ベテルギウス、護美、永遠に。

1/1

25人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ

ベテルギウス、護美、永遠に。

南の海の家で、空を見上げた。真夜中、もうだいぶ肌寒い。東の空にその星を見つけた。もうオリオン座が見える時期になってしまったらしい。ベテルギウス。オーリーオーンの右肩に輝く星。地球から見れば大きいけど、 実際の光はそれほど強くはない。青く輝くピストルスターの足元にも及ばないだろう。 昂希に出逢ったあの夜、ベットの中で目が覚めた。もう五十年以上経ってるというのに、あの夜のことは今だに鮮明だ。やはり夢だったのか、と思ったが、昂希との会話は全て、 自分が真にそれを経験したかのようにリアルだった。その日からだ、オレの呼び名をベテルギウスにしたのは。 地球から六四〇光年先の星。オレたちが今見ているのは六四〇年前の光だ。ベテルギウスはもうないのかもしれない、 そう言われている。オレたちがその真偽を知る術は、たぶんない。オレは、その星はもうどこにもないのかもしれないと知りながら、その星の輝きを見つめる。 俺はお前が思っているほどいい人じゃない。 昂希はそう言った。そうなのかもしれない。オレが思う『昂希の優しさ』は、他の人も言うように優しさではないのかもしれない。昂希の優しさ、なんて、本当はないとしても、それでもオレは君が好きなんだ。あの夜、ベテルギウスのおとぎ話を昂希にすると、昂希はネメシスでもよくね?と言った。でも、ネメシスじゃない。 それじゃダメなんだ。それじゃ嫌なんだ。この世に一度も存在しなかったみたいに言いたくない。君をネメシスではなく、ベテルギウスと呼ぶのは、オレの信じる昂希が、一度でもオレの前に居たんだと、信じたいからだ。もう今はそれは虚像であったとしても、その灯火はいつでもオレを照らしてくれる。 立ち上がった。最後の眠りにつこう。再び目が覚める眠りにつくのは、これで最後だとわかったから。明日自分は死ぬのだと、そのお告げはすんなりと心の中に通知された。海を後にする。 夜空のベテルギウスは、オレのベテルギウスは、美しく輝く。 目を開けた。頬が湿っている。夢を見ていたようだ。 「……昂希に会いたい」 もう会えないことは知っている。それでも会いたい。オレはもう奇跡をもらったろ、と言い聞かせて、ベットから抜け出した。 「いただきます」 卵かけご飯、油あげのみそ汁、プチトマト。皿を洗って片付けて。好きな曲を聞いて、アムカとカラオケ対決をして。特別なことなんて、きっと何一つない。 夕方、おばあちゃんの家へ行った。 「最後の晩餐は何にするの?」 「悩ましいね、店に入って出てきたものを食べるよ。でもまあ、プチトマトとリンゴは食べさせてほしいかな」 「おいしいもの食べなさいよ」 「おいしいものであることを願うわ」 ふふ、と意味もなく笑った。 「なんかないの、年長者の有り難いお言葉とか」 「じゃあ敬意を払ってほしいわね」 「なんで同じ人間なのに敬意払わなきゃないのよ」 特別なことなんて何もない、でもやっぱり普通ではない。そりゃそうだ、本当は死ぬのが怖いんだから。 「そうね、ここはごみ箱ってことだっけ?」 「そうなるんじゃない?」 何の話をするつもりだろう。 「じゃあ、ごみって漢字でどう書く?」 「え、芥川の芥?塵とか?」 「ああそれもそうだったっけ。でも他にもある」 そこで少し、言葉を区切って微笑んだ。 「護美。美を護ると書いて、護美(ごみ)」 美を、護る。 「あなたたちを捨てて美を護れたかどうかはわからない。でもきっと、ここにあるものみんな、護美だってみんな、香乃にとっては大切なものだった」 家のごみ箱の中にあるオトモダチの手紙、結婚式の招待状、誰かの喪中ハガキのように。オレたちもまた、護美。 「……有り難いお言葉、どうもありがとうございます」 「大したことは何も言ってない」 肩をすくめる。十分有り難いお言葉じゃないか。 自分が捨てられたことで、香乃の人生が上向きになったのであれば、いやそうでなくても、何かから護れたのであれば、捨てられた意味が少しはある、と思いたい。 もし、もしもオレが、昂希を『好き』な理由だとか、どう好きなのかだとか、深く考えず、『何か特別』『何か大切』に留めておいたなら、オレは捨てられることなく、昂希をずっと大切なままにできていたんだろうか。まあ、今更どうしようもないだろう。現実の香乃は昂希のことはもう大切ではない、それを変えることはオレにはできない、悔しいけど。じゃあオレは、昂希のことをずっと大切にしていよう。 でも、もしかしたら、もしかすると、オレがまだここにいるということは。消えていないということは。現実の香乃も、少しは昂希のことが大切だったのかもしれない。 「じゃあ、もう行くね」 「どこに行くつもり?」 「商店行って最後の晩餐。それから海かな」 「そう」 「うん。……じゃあ、」 手を上げようとした。 「待って、一つだけ。昂希が結婚式で、『結婚生活とかじゃなくて、普通に幸せになってください』って、言ってた」 息がつまる。 「本当は来るつもりなかったんだけど、って相変わらず。それだけ。引き留めてごめんね」 「……ううん」 「じゃあ」 「うん、じゃあ、」 背を向けた。本当は、しゃがみこみたい。しゃがみこんで、泣きじゃくりたい。喜びと悔しさでいっぱいだ。式に来てくれたこと、それは嬉しい、本当に。でも、 幸せになってくれ、と言うならオレに言ってほしいというのが本心だし、オレの結婚式の新郎として、そこにいてほしかったし、幸せになれ、なんて他人事のように言わないでほしいとも思った。 だからせめて、昂希は幸せになってくれ。オレが手に入れられなかった幸せを、大切な人との幸せを、君は手に入れてくれ。君は幸せ? もし今も生きているならこれからも幸せでいてほしい。もういないのなら、君の人生が幸せであったことを願う。昂希の幸せが、オレの祉なんだから。 部屋を出ると、ギャルと小四とオトモダチが家に来たところだった。 「あれ、行っちゃうの?」 「海の方が好きだから」 「ねーちゃんとアムカも海行くってよ」 「あそう」 こいつらともお別れか。同じ自分だというのに、どこか寂しくなってしまう。 「ベテルギウス、今までありがとう」 「おう、こちらこそ」 「ベテルギウス、握手!」 「はいはい」 「ベテルギウス、ここで会えて良かった」 「そうだね」 三者三様に声をかけてくる。本当に自分は死ぬのかもしれない。三人の様子を見て少しだけ実感が出てきた。 「今までありがとう!」 「……ありがとね」 ふ、と口元上げる。 「なんか、ベテルギウスが笑ってるトコ、初めて見たかも」 小四がそう言う。 「今まで笑ってなかったっけ」 「うーん、なんていうか……今はちゃんと、目も笑ってる!」 なんだよそれ。小四の頭をわしゃわしゃっと撫でてやった。 「そろそろ行くね」 「うん、」 ギャルもどきが寂しそうに笑う。小四は、ちょっと泣きそう。オトモダチは、めずらしく少し笑っている。背を向けて、手を上げた。 「じゃあね」 「うん、……またね!」 振り返って微笑む。 「……じゃあね」 ひらひらと手を振って、そこを後にした。 海の家に、二つの背中が見えた。 「結局ここに落ちつくわけね」 「……やっぱり来たか」 二人の横に腰を降ろす。海の果てを見つめた。この海を駆け抜けて昂希の元へ行ったこと。それと同時に、昂希のこと、昂希とのこと。やっぱりまだ、昂希に会いたい。社交辞令であっても、オレの幸せを願ってくれた昂希。そこにほんの少しでいいから、本心が混じっていれば、なんてゼイタク言ってみる。 空を見渡しても、ベテルギウスはない。まだ九時少し過ぎ、ベテルギウスは見えない。この時期なら、ベテルギウスが空に昇るのは〇時頃だろう。ベテルギウスを見る度、昂希のことを考えた。昂希の優しさも、オレが思う昂希も、本当はなかったとしても。そこで輝くベテルギウスはもう何百年も前に消えていたとしても。六四〇年前の光がオレの前で煌めくように、オレは昂希の優しさを思い出して心を暖められるように。 虚像の燭は、永遠(とわ)に輝く。 「いろいろあったよなあ」 「乙女は消えるし」 「オレはどっかの島に行っちゃうし」 「アムカは死のうとするし」 そう三人で言いながら、それぞれの思い出を暖める。ここで過ごした日々に比べれば、現実に生きた日々はほんの僅か。でもそれが全てだ。オレの真ん中にいるのは、他の誰でもない、昂希。 不意に空が輝いた。頬杖をついたまま、一応そちらに目を向ける。 「……お迎えか」 なんとなく時計を見て、はは、と笑った。オレがこの世から消える時間、それは。 「オレが昂希にフラれた時間」
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

25人が本棚に入れています
本棚に追加