嫌い、好き、雫

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嫌い、好き、雫

「ここがアンタの家か。えらく立派だこと」 もしかすると、ここに来る誰もが、オレと同じように一軒一軒誰がいるのか見て回ったのかもしれない。まぁ、確かにみんな同じ坂口香乃なのだから、それもうなずける。 「でもアンタだってあのアパート嫌いじゃないでしょ」 「まあね」 素直じゃないのは、三年経っても相変わらずのようだ。 「昨日聞き損ねたけど、アンタ誰よ」 尋ねると、彼女は遠くを見つめるような瞳をした。ふ、と陰ったような。遠くの空、地面、相手。何かを打ち明ける時にする視線のやり場も、特に変わっていない。オレはあの日、卒業式の日、何度遠くの空を見、地面を見、彼の足先を眺めただろう。 「……多分だけど」 自分が何か。それはここへ来た時から、薄々、なんとなく、わかっているものだ。だから、『多分』、ということはない。そこまで言葉にするのをためらうのか。 「姉を嫌う自分、かな」 やっぱりか。そんな意味を込めて、少し強く息を吐いた。オレの顔は今、酷く歪んでいるのだろう。 坂口莉乃(りの)。坂口香乃。俺は二人姉妹だ。お姉ちゃん。姉ちゃん。莉乃。莉乃さん。そして、三年経つと、姉、としか呼べなくなったのか。 「オレは黒川昂希が好きな坂口香乃。よろしく」 それ以上彼女の話を聞きたくなくて、遮るように言った。 「やっぱりか。自分が最近でもないけど、最近捨てたものって言えば、それぐらいしか浮かばなかったから」 彼女をなんと呼べばいいだろうか。莉乃さん、いや、それは違う。何がいいだろう。 「ねーちゃん、でいいか」 「え?」 「みんな同じ坂口香乃だから、あだ名がいるでしょ。ちなみにオレはピストルスター」 「あぁ、なんとなくわかった」 また少し沈黙があった。ねーちゃんが何か言おうとしている。何か。その何か、の正体は何となくわかった。だから。 「どうせ他の家も見て回るんだろ。早く行けよ、日暮れるから。一日なんて短けえの」 追い出さないといけない気がした。自分が傷つかないように。自分が苦々しい思いをしないために。彼女も、オレの気持ちはわかったようだ。出て行く時、彼女がぽつ、と言った言葉は、聞こえないふりをした。 「……私、その時、ちゃんと笑ってあげられるかね」 何か、イライラした。『私』にも、『その時』、にも、言う必要がないことをオレに言ったことも。 わかっている。本当は、姉のことは、嫌いではない。むしろ好きなのだ。だから、こそ。本当に嫌いなのは、姉ではなくて。本当に嫌いなのは誰かわかっているのに、『姉が嫌いだ』、としか言えない自分は、彼だけでなく、自分のことも嫌いなのだろう。 「おい、聞いたか」 「何を」 ほぼ毎日カラオケで会うようになったアムカが話しかけてきた。人が一人気持ちよく歌っているところにズケズケと。でも、歌っていた曲に歌詞など感じられなかった。何を、なんて言わなければよかった、と思ったが、いくら手を伸ばしても出ていった言葉を捕まえることはできない。 「莉乃結婚だってよ」 ギュ、と眉間に皺が寄った。莉乃さんとは六歳違いだから、二十四か、二十五か。もう二十五になっているかもしれない。 「へえ」 精一杯の不機嫌な声を出した。 「しかもこれはねーちゃん? にしか教えてないらしいけど、ご懐妊だと」 「はあ?」 デキ婚かよ。そう言い捨てても、脳内にいる莉乃さんは、 『元から結婚考えてたんだよ? まさか、ねえ。お願い! お母さんには絶対言わないで!』 としか言わない。でもきっと言わなくてもすぐバレるに決まっている。母さんは口には出さないだろうけど。元からこっちはあんな男大嫌いだ。どうしてか、と言われれば。莉乃さんとお揃いのネックレスをいつもつけているから。会えばしっかり挨拶してくるから。莉乃さんが、我が家にいる時よりずっと、幸せそうだから。 「やべえよな……」 「……だから何」 「え?」 「だからなんなの⁉︎ オレに関係ある⁉︎ アイツの人生じゃん、適当に歩かせれば? っ、」 そんで失敗しろよ。 言えなかった。どうせ同じ自分なのだから、別に言っても良かっただろうに。それにこの世界は、坂口香乃のなかにしかない世界なのに。どうしても、言えなかった。手にしていたカラオケマイクを壁に投げつけてやりたかったのに、そうできず。机の上にコト、と置く。もう飲み物なんていらなかったし、そのまま出て行きたかったのに、それもできず。残りを一気に飲み干し、部屋の入り口に立っていたアムカに軽く肩をぶつけてそこから出た。刀を出せなかったのも、マイクを投げられなかったのも、もういらない飲み物を放り出せなかったのも、アムカを突きとばせなかったのも、全てはオレの弱さ故だ。でも、きっとそれは弱さではないのだろう。かと言って強さとも程遠い。中途半端で、『優しさ』ということも烏滸がましい優しさだ。やはりオレが嫌っているのは、莉乃さんでも、その結婚相手でもなく、自分自身のようだ。 姉とは六歳差だ。でも、幼い頃のビデオを見ると、『姉に付き合う妹』の図が、かなり小さい頃から見られる。確かに、遊びに行った場所で、同伴者であるはずの莉乃さんが一番はしゃいでオレを連れ回し、オレはちっとも楽しめなかった、という記憶がある。 莉乃さんには人を惹きつける力や、絶対音感その他の才能を持っていた。莉乃さんといると、オレは全くの器用貧乏。楽譜が読めてその通りにしか弾けないのと、楽譜は読めなくてもどんどんアレンジできるのとでは、後者の方がよほど人を惹きつける。 料理、絵、歌、楽器、オレが得意と言えることどれを取っても、莉乃さんはいつもオレの遥か上を行く。中学では、莉乃さんがいた美術部には入らずに、ほぼ帰宅部と化していた科学部へ入部した。廊下に貼られた作品は莉乃さんの物。職員室に張り出されている宣伝ポスターの隅には、小さく『坂口莉乃』の字。短大でデザインを学んでいた莉乃さんのものが採用されたようだった。 そういう意図がなくとも、莉乃さんを知る人はどうしても、莉乃さんとオレを比べてしまうだろう。莉乃さんとオレは、性格も見た目も全く異なっていた。でも、同じところが一つ。声だ。オレがスマホに話しかければ、莉乃さんのスマホでも反応する。スマホを騙せるほど、声だけは瓜二つだった。それが嬉しいようで、嫌なようで。嬉しく、誇らしかった。 姉を後ろからじっと見つめ、いいところは拾い、悪いところは避けた。姉と比べられたくなかった、でもその陰で隠れることで、どこか安心できた。長男長女だらけで、次女はオレしかいない家族で、オレは何度『下はズルい』と言われただろう。それにそっと微笑むだけで流すのが、下の試練なのだと、彼らは知っているのだろうか。 その点でも、小方や昂希とは話が合った。次女と次男だ。彼らとぐでぐで『下』の苦労を語るのはいいストレス発散になったように思う。勿論、みんな『上』の苦労というものも頭ではなんとなく、わかっているのだけれど。 莉乃さんは高校に入ると、夜の九時まで帰らないことが増えた。それで、母さんと喧嘩することも増えた。勝手にスマホをもう一台買って夜中まで使ったり。夕飯いらない、と突然言ったり。彼氏の家に泊まったり。莉乃さんは高校を卒業すると、高校で取った調理師免許を置いておき、デザイン系の短大へ彼氏とともに進み、寮に入った。散々遊び歩いて、そのくせ金がなくなると家に帰って来て金をせびった。そして短大を出るとすぐ上京。それから一年、莉乃さんは同棲を始めたようだ。 母さんがポツリ、と言った言葉を覚えている。 『莉乃がいなくなって、楽になったのが、悲しい』 そうだ。莉乃さんがいなくなって、楽になった。帰らない莉乃さんにイラつく母さんのとばっちりを受けることも、夕食の最中に始まった親子喧嘩から逃げるように早く食事を済ませることもない。莉乃さんを東京へ送り出した時、寂しさより開放感の方が大きかった。年末に帰って来ても、家には殆どいない。中高短大の友達、彼氏と遊び歩いていたから。それでも、莉乃さんが東京に戻ってしまう時は、寂しかったのだ。ずっとこっちにいて欲しいと思った。だから、無理に口の端を引っ張って、『行ってらっしゃい』と言った。それに対して莉乃さんは『じゃあね』としか言わなかったけど。 オレは今も、莉乃さんが好きで、誇らしくて、そして大嫌いなのだ。 一人窓辺でビター・オレンジを飲んでいると、不意にベルの音がした。オレンジの爽やかさとビールの苦みのちょうどいいハーモニーを邪魔されたので、眉間に皺を寄せながらドアを開けた。 「あんだよ」 「ごめん。聞きたくないのはわかる。でも、言わなきゃない気がして」 済まん、じゃなく御免、をチョイスするあたり。これは話をとっとと聞いた方が楽だと判断し、黙ってリビングを顎でしゃくった。テーブルに着いた彼女に日本酒をデン、と差し出す。 「十八は成人なんでしょ。飲めば」 ねーちゃんは特に何も言わず、おちょこに酒を注いでくい、と飲んだ。 「姉が結婚する。俗に言うデキ婚。本人は元から結婚する予定だったって言うけど」 何かを言うのも面倒臭いので黙っていた。 「父さんも母さんも、莉乃の結婚式ではちゃんと祝ってやりなさいって言うし。だから、今のままじゃ祝えない。誰かを恨んで、嫌ってる人間が、平和な、明るいところに行ったら不釣り合いだし、自分も周りも『主役』も、誰も幸せになれやしない」 彼女のマスカラで縁取られた瞳は、どこか憂いでいて。しっとりと潤っている。 「それにこのままじゃ姉の子供とか大切にしてやることも面倒見てやることもできないと思うし。下手したら、殺しそう」 わかる。姉と何処の馬の骨かもわからない男によってできた子供など。気持ち悪くて仕方がない。その子供がいくら可愛くても、『お姉ちゃん』と呼ばれることも、『香乃ちゃん』と呼ばれることも、勿論だが『叔母さん』と呼ばれることも、生理的に受け付けることができない。 「だから、私は捨てられて良かったんだ。姉の『幸せ』を願うなら、私は捨てられるべきだった。捨てられて良かった」 明るい声とは裏腹に。彼女が笑って目を細めた瞬間、ぽろり、と雫が落ちた。それは透明なのに。いくつもの色が溢れていて。それでも彼女は笑顔で話し続ける。 「 きっと姉は、そいつといて幸せなんだと思う。でもさ、最初はなんとなくで付き合い始めたんでしょ? 二回告られて、それで、でしょ。姉は、所謂『フツー』のアオハルに憧れてただけじゃん。そんな『フツー』ってリアルにはないのに。本とかの中にしかないのに。そいつって言ってみれば姉に利用されただけじゃん? そっから本気で本当の大切な人になっちゃったんならなんも言えないけどさ。きっと、姉は今幸せなんだよ。だって、うん、幸せそうだもん。私たちといる時なんかよりずっと、さ」 彼女はずっと笑っていた。ずっと泣いていた。それは相反する感情なのに。怒り、憎しみ、嫌悪、そんな酷く醜い感情なのに。その漆黒のような涙と、痛々しく、少し触れば壊れてしまいそうな脆い笑顔は、とても良くマッチしていた。ビールとオレンジジュースなんかより、ずっと。彼女はまたヘラリと笑うと、日本酒を飲んだ。彼女の頬にはうっすらと黒い筋がついている。涙でアイメイクが取れてしまったのだろう。洗われた後の瞳は少しだが明るくなった気がした。それは不要なメイクが取れたからかもしれないが。 「……思ったんだけどさ、いつから『私』に戻ったわけ? 似合わなくない?」 話を変えたかった、ただ純粋に。聞きたくない、とかじゃなく。きっとこれ以上、彼女が言おうとしていることはない、と直感で感じたから。 「え、周りに言われて、かね。女なんだから『俺』は変でしょ、って」 「あー、そういう。女だから、とかそういうのマジ嫌い。女だから男だからなんだよ、同じ人間じゃねえか、ってな」 「うん、なんかもう、十八にもなると諦めてきちゃったけどね、そういうの」 「まあ、そっちの方が楽だわな」 ははは、と二人で意味もなく笑い、手元のグラスに目をやってそこにある液体をゆらゆら揺らした。 夜が、ゆっくりと更けていく。
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