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生い立ち
「グレイ…悪いが左利きのお前に仕事は教えてやれん、職人道具は全部右利き用なんでな」
村の木工職人のダンガスは両眉を寄せてご自慢の長い髭を撫でながらそう言った。
「そうですか、わかりました」
俺は伏し目がちにそう返すとダンガスに背を向け彼の工房を後にした。
「悪く思うなよ~」
ダンガスは去りゆく俺の背中に向かってそう叫んだ。
生まれ故郷のリーネの村はひっそりとした山間部にあり、村人達は川や池で魚をとってのんびりと過ごしていた。
主要な産業は林業できこりが集めてきた木材をダンガスが加工して王都ディセスへ出荷していた。
俺は生まれた頃から父親がおらず、母に女手ひとつで育てられた。
家は赤貧で学校にも通えず幼い頃は毎日釣りばかりしていた。
そんなうちの家計を助けてくれたのがダンガスだった。
ダンガスは俺が幼い頃からずっと母に食料や衣類、日用品などを差し入れてくれて、俺も彼には助けられた。
俺が18歳になった年のある日、急に母が病床に伏し、数ヵ月して息をひきとった。
母はダンガスに多額の借金をしていた。
きこりになって返済しようと思ったが、学の無い俺は、基礎的な知識もろくに備わってなく、使い物にならないと頭領に弟子入りを断られた。
そして、今日ダンガスにも弟子入りを断られた。
自宅は木造の小さな借家だったが、無職では家賃も払えずここも引き払うことになるのだろう。
____母が借りたお金は、いつか必ずお返しします。 グレイ___
その日の夜半すぎ、俺は手紙に一筆そのような走り書きをして、ダンガスの家の郵便ポストへ投げ入れると、夜逃げ同然でリーネの村を後にした。
遥か彼方にある王都ディセスへ仕事を探すために旅立ったのだった。
真夜中の真っ暗な峠道を松明も持たずに月明かりだけを頼りに一人で歩いていた。
この峠道は狼や熊が出没し一人で歩くのは禁物。
更に近頃は得体の知れない魔物も出るとかで緊張感がより高まっていた。
(下手をするとここで、屍となるかもなぁ)
着の身着のままでリーネの村を飛び出した俺は護身用の武器や防具といったものを何一つ携帯していなかった。
ただ一つ、先程拾ったぶっとい木の枝を除いては…。
王都ディセスまでは馬に乗って行っても3日はかかるほど距離だと聞いていたので、徒歩となると辿り着くまでにどれ程の時間を要する事かは、はかり知れなかった。
そんな途方もない夜道をとぼとぼ歩きながら俺はガールフレンドのアニィの事を思い出していた。
きっと牧場を経営するエドガーの娘である彼女なら、俺が村を出ると言ったら馬を貸してくれたかも知れない。
いや、その前にエドガーに打診して俺に牧場の仕事を世話してくれたかも知れない。
ただ、俺は亡き母の遺した返しきれない程の多額の借金の事で頭がいっぱいで、これ以上は村の皆に迷惑をかけたくないという気持ちが大きかったから、アニィに関しては別れの挨拶もなしに村を出たのだ。
かくいう俺も母の借金の事を知ったのは彼女の死の直前だった。
事実を聞かされた時はただ呆然とするしかなかった。
ただでさえここ最近のリーネは王都ディセスまでの経路に魔物がたくさん出るようになって、木工品や木材を載せた荷馬車が襲われるという事件が多発していて、交易が途絶え不景気になっていたのだ。
なので、母の借金の事を知った時はこのリーネで生きていく道が全て否定されたかのような悲しい…いや寧ろ息苦しさに似た辛い感情に支配されたのだ。
ダンガスやきこりの頭領が言ってた左利きだからとか、学が無いからといったあれは俺の雇い入れを断る上辺の口上で実際にリーネには仕事が無いことも俺は知っていた。
だからこそアニィに相談するのも気が引けたのだ。
同い年のアニィは赤い髪で橙色の透き通った瞳を持ったおさげの可愛らしい女の子だった。
村の中央には小さな広場があって村を囲むの木々の葉もそこだけには覆うものがなく、正午になるとその場所だけが燦々と降り注ぐ日光に照らされて明るくなった。
アニィと知り合ったのは8歳のある日にその広場で逃げ出した彼女の飼い猫を捕まえたのが切っ掛けだった。
身軽さには自信があったので、木の枝に上がって降りてこなくなったその仔猫をそこまで登っていって優しく抱きかかえ彼女に返した事でえらく気に入られたのだ。
それからというもの、アニィは貧しくて学校へ行けなかった俺に読み書きを教えてくれたり、お菓子や弁当をこしらえて食べさせてくれたりと、親切をたくさんしてくれるようになった。
俺は友達にも恵まれなかったので、彼女がその役も買って出てくれた。
近所の川へ一緒に釣りにいったり、山奥の古びた遺跡へ探検に行ったり、幼い頃の記憶はほぼ、彼女と一緒に過ごした思い出しかない。
15歳の頃から俺とアニィは恋仲になっていた。
彼女の日常は学業と家業のお手伝い等で一層忙しくなっていったが、それでも休日になると村の中央広場で落ち合って二人で同じベンチに座り一緒に青い空を見上げながら夢を語り合ったりしていた。
そんな幸せな時間はずっとこれからも永遠に続くものだと思っていた。
しかし、今日になってそんな二人の幸せな恋にも俺がこういう形で一方的にピリオドを打ってしまった。
母の死を受け入れられずに塞ぎ込んでた俺を一番に心配し、励まし、支えてくれたのはアニィだったから、俺がいなくなった後はきっと悲しむに違いない。
それでも俺は生きていくために村を出るしか道がなかったんだ。
アニィを連れて村を出る…それも考えたけど、一人娘の彼女を愛し頼りにしていたエドガーおじさんの事を考えると、それも出来なかった。
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