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人魚の歌
お集まりの紳士淑女の皆様、”蝶の欠伸”へようこそ。見覚えのあるお客様もいらっしゃいますね、有難う御座います。昨晩は二つ頭の童が芸を披露しておりましたが、皆様ご覧になられましたか? 上手に出来たと嬉しそうに話しておりましたよ。私も見習わなくてはなりませんね。新たな芸でも練習してみましょうか。ここで少し脱いでみる、とか?
――嗚呼、勿論冗談ですよ。
・・・・・・何かが違う? まだ冗談を掴みきれてないようです。精進します。残念そうな顔をしていらっしゃるそこのお客様には申し訳ないですが、私は脱ぎませんよ。男の肌も、意外と需要があるのですね。
さて、これから私がお話するのは人魚の噺。人間と人魚が織りなす、恋の物語で御座います。ほつれた波の綾を、どうぞお楽しみください。引き返すならば今のうちですよ。お代はお返ししかねますが。
よろしいですね?
今宵、波間で語るは愛の物語。
燃え上がる心、二人の願い。恋ぞつもりて淵となりぬる、はじまりはじまり。
最初に人魚についてお話しておきましょうか。人魚とは上半身が人で下半身が魚の、水中で生活している生き物のことです。伝承されてきた土地によっては、異なる特徴を持ちます。伝説や物語に登場する人魚の多くは、若い女性の人魚、つまりマーメイドで御座います。今宵のお話に登場する人魚も、マーメイドに分類されます。今日よく知られている人魚のイメージは、十六から十七世紀のイングランド民話を起源とするものです。それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な違いはなかったとされています。面白いでしょう? 人魚にもいろいろあり、尾ひれが二股に分かれている方もいらっしゃるのです。それでは、本題に入りましょう。
むかし、ちいさな漁村に一人の青年がおりました。誠実で、明るい性格の男です。真面目に働き、平凡な毎日を過ごしておりました。
ある夜のことです。青年は一人、海岸を歩いておりました。星が美しい夜です。柔らかな海風が青年の髪を撫でつけます。今夜の海は穏やかだな、青年は磨かれた青銅の鏡のような海を眺めておりました。不意に誰かの歌声がどこからともなく聞こえてきます。風に乗って届く幽かな声に、青年は耳を澄ませました。銀の鈴をころがしたような可憐な歌声です。寂しげなその声がどうしても気になって、青年は声がする方へ走っていきます。
歌声は、村はずれにある岩場から響いておりました。青年は岩に隠れ、歌声の正体を覗きます。大きな岩の上で、満月を背に歌う影が見えました。月明かりに照らされ、艶めく鱗が目に入ります。――正真正銘、人魚でした。
青年はその美しい姿に心を奪われました。しかしそのせいで、湿った岩に足を滑らせてしまったのです。突然の物音に、人魚はこちらを振り返ります。青年は慌てて立ち上がりました。
驚かせるつもりはなかったんだ、……素敵な歌声だからできれば聞いていたい
そう話した青年に、人魚は微笑みます。お礼を云った人魚が、再び歌いだしました。先ほどより楽しそうなその声は、あたたかさを孕んで夜空に響き渡ります。
それから、二人は毎晩この岩場で逢瀬を重ねました。青年の純朴さに、人魚は心を許したのです。人魚は陸の話に興味津々でした。海の世界とは全く異なる陸は、人魚にとって新鮮だったのです。
御伽噺のような運命的な出会い。二人は自然と惹かれ合います。けれども、二人は住んでいる世界が違う。種族が異なるせいで、寿命に差がありました。恋人を一人にすることを恐れた二人は、同じ世界に行くことを決意しました。
人魚は海の魔女にお願いして、毒薬を作ってもらいに行きました。眠るように死ぬことが出来る毒薬です。願いには、それに釣り合う対価が必要。それが海の魔女の口癖でした。人魚が毒薬の対価を尋ねると、魔女は首を横に振ります。
そんなものは要らない、二人が幸せになればそれで良い
慈悲深い魔女の言葉に、人魚は感動しました。桃色の瓶を握りしめ、急いで岩場に向かいます。背後で魔女がにやりと笑ったことにも気がつかずに。
岩場にやってきた人魚を見て、青年も海に入ります。人魚を抱き寄せて、桃色の髪に顔を埋めました。二人はしばらくの間、お互いの存在を確かめ合っておりました。体温を分け合い、皮膚の下に走る血潮に耳を澄ませながら。
人魚は顔を上げ、瓶を見せました。
これが海の魔女に作ってもらった毒薬。眠るように死ねるの。
眉を下げつつも、青年は笑います。
苦しまなくて良いのか、海の魔女ってすごいな。
人魚は青年に、本当に飲むのかと問いかけます。人魚は長い時を生きてきましたが、青年はまだ若いのです。
飲むよ、一人にしないって言ったじゃないか。
不安げな人魚を励ますように、青年は答えます。
人魚から瓶を受けとり、迷いなく青年は毒薬を口に含んでしましました。覚悟を決め、人魚は目を閉じます。そして青年は恋人の頬に手を添え、顔を寄せました。
毒薬の甘い味が、二人の口内に染み渡ります。二人の意識がゆっくりと溶けていきました。一つの生き物のように絡み合い、二人は海に沈んでいきます。来世こそは、同じ世界に生まれることを祈りながら。
どれほどの時が流れた頃でしょうか。人魚は目を覚まします。ぼんやりとした視界のなかで、目の前の青年を捉えました。人魚の背にまわる、硬直した腕と血色のない薄い唇。現実を知覚すると同時に、人魚は目を見開きました。身体中の血が凍るような悪寒が、人魚を襲います。――そう、魔女が作った毒薬は、人魚には効果がないものだったのです。
人魚は絶望に打ちひしがれ、呼吸が乱れていきます。もう永遠に、微笑みかけてくれない青年を抱きしめます。
もしもあの夜、私が歌わなければ出会うことはなかった。彼が死ぬこともなかった。彼ならば、これから素敵な人生を歩んでいけていただろう。
そう気づいた人魚は、後を追って命を絶つことをやめました。愛する青年が生まれ変わって、素敵な人生を送れるように。青年の魂のために歌うことにしたのです。涙をこらえて、人魚は微笑みます。そう、あの夜と同じように。ばしゃりと音をたて、人魚は暗い海から出ていきました。澄んだ歌声が、空に響き渡ります。その可憐な声に応えるように柔らかな風が吹き、人魚の髪を撫でていったのでした。
その漁村には、未だに夜になると人魚の歌声が聞こえてくるそうです。いつか聞いてみたいものですね。・・・・・・いつもの噺と違う? ふふ、たまにはいいじゃありませんか。私も醜い噺しか知らない訳じゃないのですよ。ただ異形と人間が共存しにくいだけです。人間同士ですら難しいのに、別の生き物同士であれば尚更困難極まりない。けれども皆様にとっては、そこが面白いんでしょう?
(終演)
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