶と緑を混ぜた奥深い色合い。同性とは思えないほど整った顔立ち。きめ細やかな肌。控えめな唇――……。
「……あの、先生……?」
「あ、すまん!」
慌てて手を下ろすと、前髪はまた彼の目元を覆ってしまった。それに何故だか残念さを覚える。
「どうして前髪、切らないんだ?」
その思いからか、不躾な質問をしてしまった。丹生は少し言い辛そうに視線を下ろし、唇を噛む。
「……――って、言われたから……」
「え?」
「……何でもないです。それより、続き……」
「丹生! 次の授業、視聴覚室集合だぞ!」
背後から他の教師の呼びかけが聞こえてきた。彼はパッと顔を上げて、笑顔で応える。
「すぐ行きます! 先生、申し訳ないんですが、またお時間頂ける時に……」
「ああ、それなら今日の放課後が空いてるが」
「じゃあ帰りのホームルーム終わったら職員室に伺いますね。それじゃあ、失礼します」
軽く頭を下げて丹生は教師を追い掛けて行ってしまった。それを遠目で見送りながら、改めて彼の容姿と名前を頭に叩き込む。
成長を見越して用意したのであろうブレザーの袖は、手のひらが隠れそうなほど長く、肩幅も若干合っていない。教室からぞろぞろと出て行く集団の最後尾を、一人きりで歩いている彼。
先程ちらりと見えた顔が脳裏に浮かぶ。
〝……気持ち悪い色って、言われたから……〟
――そう、聞こえたと思う。
珍しい、渋い緑色の瞳。ブラウン系の瞳が多い日本人の中で、虹彩がはっきりと分かる色合いは確かに目を引くだろう。彼がそれを疎ましく思う気持ちも分かる。だが――……。
「……気持ち悪い……?」
無性に苛立ちを感じた。
意味が分からない。あの色を見て、どうしてそんな感想が出てくるんだろう。私には分からない。自分と違う色だからって、それでどうして、彼に心無い言葉を吐けるのか。
苛々しながら職員室に戻り、乱暴に椅子に座る。プリントを出そうと机の引き出しを開けると、仕舞っていたヘアピンがふと目に留まった。
いつだったか、廊下の隅に落ちていた物だった。拾って落とし物箱に入れておいたのだが、いつまで経っても持ち主が現れないので捨てるのも忍びなく、こうして引き出しに入れっぱなしにしていた。
小さな水瓶座のモチーフが付いた、シルバーのシンプルなヘアピン。男子校という場所に似つかわしくない品に思えるが、しかし彼なら似合いそうに思えた。それを手の中で弄びながら、プリントの採点を始める。
赤ペンで丸を描きながらも、前髪を持ち上げた瞬間のあの表情が、ずっと頭の中に焼き付いて離れなかった。
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