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狐薊
お集まりの紳士淑女の皆様、”蝶の欠伸”へようこそ。今宵は月が明かるう御座いますね。
ちょうど私の背後に月が上っておりますでしょう?其方からは逆光で御座いますね。ここまで明るいと、皆様のお顔がよく見えますよ。我が”蝶の欠伸”がどれだけ襤褸屋かも、丸見えです。お恥ずかしい。
おや、なぜいつも灯りを点けないのか、ですか。私の顔を隠すためですよ。・・・・・・美しすぎて、皆様の心を狂わせてしまいますので。
――嗚呼、勿論冗談ですよ。
分かりにくい?そのうえ反応もしにくいですか・・・・・・。難しいですね、冗談は。もっと精進しなくては。
さて、これから私がお話するのは狐憑きの噺。女の思惑が交錯する、罪の物語で御座います。引き返すならば今のうちですよ。お代はお返しできませんが。
よろしいですね?
今宵、闇に隠れて語るは妬みの物語。
狂った女、狐の微笑み。人を呪わば穴二つ、はじまりはじまり。
あるところに二人の若い娘がおりました。
一人はフミという美しい娘です。明るい性格で、誰にでも愛されておりました。もう一人はアヤという醜い娘です。気が弱かったようですが、心優しい娘です。二人は昔から仲良しでした。フミはいつもアヤを引っ張って遊びに出かけて行きました。楽しそうなフミと、すこし困ったように笑うアヤ。正に美しい友情で御座います。
ある日のことです。フミが買い物から帰る途中、倒れている男を見つけました。驚いたフミは人を呼び、自分の家へ運んでもらいました。懸命な看病のお陰か、男は目を覚ましました。青白い頬の、伏し目が美しい男です。男は礼を言い、すぐに立ち去ろうとします。必ず恩返しにくると約束して。けれども、フミは男を心配しておりました。まだ顔色が悪い。事情は聞かないから、ここにいて欲しい、と。心に灯った恋の炎を隠しながら、フミは言いました。男はフミの言葉に深い感謝を表し、しばらく滞在することを決めました。
フミはアヤに男を紹介しました。アヤと男は意気投合し、三人で仲良く過ごしました。男は教養があり、二人に色々なことを教えてくれました。フミの家にはたくさんの本があったので、男は喜びました。フミもアヤも本を読むようになりました。とても幸福な時間でした。日々を重ねていくうちに、フミの恋心は大きくなっていきました。男から漂う柏の香りも、涼しげに釣りあがった目尻も、フミの心を甘くかき乱します。熱い恋心を一人で抱えきれなくなったフミは、アヤに胸の内を打ち明けました。
フミちゃん、私も協力するわ。いつでも相談してね。
信頼している親友に協力してもらえる。アヤの優しい言葉に、フミは嬉しくなりました。
ある晩のことです。フミはなんとなく眠れなかったので、散歩をしておりました。黒々とした雲が月を覆い隠す、不気味な夜でした。アヤの家の近くを通りかかったとき、見覚えのある人影が現れました。 よく見ると、愛しい愛しいあの男でした。幽かな星明りを集めた漆黒の髪が、艶めいております。フミは驚いて、男の元に駆け寄ろうとしました。しかし男はアヤの家へ歩いていくのです。フミの背中に冷たいものが走ります。アヤの家の前に行くと、男は戸を叩きます。静寂に包まれた夜。とんとん、とんとん。やけに大きく音が響きます。その不愉快な音に、フミは苦しくなって胸を押さえました。戸はすぐに開かれ、アヤが現れました。目元を潤ませ、頬を赤く染めたアヤ。”女”の華奢な肩を、”男”はしっかりと抱き寄せておりました。
二人が家に入った瞬間、フミはがくりと崩れ落ちます。淡い色の浴衣を土が汚しました。乾いた唇は言葉を紡がず、ただ虚しく荒い息を吐きだすだけ。生暖かい初夏の風が、フミの髪を乱します。顔に張り付いた髪を整えることもせず、フミはただ二人を吸い込んでいった戸を見つめておりました。
不意に狐の鳴き声がして、フミはゆらりと立ち上がりました。操り人形のように、不自然な動作で帰って行きます。誰もいない夜に、狐の鳴き声が響き渡るのでした。
数えきれないくらい言われてきた言葉を思い出す。震える自分の身体を抱いて、フミは心を慰めようとします。
フミは美しいね。本当、いつも元気で。見ているだけで気分が明るくなる。
――アヤと違って。
そう、彼女はアヤと違って美しい。性格だって明るい。私の方が優れている、そういうことでしょう? でも彼は、アヤを選んだ。私はアヤじゃない。私はアヤと違って、いや。
――アヤは私と違って。
フミはぼんやりとした意識の中で、家にある本を漁り始めます。どうにかしないと、どうにかしないと。嘘なんて大嫌いだ。嘘つきの女から彼を取り返さないと。赤い表紙の本が、押し入れの奥から出てきました。狐の絵が描かれたそれに、フミは震えた手を伸ばします。その姿はまるで、蜘蛛の糸に縋る罪人のよう。暗闇の中、一人きりでフミは貪り読んでいきました。
それからフミは鶏を百匹殺し、その血を飲み干します。踏みにじられた心を潤すように。本に書かれている通り、形の整った紅い唇で呪文を連ねます。身体の芯が熱くなって、目の前が暗くなりました。朧気な意識の片隅で、狐が鳴きました。
さて、皆様。狐に憑かれた人間はどうなるか、ご存じでしょうか。民間信仰において、狐憑きの噺は全国各地に存在しますよね。狐に憑かれた人間は精神病患者ように異常な状態になると言われております。座敷牢に入れられてしまう方もいらっしゃるようですよ。目も釣りあがって、鶏肉を好むようになるとか、ならないとか。その代わり、人を呪い殺すことができるのです。お好みの方法で、ね。
フミの筋書き通り、アヤは死んでしまいました。あの夜男に抱かれていた女と同一人物とは思えないほど、変わり果てた姿だったそうです。人々が嘆き悲しむ陰で、フミはほくそ笑みます。私と彼を阻むものはなくなった! フミは男の着物の袖に手を伸ばしました。
・・・・・・けれども、男はフミの元を去ってしまったのです。女の髑髏を抱いて、何も言わずに。
アヤがしんだ。彼は去ってしまった。わたしのことを見てくれなかった。あんなに傍にいたのに。アヤはもういなくなったのに。アヤ。アヤがわたしを見ている。へやのすみからわたしを見ている。じっと見ている。なにもいわずにわたしを見ている。あなたをころした、わたしのことを見ている。きつねのなきごえがする。ああ、うるさい。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。さむい。ひどくさむい。ふるえがとまらない。しんぞうが痛い。とりだしたい。たえられないくらい痛いからもういらない。しんぞうをとりださなきゃ。アヤがわたしを見ている。
友を妬み、呪った女。自業自得、とでも言うのでしょうか。
でもね、考えてもみてください。
人間は比較する生き物です。より良いものを選ぶ、当たり前のことでしょう。選ばれなかったものは捨てられる。服も、食べ物もそうでしょう。男も、女もそうでしょう。
妬みは人の本能です。心の弱い人間が持てる、唯一の怒り。
誰を恨んだって、呪ったって、仕方のないことでしょう。
だってそれが人間ですから。
(終演)
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