救い、ネイル、肯定

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救い、ネイル、肯定

ブラックコーヒーを飲みながら、爪の先を眺めた。暇だったのでネイルをしてみたが、失敗した気がする。気泡が大量に入って気持ち悪い。カフェから帰ったらすぐ落とそう、と心に決めた。 ふと、外から声がしたので耳をそばだてた。 「えっと、ねーちゃんだっけ?」 「あ、うん、そ」 「私、オトモダチ。よろしく」 「え、うん。この前も会ったじゃん」 オトモダチがねーちゃんに何の用だろう。店頭のカウンターでコーヒーを飲んでいるだけのふりをしつつ、外からする二人の声に耳を傾けた。 「お姉ちゃんの結婚式いつ?」 「……来週だけど」 明らかに機嫌が悪くなった。何聞いてんだよ、若干地雷じゃねーか、と心の中でオトモダチを小馬鹿にして、今度は本当にコーヒーを飲む。 莉乃さんも結婚か。相変わらず胸がムカムカしたが、少しの間昔に思いを馳せることにした。 広のことが好きだった頃。広は五つ上。オレはもとより年上趣味だから。広と莉乃さんはとても仲が良く。きっと広は莉乃さんが好きなのだろう、そう思っていた。歳だって一つ差だし。まあ、美男美女だし。楽しそうだし。だけど、広はレンアイするほど『大人』ではなく。莉乃さんもまた、別な人がいた。 「私ね、実は彼氏いるんだ」 こっちが風呂に入っていたら突然ズケズケと入ってきたと思ったら、そんなことを言い出して。エンダアアアアアアアアイヤアアアアアアアアだった。アホーンと体を洗う莉乃さんを眺めていると、 「胸でっかくなったからってそんな見るなよ」 と笑った。 「……いややっと並になったくらいだろ」 「壁に言われたくないっすねー」 「自分もちょっと前まで壁だったくせに」 「え?」 「どうやってでっかくしたんですかー?」 「簡単に教えてたまるか」 「ちぇ」 不毛な会話は長く続かずに。すっかりのぼせてふやけたのも構わず、一人唇を噛んで何かを考えていた。 恋愛は大人になってから。 それが我が家のルール。大人、というのは、身体的、精神的に安定し、相手を支えられる準備ができてから、ということ。付き合うのも結婚前提で。それは自分達を守るためのものだろうし、確かに正しいことだ、と頭ではわかっている。でも、わかっていても。傷つくだろうと知っていても。自分がいかに未熟か、夢なんて所詮ただの形のない夢なのだと、理解していても。それでも誰かに恋し、将来を夢見てしまうのは。間違ったことなんかじゃなく、ある意味当然のことなのだろうな、と思うようになった。小さい頃は、人に恋をすること自体が間違っていることだと思っていた。でも、きっとそういうことではない。人はほぼ意図せず、本能に近い形で恋をするものだから。早まって過ちを犯すな、ということなのだろう。それと、なるべく傷を増やさないため。にもかかわらず、今昂希への想いに苦しんでいるオレ。笑うしかない。 あの時オレは、風呂の中で、何を考えていたのだろう。姉と顔も知らないその彼氏との交際によって家族が徐々に引き裂かれていく未来でも映していたのだろうか。いや、その時瞳に映っていたのは髪を洗う莉乃さんだけだ。 莉乃さんは自分の家族よりも彼氏やその家族と過ごす時間の方が増えていって。それと比例するように、莉乃さんのことが嫌いになっていった。でも、莉乃さんがその初めての彼氏と結婚した、ということだけが、皮肉にも救いだ。 「ごちそうさまでした」 誰もいない店内に向かってそう言い、外へ出る。開け放たれたドアをくぐってもう一度店を振り返ると。当然のように、さっきまで使っていたコーヒーカップが消えていた。 リムーバーの匂いがツンと鼻をつく。もうちょい匂いどうにかできないのかよ、と思いながら爪にこびりつくネイルをこそげとった。ネイルと同じように、人の想いもこそげ取れる何かがあればいいのに、と思ってから、ここが現実にしてみればその何かなのだと気付いた。じゃあオレは一生このままだな、とわかっていたのに再認識してしまい、苦々しくなった。 夕方。外から鈴虫の音がする。ふと窓の外を見た時、誰かが家のある丘の下の道を通ったように見えた。 「オトモダチか?」 オトモダチらしい人は、海の方へ向かって行った。夕方の海か、それもいいな、ここならリア充とかいなさそうだし。つかいるわけないか。そう思い、適当にネイルを剥がして外に出た。 この島は、大きな道が四本あって中央で交わり、あとは東西南北に伸びている。いや、正しくは東北西南南東北西か。途中いい感じの小道はちょこちょこあるけど。でもオレの家から海へは一本道だったはずだ。秋風が頬を掠める。吹き始めた涼しい風は、肌あたりがちょうどいい。茜色の空を、美しく色づいて光る飛行機雲が区切っていく。誰も乗ってないし着陸点もないのにご親切に、と思った。 海に人はいなかった。海の家にもいない。 「アイツどこ行きやがった」 別に用などないからいいのだが。でも解せない。砂浜を伝ってぐるっと他へ行ったのだろうか。何か引っかかるが、とりあえず放っておいた。 海は空と同じ茜に染まって、水平線まで伸びている。ああ綺麗だなあ、とそれだけで、胸を温かくする記憶も、締め付ける記憶もない。 そもそもあれはオトモダチじゃなかったかもしれない。ここにいるのはみんな同じ坂口香乃。見間違いなんて普通。近所に住むアムカだったかもしれないじゃないか。そうだよな。 とりあえず家に帰ったが、あの美しい海を見てしまうと黙って家にいる気にはなれず。フォー・キール、フロリダ、シンデレラ……ありとあらゆるノンアルカクテルを作って海に戻った。海に居たかったのはちょうど今日が満月だったからかもしれない。一人海の家で晩酌をしながら思う。満月と海、といえば亀だ。亀の子は砂から出ると月の明かりを頼りにまっすぐ海へと行く。オレの前にいる海にも、月の道が出来つつあった。この道を辿りたい、などと考えて、苦笑した。これじゃあまるで自傷癖があった頃のオレだ。頃、というほど時は経っていないけれど。 仲がいい人が誰もいないクラスになった。誰も、というには過言だろうか。小学生の時仲が良かった人がいた。熊谷水木(くまがいみずき)。実を言うと、前は千咲ちゃんや夏実ちゃんと一緒に『仲良く』していた。でも水木はクラスが違かった上、小五の時金管のクラブに入り、朝も昼も放課後も練習が入ったので自然と疎遠になってしまったのだ。でもその最悪なクラスで出席番号が前後だったことから、なんとなく話し、なんとなく一緒にいるようになったのだ。彼女は小学生の明るい性格から別段変わっていないように見えたが、そんなことはなく。彼女はリスカをするようになっていた。詳しいキッカケは聞いていない。ただ、辛いことがあった時なんとなく切ったらスッキリしたからだと言う。オレも正直言うとアムカを始めたキッカケは覚えていない。何か辛いことがあった時、そういや水木がああ言ってたな、やってみるか、程度だったように思う。カッターやナイフ、ハサミで切る勇気はなく、ただシャーペンでギチギチと引っ掻いた。当然ミミズ腫れが出来上がる。何度も引くと、やがて血が滲む。不思議と痛くはない。以来、自傷癖ができた。水木もそう言っていたが、自傷をする理由はコロコロ変わるものだった。 ただなんとなく。死にたくて。死なないため。ストレス発散。習慣。生きていると確かめるため。自分が嫌いだから。自分が苦しめばいいと思うから。結局は、他のどんな人間よりも自分が嫌いだったからだ。 アムカ、レグカ、首締め、髪を抜く、殴る……ОⅮ(オーバードース)は流石に水木に止められた。それでもリスカは一度もしたことがない。「リスカなんてしたことないでーす」と、屁理屈を言うために。 一度、本気で自殺をしようとしたことがある。日付も、場所も、スケジュールも、どんな方法かも、入念に考えた。完璧だ、と思った。これでもうこの世界からおさらばできる、と思った。でも、オレは見落としていたんだ。 友達のこと。 中三の三学期。最悪の班になった。前の席はベタベタしてくる奴で、後ろの席はと言うと、元友達だった。ある日突然無視された、その人と、同じ班になってしまった。 友達だと思っていた。でもそれがなくなった。いや、元からなかったのかもしれない。ある日、突然無視された。突然、とは違うかもしれない。前からなんとなく、自分のことは嫌いなのだろうな、とわかっていた。でも、わかりたくなかった。きっと、大丈夫。何の根拠もなければ、何が大丈夫なのかもわからない。その『大丈夫』に一人虚しくしがみついて――振り払われた。それをきっかけに人間不信がさらに進んだ。まさかその人と同じ班になるなんて。自分のくじ運を嘆くより他ない。そこから鬱がどんどん進んでいく。腕の動脈を噛み続け、手が痙攣してしばらく動けなくなるまでにした。頭がぼんやりするほど首を締めた。もう、心も身体も疲れ切ってしまった。飯は喉を通らない、夜も眠れない。挙げ句の果てにはぶっ倒れて点滴を受ける様。やがて本気で自殺を考え出した。ずっと考えて、立てた計画。 一、二年が期末テストの日。しかも昼休みには三年はみんな体育館へ遊びに行く。そしてオレは図書委員の権限で図書室を開ける。司書の先生がいない日だと言うことも確認した。そこで、首を吊る。我ながら完璧だ、と思った。前日、一つ一つを噛み締め、当日は親にしっかり挨拶をし、珍しく授業をしっかり受け、昼に班体制で弁当を食べる時は、笑顔さえ浮かびそうだった。そしてもはや意気揚々で、ロープを持って図書館へ行くと。 「あ、香乃」 「………満弥(みや)、」 「よかった、一人で静かな図書館楽しむの勿体無いと思ってたから」 満弥。人間不信が進んでも、友達だと信じたい相手。中一の時だけ同じクラスだった。出席番号が前後で、好きな本が一緒だったことから仲良くなった。でもたった二年そこらの付き合いで友達を名乗られるのは迷惑だろうか、烏滸がましいだろうか、そう思いつつも、友達だと信じようとしている。でもオレはこの世界に捨てられている限り信じきれないのだろうけど。 「そのポーチ、何入ってるの?かわいいね」 「あ……ううん。何でもない」 オレの自殺計画は、完璧だと思っていた自殺計画は、友達によってあっけなく壊されてしまった。その夜、布団の中で泣きながらアムカをした。布団の中で言い続けた。なんで死ねなかったんだよ、死なせてくれよ、もう十分頑張ったじゃねえか、と。そして最後に誓ったのを覚えている。 「神様は意地悪だ。死なせてくれなかった。この世の汚物を一つ消したかったのに。なら、こんなろくでなしを生かしたことを後悔するくらい生きてやる」 だからオレは、涙ながらに、生きることを決めた。 思えばあの頃が今の所一番の人生どん底だ。いや、もう成長しないオレにとってはあれが人生どん底で間違いない。でもその後、ただ生きることにしがみつくうち、元友達との関係は少しずつ改善されていった。少しずつ、生きることを楽しめるようになった。今ではなく、未来を見れるようになった。でもアムカはなかなかやめられず。 中学最後の席替えではくじ運が良くなり、とてもいい席を手に入れた。一人席。前は水木。斜め前は昂希。結局出席番号順と同じ並びに戻ってしまっただけだが。 ある日水木がこう言った。 「え、でもさ、お前もう自傷やってないっしょ?」 それでオレは笑って言った。 「そりゃねー」 でも、その後昂希が近づいて言った。 「お前、ホントはまだやってんだろ?」 目を細めた。長袖に隠された腕には、赤い新しい傷のかさぶた。 「……バレました?」 「なんとなくな」 これだから。 「うまく嘘ついたつもりだったんだけどわかりやすかったですかね」 「いや? でもなんとなく」 「やっぱおかしい?」 「別に……死ぬよりはいいんじゃないですか? おかしいのは否定しないけども。」 「否定しろよ。……できないだろうけど。」 だから、昂希の前では装う必要がなかった。他の人の前でいくら偽ろうとも、装おうとも、昂希の前では仮面を捨てられた。 オレが本当にアムカをやめられたのはもう少し経ってから。中学最後の、普通授業の日の帰り道。小方が突然話し始めた。 「俺この前ばーちゃん死んだんだ」 「え? あ、おう」 「すっげー悲しかった。いきなりだったし」 「……うん」 小方の口からばーちゃんについて聞くことは多かった。病気した時などはばーちゃんの家に行っていると聞いていた。小方は本当にばーちゃんが好きなんだろう、とわかった。 「だからお前もいきなり死ぬなよ? 親友が死んだら悲しいからな。アムカを急にやめろとは言わん。でも死ぬな。死んだら殺す」 人と目を合わせるのは苦手、というか嫌いな者同士だけど、この時だけはしっかり目を合わせた。 「……死んだら殺すって、もう死んでんじゃねーか」 「うるせえあの世で殺してやる」 「だから、」 「うっせ! とにかく死ぬな!」 「……わかってる。死なねえ。約束してやんよ」 「なんで上から目線なんだし」 ははっと笑った。空がとても青くて綺麗だったのを覚えている。 「大切な親友の願いじゃん。聞かないわけにはいかないかと」 そしてその日、オレはアムカを捨てた。他人の目を気にしたわけでも、身体を大切にしないとと思ったわけでも、怒られたからでもなく。 アムカするのを認めてもらえたから。 大丈夫、もう生きるって決めたから。というかこの世に引き止められたんで。毎日朝が来るのが怖かった。朝なんて一生来なければいいと、布団の中で泣きながら願った。でも、やっと、少しずつ『また明日』が嫌いじゃなくなった。その他大勢が嫌な思いをしないために、自分が楽になるために、死のうと思ったけど。その他大勢はどうでも良しに、大切なたった一人の親友のために生きていてもいいですか。 だから今もこうしてオレは生きている。 今思えば、昂希が大切な人だと認識し始めたのはそれがきっかけだったかもしれない。それが世の中一般でいう恋なのだと気づいたのは卒業式数日前。小方より先に満弥に相談すると、『告りなさい』と即答された。は? と思ったが、昂希なら他に広めるなど下衆いことはしないよなと思い、式の二日前、卒業式の日告ることが決まった。我ながら急すぎて笑ってしまう。「でもそっかー、香乃が恋かー、」と親のように嚙みしめる満弥に、『いやこれはね、一口に恋って言うもんじゃなくて、』“ピストルスター”なんだ、と説明したところで、『それってフツーに恋、だよね?』と言われるのが目に見えていたのでやめた。人見知りで過去の事件から男嫌いになったオレが、よくもまぁたった数日で告ったよ、と思う。いや、たった数日だったからよかったのか? 告ったのを後悔してはいない。引きずりまくってはいるが。でももう現実では引きずっていないのか。そもそも十八だ。 南の海は現実に続いている。この島でまことしやかに囁かれる噂に則って、南へ叫んだ。 「失恋引きずってないとか羨ましすぎかよー!」 まあ、オレが捨てられたそのあと三年、恋をしていないとは限らないのだが。叫んだ言葉は遠くへ溶ける。満月は南の真上にあった。
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