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奇跡、惜愛、祉
「昂希、」
力が抜けてしゃがみこんでしまいそうになる。身からも顔からも涙栓からも力が抜けてしまいそうだ。くたびれたワイシャツとネクタイ。背はいくらか伸びただろうか。肌も中学の時と比べれば幾分かはキレイだ。
「変わらないね、昂希」
でも根本的なパーツ、造形は変わっていない。もしかしたらこれも夢なのかもしれない。ああでも昂希は今ここにいる。オレの目の前にいる。普段見る夢よりずっと鮮明に、ここにいる。
「え、どちら、様」
声だって変わらない。記憶の中にしまいこんでいたものがつつかれる。そうだ、君の声はこんな声だ。君の顔はこんな顔だ。
「覚えて、いらっしゃいますか」
何も言わない。
「中学の同級生です」
ただ目だけが開かれていく。
「香乃。坂口、香乃。……久し振り、昂希」
「……香乃?」
絞り出すように言った。ちゃんと説明しなくてはいけない。
「そう、あの坂口香乃。って言っても三十二歳じゃないよ、まだ十五歳の時の香乃。十五歳の坂口香乃の魂片が、幽体離脱してきたって感じ?」
ちゃんと、と言った割にはかなり雑だ。
「……なるほど?」
「は、理解できたの?」
「いやまさか、でも設定はわかった。……嫌に生々しい夢だな」
そうだ、昂希にとってはただの夢、朝になれば一つの物語、もしくは全部流れてしまうかもしれない。それは寂しいけど、ありがたくもある。そうだったとしてもこれは、オレに与えられた奇跡で、紛れもない現実、そう思いたい。後悔のないよう、なんてきっとできない。でも少しでも後悔を減らせるよう。君の夜明けまで。
「いやしっかし……」
飲みこみきれていないのだろう。それが普通だ。
「あー、なんでスーツ?」
「……残業で、帰って、ソファーで寝ちまったのかな、多分」
「夢ですら疲れさせてすみませんね」
「まったくだ」
少し笑う。やっぱりこれは昂希だ。オレの信じる昂希とはもちろん違うのだろうけど、これは黒川昂希だ。
「お前、香乃、なんだな?」
「うん、まあ」
「あそう……じゃあ、ご結婚おめでとうございます」
少し固まる。
「……招待状、アンタにも行ったんだ。でもオレに言うなよ。本人に現実で言えば?」
「いや、式行くつもりないから」
「……ああ、そう」
オレに言うなよ。
ふと、視線を落として、見つけてしまった。 ぁ、と小さく声が漏れる。 鼻の奥がツンとした。いけない。泣いちゃだめだ、笑わないと、言わないと。口を開く。
「あの、」
普通に出したはずの声がどこか上ずって、昂希と目が合う。何も映していないような、それでいて全てを見透すような目に声が出ない。押し出さなくては、言わなくては。
「えっと、結婚、」
「言いたくないことは、言わんでいいよ」
遮られた。ハッとして、ホッとして、言葉を止める。まず浮んだのは、言わなくて済んだという安心。それから、言わせろよという苛立ち。そして、そうだ、昂希はそんな人だった、という諦め。その後はただ、行き場を失くした勇気が彷徨うだけ。昂希は親切だ、昔から。自分が嫌な思いをしないようにしてるだけだろ、と周りは言うけど、親切なんだ。でも、『昂希、結婚おめでとう』と言ってしまえれば、何かを区切られるのに。そんなのオレの勝手だけど。
「……ありがと」
そう言うと、昂希はさらに眉をしかめる。
「感謝されるようなことなんてしてないだろ」
「ううん、したよ。感謝したらだめだっての?」
「いやだから、俺は今感謝されるに値することなんてしてねえだろ。感謝なんて要らねえよ」
「でもオレは感謝したい、って思ったんだから、そうする権利はあるでしょ」
はあ、と溜息をつかれた。
「……勝手にしろ」
「うん、ありがとう」
ほらまた、溜息。オレの得意技の一つに、『昂希に溜息をつかせること』を入れてもいいかもしれない。
「あのさあ、お前が俺をどういう風に思ってるかは知らないけど、俺はお前が思うほどいい人なんかじゃねえんだぞ?」
「うん、そうなのかもね」
そんなこと、もうとっくに知っている。わかっている。でも、いいじゃないか。“昂希”を信じたって。“昂希”を心の拠り所にしたって。そんなんだからオレは捨てられたのだろう。
「高校でさ、満弥に怒られた。君香乃に酷いんじゃない? って。お前に対してもっと誠実にすべき、的なこと」
「お前はいつも誠実だろ」
「そう、なんだよな、周りっていうか、満弥とかその辺はそう言うけど、当のお前がそんなんだからどうしようもない。たしかに俺も、もうちょい違う風にした方がよかったのかなって思ってんのにさ。あんなにメールしなくてよかったんじゃないかとか、まあ、諸々。でも謝るのはお前、感謝すらしてくる。お前は時々、無駄に自己犠性的」
そうかな、と薄く笑いながら、少し悲しくなる。昂希がそう言ってくれるのは、これが夢に過ぎないからだろう。
「お前ってさあ、威圧的なくせして実は自己犠牲的だよね。 今っていうか、現実も、昔も」
「何それ。どっちでもあったつもりはないんだけど? てかそれって両立するわけ?」
でも、少しわかる。口調や態度は彼いわく威圧的でも、小四を拾ってないのであれば、自己犠牲的…わからないではない。でもそれは昂希こそではないだろうか。
「……会えてよかった」
「……そう、か」
いいのだ、昂希が社交辞令で『俺も』なんて言わなくたって。そんな昂希が好きなんだから。
なんで昂希への想いが強いかって、それは不完全燃焼だからに違いない。でなければもっと思い出だってあって、君に告ることだってなかったかもしれないのに。そうすれば、オレは捨てられなかっただろうし、昂希を傷つけないで済んだだろうし、卒業式をもっと美しい思い出にできただろう。タラレバなんてくだらない、もうどうしようもない。戻ってはこないのだから。でもやっぱり、どうしても悔しいんだ。地獄のようだった学校生活、やっとそれから解放されつつあって、あと少し楽しもうと思っていた時、突然。閉ざされた。
「あーあ」
「何」
「ねぇ、なんでオレらの代だったんだろうね?」
そんなの昂希が知るわけもない。
「……俺らだけじゃねえよ。下の奴らはなんもできなかっただろ。俺らは修学旅行も体育祭も文化祭も満足にできたんだし。仕事によっては大人の方が大変だったんだから、俺らはいい方なんだよ」
「……そうだね」
君は諦めている。そして、大人の言葉を言う。正しいことを言う。昂希の言うことは、正しい。
「でも悔しいじゃん? いきなり卒業前の七日間とられてさ?」
「俺らは卒業式やらせてもらえただけ良い方だろ」
「そうだけど、でも、わざわざ休みにすることなかったじゃん」
「命が関わってて、未知だったんだから仕方ないだろ」
「でも、でも七日あれば、もっと思い出が、できた」
『でも』を繰り返して昂希を困らせることだって、オレは得意だ。幼いことを言っているのはわかっている。どうにもならないことをごちゃごちゃ言ったって何も変わらない。でも我儘を言ってしまう。オレは永遠の十五歳だから。
「ああそうだな」
吐き捨てるように君はそう言う。ごめんな、あともう一つだけ、戯れ言を言わせてくれ。
「七日あればきっと、お前に告るなんてこと、しないで済んだのにな」
オレはこうやって、君を困らせることしかできない。
「ねえ知ってる? いや知らないと思う、てか知っててほしくないけど、オレがアンタを好きかもって思うようになったのって、休校が決まった頃なんだよ」
「は?」
「びっくりしてる?」
「いやびっくりっつーか……お前にしては無計画というか?」
「はは、自分もそう思うわ。でもね、だからできたんだよ。ちゃんとアンタと顔合わせて過ごして、自分は本当にコイツが好きなのかって考えてたら、告白なんてできなかったと思う」
「と言いますと?」
「だって、本当に好きだったら、告白して迷惑かけるなんてこと、オレはしたくなかった」
「じゃあ、たいして好きでもないのに?」
「それも違うよ、わかってるくせに。中途半端に、『好き』が走っちゃったってだけ」
あの、世界中を飲みこんだ流行病が、オレからもまた、いろいろなものを奪って行った。
「それに俺は巻き込まれたってわけか」
「そーゆーこと」
二人で軽く笑う。
「でもさあ、実はオレ、別な時にも一時アンタが好きだったんだよ?」
「ええ?」
これは昂希にとっては夢だ、この際なんでも言ってしまえ。洗いざらい話してしまおう。これが最後だから。
「修学旅行の頃かなあ。なんかコイツのこと好きだ、特別だって思って、じゃあそれって恋じゃん? 的な?」
「軽くね?」
「軽いでしょ? でもその後ちゃんと考えて。好きで、他の奴らよりはちょっと上っていうか、トクベツだけど、それは人としてってだけであって、恋じゃないんじゃねってなったワケですよ」
「やっぱ軽いな?」
「だから軽いっつってんじゃん。でもまた卒業する時に、どう特別なんだって考えちゃった。あとの下りはまあ、ご存知ですよね」
「友達、で留めとけよ」
「ええ、友達だった? そんな美しい関係じゃなくね? って言うよりオレらには合わなくね?」
「まあ、合わねえな」
「ですよねー」
「じゃあ夏瀬はどうだったんだよ、アイツだってちょっと特別だったんじゃねーの」
「ん? 夏瀬は、ちゃんと、友達だから?」
直射日光のように笑い、接してくれた夏瀬。彼は当然のように、「お前は俺の友達だろ?」と言って笑った。そのあまりにも飾りっ気のない言葉に、直っすぐな笑顔に、ああ、コイツは信じていいんだ、友達なんだと思えた。夏瀬のことは友人として信じてる。昂希のことは、人間として信じてる。
「それでさ、ずっと、オレにとってアンタが何だったのか考えてるんだ」
「勝手な話だな」
「うんそう、すごく勝手」
いつだってオレは、基本昂希の前では好き勝手していたと思う。
「ねえ昂希、ピストルスターって知ってる?」
「はあ? 何それ」
「じゃあネメシスは?」
「知らねえよ」
じゃあ、教えてあげよう。
「ピストルスターってのはえーっと……たしかいて座? だったかな? いて座ってどこだ? まあいいや、たしかたぶんおそらくきっとオレの記憶によると、いて座の方向にあって、一九九〇年だっけ? たぶんそこらへんにハッブル望遠鏡が見つけた星なんだけども」
「あやふや過ぎねえか、大丈夫かよ」
「まあ重要なのはそこじゃないから。ピストルスターは、太陽なんかより数百万倍も明るい。でも、その光は地球には届かない」
「……俺はそこだけ覚えればいいのか?」
「最初の方は覚えてなくたってなんも問題ないよ」
いや、この話だって、昂希は聞かなくても何も問題はない。寧ろ拗らせてしまうかもしれない。ただの自己満足だ。
「で? もう一つは?」
「ネメシスは、太陽の伴星」
「伴星?」
「たぶんネメシスは存在しない」
「存在しない星に名前がついてるんだな」
「うん、そうらしいよ」
「なんの関係があるってんだ」
「オレの好きな小説の」
「はあ?」
「オレの好きな小説の主人公は、ある女子をピストルスターみたいに思ってるんだ。彼女にとっての正義が他の人とは相入れなくても、誰も照らさなくても、彼女はずっとその正義を貫いていてほしい、強く輝いていてほしい。そういうことを言ってる小説だったってオレは解釈してる。 でもお前はそうじゃないだろ。お前にはどんなときもかかげる正義、なんてありそうにないんだけど」
「ああ、そんなのはないな」
「アンタさっきさ、自分はお前が思ってるほどいい人じゃないって言ったよね。けどアンタはすごく優しい人だとオレは思ってる。実際はそうじゃないかもしれないけどさ」
「なるほど、じゃあ俺はネメシスとやらなのか?」
理解が早くて助かる。でも、そうじゃないんだ。そうだけど、そうじゃない。
「ねえまた話がブッ飛ぶけどさ」
「いつものことだな」
「これからちょっとおとぎ話するから聞いてよ」
「聞かないって言ってもどうせ聞かせんだろ?」
ああ、そうだ。これが、オレたちだ。
「ご名答」
「聞いてやるよ。手短にな」
「努力はする」
君に話そう。これは君の話で、オレの話で、ある星の話で。
「この星、知ってる?」
その星の名前を言うと、昂希は『馬鹿にすんな』と顔をしかめた。
「で? 昔むかしあるところに、ってか?」
「はは、それいいね。それで行こう」
別にそんなんじゃなくてもいいんだ、おとぎ話だなんてかっこつけなくても。実は自分って、かっこつけたがりでポエミーなのかもな。でも今はそれでいいか。だって相手は昂希だから。
これは、一人の女の子が見つけた、とある星の話。
「……なるほどね」
「これでも自分には合わないって思う?」
「いや、別にハズれてるワケではないと思うし、まあ、全部お前の勝手にすればいいんだろうけどさ。別にネメシスでもいいんじゃねえの?」
「ネメシスは、ちょっと違うかなって思って。これがいいんだ」
「これがいいって思ってんなら俺に言うなよ」
「なんとなく聞かせたくなったんよ」
話したい大きなことはこのくらいだ。
でもオレが一番昂希としたいことは、ただぐだぐたくだらないことを言って、笑うこと。
「……そういや三年の理科の時、ところてんの話したじゃん?」
「ところてん? ああ、あれか! あれ、なんであの時あんなに笑えたんだ?」
「あとアンタの背中に『おまめ』って書いた付箋、貼ってあったよねー」
「あれマジ誰貼ったの? お前じゃないんだよな?」
「違うって!あの付箋はオレのだったと思うけど」
「じゃあ水木?」
「水木あんなに字上手じゃなくね?」
「ひでぇなお前」
二人でケラケラ笑う。他愛もない話をしよう。二人で思い出を堀っくり返そう。君に会って一番したかったのは、こんなありふれた日常を、欠片でもいいから取り出すことだ。 夜は長い。
会話が途切れた。そろそろちゃんと寝かせてやった方がいいだろう。最後に『皆は元気?』と尋ねようとして、自分がとても楽観的に考えていることに気がついた。何が起きるかわからない世界。昂希が生きていることだって、奇跡に等しいのかもしれない。世界中を巻きこんだウイルスの餌食になってしまった人だって、いるかもしれない。いつも通りの年が来ると、ほとんどの人は信じて疑わなかったあの年、それを全て覆されたあの年。たまらなく悔しい。どこにぶつけることもできない怒り。なんでなんだ、どうしてなんだ。卒業式前、突然の休校で奪われた七日間。卒業式も大幅に短縮され。あたり前の有り難み。西暦二〇二〇年、オレたちが中学を卒業した年。世界中を巻き込み、多くの命を奪った肺炎。あれからもうすでに十七年。世界は“平和”だろうか。“普通”の日常を過ごせているのだろうか。わからない。じゃあ『皆元気?』なんて、まるで皆が生きているのが当然であるかのような質問はすべきじゃないのだろう。
「昂希は今、何の仕事してんの?」
「サラリーマン」
「給料もらってりゃ何だってサラリーマンでしょうよ」
別にちゃんと知らなくったっていいんだけど。自営業なんてとても考えられない。
「寝る時はちゃんとスーツは脱ぐべきだと思いますけど」
「部屋で、嫁と子どもが寝てたから、静かにしなきゃって思ってたら寝てた」
「……ああ、なるほどね」
次の言葉が出ない。ああ、その指にはまった輪が憎い。今すぐにでもその手に飛びかかってそれを外し、遠くに投げ捨ててやりたい。でもオレが昂希の手を掴んでも、きっと彼は何をするでもなく、オレに手を取られたままでオレを見るのだろう。『お前はそんなことしないよな』、とオレを見るだけで、振り払うことも突き飛ばすことも、きっとしない。ああそうだ、オレはそんなこと、できやしないよ。掴みかかる勇気すらない。きっと昂希はオレのことを振り払ってはくれないから。手を掴まれるなんて心底嫌なのに、オレを哀れんで振り払ったりはしない。振り払ってくれれば、オレにだって救いがあるのに。でもきっと、それが昂希の親切なのだから、それでいい。大丈夫。オレは君の結婚指輪を君から奪って捨てるなんてことは、とてもできないから。
「夢の中でまで疲れさせてごめんな」
「別に」
「……ねえ、昂希」
君の姿を目に焼きつけよう、君の声を耳にこびりつけよう、君の言葉を心に刻み込もう。
「本心だから、言わせて欲しい」
本当は、君の隣にいるのは自分でありたい。君の幸せの中心に自分がいたい。でも君を本当に好きならば、大切ならば、オレはこう言うべきだ。
「幸せになってね」
紛れもなく本心。
「ああ」
昂希の幸せと、オレの幸せがイコールであれば、どんなによかっただろう。でもそれは叶わなかった。オレは昂希の幸せを願うことしかできない。だからオレは、昂希の幸せを、オレの祉にしよう。
「じゃあ、」
「うん。じゃあ」
昂希が背を向ける。またね、なんて高望みだ。そんなことはもう許されない。じゃあ、最後は自分のために、中途半端な感情を少し走らせてやる。
「昂希、」
名前を呼んだ。
「、好きです」
昂希が少しだけ、僅かに微笑んでこちらを見る。
「……いいえ」
「うん、ありがとう」
いいえ。昂希はオレをフる時そう言った。ありがとう。オレはフられた時そう言った。ああ、これで終わりだ、オレはフられたんだと、安心したから。でも今はただ、オレの大切な存在になってくれたことに、感謝できた。 君がまた歩き出す。君の背中をいつまでも眺め遣る。
やっぱりオレは、昂希のことを本当に好きではなかったのかもしれない。
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