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蜘蛛
お集りの紳士淑女の皆様、“蝶の欠伸”へようこそ。本日はお足元の悪いなか、よくいらっしゃいました。なにぶん襤褸屋なもので、雨漏りが酷いですがご容赦くださいませ。
同胞がね、最近此処でよく見ると云うのです。何をって?そりゃあ妖ですよ。こんな夜にはよく出そうじゃありませんか。ほぉら、云ったそばから貴方の背後に大蜘蛛が!
――嗚呼、勿論冗談ですよ。
……くだらない冗談はやめろ?これでも努力しているんです。つまらない男なりに、ね。
さて、これから私がお話するのは妖怪退治の噺。勇ましい主人公が活躍する愉快痛快な冒険譚で御座います。一風変わっておりますが。帰るのならば今のうちですよ。お代はお返しできませんけれど。御覧の通り、我が愛しの“蝶の欠伸”は万年資金不足ですので。
……よろしいですか?
今宵、雨に紛れて語るは禁忌の物語。
走り出した狂気、夢見た世界。清らかで醜い英雄譚、はじまりはじまり。
むかし、とある小さな村に勇敢な若者がおりました。真面目で優しい性格で誰からも好かれており、人望のあつい男で御座いました。
ある日のことです、村の近くにある山に大蜘蛛が住み着いたという報せが届きます。村全体を底知れぬ不安が包み込みました。
山には近寄れぬ
どうやって生活すれば
妖怪が山から下りてきたらどうするのだ
退治しよう
一体誰が
ここで名乗り出なければ、正義の主人公とは云えませんよね?そう、若者は立ち上がるのです。 村の人々を脅かす大蜘蛛を、自らの手で退治するために!
若者は人々の期待を、その逞しい肉体に浴びました。正義に憧れ、理想を追い求める彼は大蜘蛛退治の成功を確信しておりました。己の力と知性があれば、必ず退治できる。平和な村を取り戻す。
彼こそまさに主人公——それはもう奇妙なほどまでに。
ところで、皆様。大蜘蛛とはどのような妖かご存知でしょうか。土蜘蛛と呼ぶ場合もありますが。大蜘蛛、その名の通り巨大な蜘蛛で御座いますね。
歳をとった蜘蛛が怪しげな能力をもつ、という俗信もあります。蜘蛛というのは、なにかと不気味がられる存在ですものね。ふふ、私は存外嫌いではないのですが。平家物語では山蜘蛛と呼ばれており、かの有名な源頼光が討ったとされております。老婆に化けたり、人間の生き血を啜ったり、厄介な妖です。
また上古の日本において土蜘蛛は、朝廷や天皇に恭順しなかった土豪たちを指す名称となっております。
——そう。所謂、“悪”ですね。
若者は大蜘蛛退治の準備を始めました。自信はあれども、準備を怠るような性分ではないのです。
若者が新調した弓を隣村へ取りに行った帰り道のことです。今宵とは異なり、雲一つない晴天の日だったそうですよ。嗚呼そんな日だというのに、無情にもその事件は起きるのでした。
突然、大量の子蜘蛛が何処からともなく湧き出してきました。黒くて小さなそれらは、甲高い笑い声を不気味に響かせます。若者は立ち止まり、辺りを見渡しました。村人の姿はありません。嫌な予感がして、若者は弓を構えました。子蜘蛛達は群れとなり、まるで一つの生き物のように動き出します。
それは若者を導くかのように、或いは誘い込むかのように蠢いておりました。言わずもがな、若者は子蜘蛛の群れを追いかけます。
どれほど追い続けた頃でしょうか。村長の家に辿り着きました。若者が驚き戸惑っているうちに、子蜘蛛達は散り散りになっていきます。最後に残った一匹は、微かに開いた窓の隙間から長の家に入っていきました。その子蜘蛛の様子を不審に思い、若者は窓の隙間から家の中を覗き込みます。するとそこには見覚えのある面々が!
村長と、年老いた彼の仕事を補佐をする男達が皆集まっていたのです。なにやら怪しげな雰囲気に、若者は耳を澄ませます。
あの若造をどうする
これでは我々の計画が
山の宝を全て手に入れる前に、来られたら……
あの時止めておけば良かったものを!
そうしたら不自然でしょう。仕方のないことです。賄賂でも渡して黙らせては?
それでは緩い。殺してしまえ。村の奴等には妖にやられたとでも言えばいい。大蜘蛛への恐怖も増し、誰も山に来なくなる——
嗚呼、なんということでしょう。
山に妖がいる、だなんて。
最初っから嘘だったのです。
若者は怒りで震えました。
俺が救うべき民とはなんだったのか!
英雄は弓を握りしめ、悪党の巣に踏み込みます。
さぁて、大変なことになりました。
全て聞かれたことに動揺した悪党共は、醜くも懸命に言い訳を連ねます。
まぁ、彼の耳には一言も入りませんでしたがね?
宝はお前にいくらでも分けてやる!なんなら土地をやってもいい!悪い話じゃあないだろう!ほら、頼むから、その弓を
真っ直ぐに射られた矢は、寸分の狂いもなく長の心臓へ突き刺さります。
黒い血液が、英雄の着物を汚しました。逃げ惑う悪党を、若者は成敗していきます。淡々と、冷静に。音も立てず。全ての悪党を倒した頃には、英雄の身体は黒に染まりきっておりました。その姿はまるで、あの蜘蛛のよう。
村長は枯れ枝のような手を、こちらへ伸ばしました。ひび割れた唇を懸命に動かしこう云います。
人殺しめ、呪ってやる。
英雄は他の村人に真実を話そうと思いました。もうこの村を利用する者などいない。みんなに安心してもらいたかったのです。村の中心へと若者はおりていきました。しかし。
なぜか村人は英雄の姿を見て逃げて行くのです。
喚いて、泣いて、救いを願って。
英雄は奇妙に思いました。あれほど慕ってくれていた人々が、あんな顔をして逃げる出すだなんて。なぜ逃げるんだと尋ねながら、英雄は村人を追いかけます。けれども、彼はすぐにその訳を知ることになります。
村人を追いかける途中、大きな池の前を通りかかりました。
——そこにいたのは、存在しなかったはずの妖でした。
人間より何倍も巨大な黒い体躯、八つの赤い目玉、八本の長い脚と鋭い爪。
大蜘蛛だ、大蜘蛛がいた。嗚呼この妖が民を苦しめるのだ。殺さなければ殺さなければ殺さなければ!!
勇敢な英雄は大蜘蛛を倒すべく、何のためらいもなく池に飛び込みます。しかし、池の中にはあの大蜘蛛がいません。英雄は懸命に探しました。その黒い身体が沈むまで。
こうして大蜘蛛は正義の英雄に倒され、村人は平穏な生活を取り戻すことができたのでした。めでたし、めでたし。
若者は妖を倒すことができ、夢見た正義の男になれて本当に良かったですねぇ。
皮肉な結末?ふふ、そうですね。妖を倒そうとして、しかしそれは嘘で。自分が妖に成り果てて、哀れな魂をなくして。
はて、結局のところ誰が悪だったのでしたっけ?
(終演)
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