春尽

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春尽

お集りの紳士淑女の皆様、“蝶の欠伸”へようこそ。こんなにも胡散臭い処にいらっしゃるなんて、よっぽどお暇なのか莫迦なのか。そのどちらともでしょうか?ーー勿論冗談ですよ。冗談が下手?ええ、よく云われます。この職に就く者らしからぬ、つまらない男ですから。そのせいで、今宵も閑古鳥が鳴いておりますね。 さて、これから私がお話するのはとある男女の物語。察しの良い方にはお判りでしょう? 男と女、とくれば。そう、恋の噺でございます。其れも大層、酷いものでね。帰るのならば今のうちですよ。嗚呼、お代はお返しできませんから。御覧の通り、我が愛しの“蝶の欠伸”は、万年火の車でしてね。 ……よろしいですか? 今宵、満ちた月の下で語るは恋の物語。美しき異形の愛、醜い人間の性。遠くて近きは男女の仲、はじまりはじまり。 むかし、一人の男が夜道を歩いておりました。人気もなく、静かな割には――嗚呼まるで今宵の如く、やけに明るい月の晩でした。それがなんとなく不気味で、男は早足で歩いていきます。 ようやく家に着き、さて眠ろうというときに戸を叩く音が聞こえました。とんとん、とんとん。控えめに、それでもたしかに音がしたのです。男はこんな夜遅くにどうしたのだろうと心配になり、戸を開きます。するとそこには、一人の年若い女が立っておりました。濡れたように艶のある髪が、やけに色っぽい女で御座いました。それはもう、この世のものとは思えぬほどの美貌だったそうですよ。女は、道に迷ってしまい宿もないのでどうか泊めて欲しいと言いました。男は少々不審に思いましたが、あまりに女が可哀そうで承諾してしまいました。 それから男は、なぜ娘一人で此処まで来たのかと女に尋ねました。女は深く事情は話せないが、恐ろしいものから逃げているのだと答えます。涙に揺れる瞳が、哀れで愛おしくて。男は女の華奢な手を取り、慰めの言葉をかけました。女はその言葉に励まされたのか、微笑みを返したのでした。ご期待に沿えず誠に申し訳ないのですが、その夜は何事もなく二人は床につきました。 さぁ、皆様。御察しの通りこの女は人間では御座いません。この類の物語に出てくる男は阿呆なので、微塵もそうは思っておりませんがね。ありがちな怪談噺だと笑ったそこの御方、席を立つのはまだ早い。これは、恋の物語なのです。他の誰のものでもない、異形の女だけの恋物語なのですよ。 朝日が夜闇を溶かし、二人は日の出を迎えます。男は女に朝餉を提供しました。 二人は会話を重ねて、仲を深めていきました。男は女の色香に釘付け。結局、美女の魅力には抗えないのです。男は女と離れがたくなりました。行くあてがないのならば此処にいるといいと男は申し出ます。迷惑をかけてしまうから、と女は断りました。しかし、男のつよい勧めにより女はついに受け入れるのでした。 恐怖に怯える、か弱い女を。自分に微笑みかけてくれる、美しい女を。男はこの手で抱き締めたいと思いました。君を必ず守る。その誓いに、女は嬉しそうに頷き返します。 それからの甘い日々は、言うまでもないでしょう。詳しくお話しするほうが野暮ってものです。肩を寄せ合い微笑みあう二人。素肌を合わせて囁き合う睦言。濃密なこの時が永遠に続くかと思われました。 さて皆様、この女は一体なにから逃げているのでしょう。恐ろしいもの、えぇそれは勿論ですとも。けれども、この女にとっての恐ろしいものとは一体なんだというのです?我々人間の云う恐ろしいものと、化け物の云う恐ろしいもの、果たして同じでしょうか? ――おや、焦らされるのはお嫌いですか?堪え性のない方々のために、そろそろ結末へと向かいましょうか。 醜い自分にも、夢くらいはある。憧れることくらい、あるのだ。蝶が舞う花畑で、彼と二人で散歩する。穏やかで甘い春。でも、春は永遠に続かない。いつかは冬がやってくるから。恋する気持ちを、手放す日がやってくる。ようやく手に入れた、あたたかな感情を。 そう、女は終焉を恐れていたのです。人間である男に振り向いてもらえず、悲しい恋の終わりを迎えることを。諦めるはずだった恋でした。自ら男のもとを去ろうとしていたのですから。堪え切れないほど燃え上がる恋とともに、命を絶つつもりでいたのです。報われない想いを抱えたまま、永い時を生きる。それは化け物にとって、地獄を彷徨い続けることと同じでした。 人間の女に化けるため、満月の晩を待ちました。恋の終わりから逃げるように、愛しい男のもとを訪れました。最期の思い出に、すこしでも話がしたかっただけなのです。共に一夜を過ごせなくとも、言葉を交わせただけで充分だったのです。 愚かな化け物は夢が叶ったと思った。私を"春の終わり"から守ってくれる、そう彼は誓ったのだ。この恋に、終わりなどは永遠に来ない。彼を信じている。狂おしいほど愛しているから。 女は本当の姿で一緒に過ごしたいと思うようになった。甘美な恋の味を一度知った化け物は、より濃い蜜を求めたのです。本当の姿で、交わりたい。愛を囁き合いたい。終わりなき恋、嗚呼なんと幸せなことか。繊細に紡がれた化け物の夢は、美しくもあり同時に儚くもありました。 ある春の日の穏やかな昼下がりのことでした。女は男に、大切な話があると云いだします。男は優しくそれを促しました。男の甘い声に、化け物は期待を寄せます。愛する男の瞳に映る、偽りの自分の姿は美しい。本当はこの姿に生まれたかった。それでも、彼が本当の自分を受け入れてくれるのならば!化け物は、己の真の姿すらも愛することができるのでしょう。女は深呼吸をして目を閉じました。心優しい彼ならばきっとこの姿も愛してくれる。女はそう信じたのです。 男は、突然裂けた女の身体に悲鳴を上げて、腰を抜かしました。ぱっくりと裂けた身体から現れる、化け物の姿。鈍色の巨大な肉塊にはめ込まれた、血走った三つの大きな眼球。不気味に蠢く触手。強烈な獣臭。化け物は男に落ち着くように声を掛けます。これが自分の本当の姿だと、これからはこの姿で一緒にいて欲しいと。化け物の言葉に、男は顔をさらに歪めます。それは化け物が、数え切れないほどに向けられたことのある表情でした。心の底からの嫌悪。それに気づいてしまった化け物は、大きな口を開けて―― 化け物は、男に愛されていないことを知ってしまった。それに絶望して、我を失ったのです。人間らしい感情に憧れ、翻弄された化け物の結末。哀れなことに、最後は化け物らしい行動を衝動的にとってしまったのでした。 見た目だけで勝手に美しい人間の女だと判断したくせに、そうではないと判ると拒絶するだなんて。なんとも酷い噺だと思いませんか? ……この化け物の生死? さぁ、私には判かりかねます。嗚呼、けれども。もしも生きているのだとしたら、恋に落ちた時のことを是非話して頂きたいものです。彼女がなぜ男をあれほどまで愛したのかは、この物語では語られていませんから。穏やかな春の日に彼女と語り合えたら、きっと楽しいでしょうね。 (終演)
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