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微笑、告白、無機物
気付くと、友達の姿がなかった。まあいいか、と思って正面を向きなおした時、隣に誰かいるのに気がついた。
「あれ」
「何、連れは?」
「わかんない。いなくなった」
「捨てられたのか」
フッ、と息を強めに出す。
「そちら様もなんじゃないですか。お連れ様は?」
「さあ」
「じゃあお互い様じゃん」
「俺は置いてきたんだよ。お前みたいに気づいたら置いてかれてるアホとはちげえ」
「え? 誰の話?」
「いやおい」
「はは」
沈黙が訪れた。
改めて今の状況を考えた途端、ぶわっと体温が突沸した気がした。目の前で悠々と泳ぐカラフルな魚も、もはや灰色でしかない。魚なんかよりもこっちの方がよっぽど極彩色に彩られているから。羨ましがれ、魚たち。
「そっち、何いんの」
「さあ? 魚じゃない?」
「水族館なんだからどこもそうだろが」
「さっきカワウソもいたよ」
「お前マジウザい」
「ひどい」
水族館最後の水槽の前に立った。
この時間がずっと続けばいいのに、と思った。叶いもしない。現実的でもない。でも、願わずには、いられない。目の前の魚はそんなウチを嘲笑うようにゆらゆら揺れる。
「売店にはみんないるよな」
「いなきゃ困るし」
そう言って二人売店へ行こうとしたとき。
君と手が、少し触れた。
ゆっくり目を開いた。
……寝なきゃよかった。頬に手をやると、しっとり湿っている。目を隠していた腕を横に移すと、何かに触れた。なんだろう、と思って見ると、カワウソのぬいぐるみだった。修学旅行、売店で合流した友達と一緒に二人で買い、二人で名前をつけてあげたぬいぐるみ。とても可愛くて、とても気に入った。袋に入れずに手に持って歩いた。彼の言葉を思い出す。
――え、お前がそういう可愛いもの持ってんのすげー似合わない――
――お前死ね――
そんなことを言い合いつつ、彼はオレの腕の中にいるカワウソの頭を撫でていた。湿った指で同じ所を撫でる。
現実の坂口香乃はもう昂希を大切にしていないんだろうか。でもきっと少なくとも、毎日彼の夢を見たり、ちょっとしたことで彼を思い出して胸が締め付けられたりなんてことはないのだろう。それでいいんだ。こんな過去にしがみついていては何にもならない。何も進めない。だから、それでいい。それがいい。そうするべきだ。
「こんな感情、いらねーよ。持っててなんの得もねーよ」
区切りがつけたくてそう呟いたのに。それを皮切りに涙があふれた。失恋した夜のように。結局オレは何一つ変わっていなかったのだ。長かった髪を二十センチ以上切ったことも、眼鏡を変えたことも、一人称を変えたことも、そのすべては上辺だけの変化で。オレは何一つ変わっていない。でもオレがここにいるということは、この世界へ捨てられたということは、現実のオレは、過去にしがみつきいつまでもメソメソしているのをやめたということで。それは現実のオレが確かに前へ進めたということで。それは喜ばしいことだ、正しいことだ。オレだってそれを願った。こんな苦しみ、投げ捨ててしまえればどんなにいいか。何度もそう思った。でもそれは時間が解決する、というやつで。本当に捨ててしまいたい、ということではなかったのだ。そんなこともあったね、懐かしいな、と、思い返したときに笑えるような、どこか暖かく、どこか切なくなるような、そんな思い出になってほしい、ということだったのだ。現実の坂口香乃はもう彼のことで心を痛めることも、苦しむことも、泣くことも、一人ニヤつくことも、一人悲しげに微笑することもないのだろう。彼が大切でも、すべてを無条件に信じられる人でも、ましてやピストルスターでもないのだろう。じゃあ坂口香乃は昂希の顔を、声を、仕草を、鮮明に描くことができるようになったのだろうか。そうなのかもしれない。心を痛めることなく、体育祭や文化祭や卒業式のビデオを見たり、卒業アルバムを見たりできるようになったのだろうから。オレは、いつからだろう、彼の顔も、声も、仕草も思い出せない。こんなにも大切なのに。他の人の顔は覚えているのに。彼とのたくさんの思い出も、言葉も、覚えているのに。にもかかわらず、彼の顔が、声が、そこだけ記憶がショートしてしまったかのように、思い出せない。卒アルを見ればいい、写真を見ればいい、ビデオを見ればいい。簡単なことだ。本来は。でも、それがどうしてもできない。こんなにも大切な人を、オレは忘れてしまっている。
涙は止まらなかった。
やっとおさまって時間を見たとき。朝か夜かの違いはあるものの、皮肉にも時計の針は、オレがフられた時刻を指していた。
食べたコンフレークに味なんてなかった。いや、正しくは苦悩の味しかしなかった。おいしくない。舌も腹も心も、何処も満たされない。もういっそ吐いてしまいたいとさえ思ったが、吐くほどのものは腹に入れていなかった。そうか。すべてを諦めたかのように思う。オレはもう成長しないのだ。アムカだってそう言っていた。
――ウチらは一生このまま。 心も体も、どこかが成長するってことはもうないんだよ――
ああもう、それでいい。オレはずっと、永遠に、顔を思い出すこともできない人を信じ、慕い、恋い焦がれ続ける。些細なことで傷が疼き、泣く。きっとオレは、現実の坂口香乃が死ぬ、その時まで、高校一年生のまま、中学三年生の黒川昂希を信じ続けるのだ。もう、それでいい。現実の坂口香乃よ、こんな重くて無駄で不要な足枷など捨てて、歩き出せばいい。
――でも、ここがあるってことは、坂口香乃はウチらをまだ心の奥底に持ってるってことなんでしょ――
持っていなくていい。もういっそオレを殺して仕舞えばいい。抹消して仕舞えばいい。こんな感情なんていらないのだから。
「ごめんな、オレなんかが……」
こんな言葉、昂希に届くわけも、昂希が必要としているわけもない。そもそも自分が本当に彼を好きだったのか、それすらわからない。でも、大切だったのは確かで。ずっと一緒にいたいと思うのも確かで。この感情に当てはまる言葉を『恋』や『好き』ぐらいしか持っていないのがとても悔しい。だから、この想いを伝える術は『告白』しかなかったのだ。どれほど人を好きになっても、フられるのが怖くて。相手に迷惑だと思って。今まで一度も告白をしたこともしようと思ったこともなかった。でも、昂希相手ならそれでもいいと思った。今までたくさん迷惑かけてきたのだ、困らせてきたのだ、最後くらいオレがたくさん傷つこう。そう思った。
「で? 好きな人、誰」
「あー……同じ、クラス、なんじゃないかな。多分。そうだと思うよ」
「なんだよそれ。攻めてんの? 攻めてないの?」
「うん、同じクラス、です」
卒業式が終わって一時間以上経っていた。人もいない。小雨が降っていたが、それももう止んでいた。手にした卒業アルバムの表紙が少し波打っていた。手はかじかんでいるせいか、緊張のせいか、どこか震えている。
「漢字四文字で、名前がひらがな三文字、漢字二文字」
「えー……絞られるようで絞れねえな」
「そんな簡単に絞られたら困ります」
びゅんびゅん、とバックを大きく振った。中にはお菓子。昨日、卒業式で配る用として作れるだけ作ったのだ。でもお菓子をあげるような友達が多いわけがないので、たっぷりと残っている。昂希にはもう渡した。今思うとなんの需要もないツンデレを見せてしまった気がする。作りすぎて余ったからやるよ、なんて。他より多く入れたものを渡しておきながら。
「で?誰だと思うわけ」
「あー……周りの奴らの様子で察したってことでいいですか?」
久しぶりに、親友を恨んだ。アイツはわかりやすすぎる。いくらこっちが相手の前で平然を保とうが無表情を貫こうがお構い無しだ。彼女に何度好きな人をバラされたか、吐かされたか。だから一番信頼してるのはアンタじゃなくてコイツなんだよ、と心の中で笑いながら罵った。あんなにによによしながら「頑張れよー!」とか「もう言ったか? まだかよ! もう言っちまえ! 当たって砕けてこい!」などと本人の前で言ったらそりゃあなんとなくわかるだろう。むしろわからないなら心配すらする。
「察した? そっか、あいつらわかりやすいもんな。で、誰だと思う?」
「勘弁してくれ」
二人で苦笑する。
「そちらは? 好きな人。いるんでしょ」
はっきりと聞いたことはないが、二人だけの時に、いる、というようなことを言っていた。きっと他に知られると面倒だと思ったからだろう。
「ああ、うん……連絡先交換しませんか? ってことでいいですかね」
これは。ほんの数ミリの。数パーセントの。可能性を期待してみてもいいのかい? 学校では渋っていたのに、さっき頼んだらすんなり卒アルに寄せ書きを書いてくれたこと。ダメ元でツーショットを頼んだら一緒に撮ってくれたこと。わざわざ遠回りしてくれていること。道の真ん中でもう三十分以上話し込んでいること。自惚れてしまいそうだ。
風が冷たかった、泣きそうだった、心が痛かった。
「そろそろ、帰りますか」
「……そうですね」
もう一時半だって過ぎている。式が終わったのは十一時半だったのに。
少しずつ彼から離れていく。
「……ウチはコンタクトの方が似合うと思う」
「へ?」
あまりに唐突すぎただろうか。
「それだけ。ウチの好きな人は、最近コンタクトにした人です」
「……うん」
顔は見られなかった、もう背を向けてしまった。
「じゃあ、」
「ああ。じゃあな」
最後に見た姿は、涙で滲んでよく見えなかった。おまけに雨でびしょびしょになった眼鏡は外している。ひどい天然パーマなので、雨に濡れた後の髪が驚くほどくるくるだ。朝二十分以上かけて作ったストレートを返せ、と思った。
どうして最後、またね、とも、ありがとう、とも言わなかったんだろう。家までの僅かな道すがら、ふとそう思った。
何がオレが傷つこう、だ。結局オレは昂希にいらぬ気を遣わせただけだ。そしてその後、淡い期待も虚しくオレはメールでフられた。じゃあ送ってくな、三十分以上話し込むな、連絡先交換しませんかなんて言うな、あんなにメールのやり取りをするな。でもそれはきっと、彼なりの優しさだったのだろう。できるだけオレを傷つけまいとして頑張って示してくれた、精一杯の優しさだったのだろう。その優しさはこんなにもオレを傷つけ、苦しませる。お前には本当に迷惑をかけられた。教室で一人だった、学校なんて嫌いだった、なのに行きたいと思ってしまった。優しさを知ってしまった。また笑えるようになってしまった。全部お前のせいだ。そのせいでお前が、大切な大切な人になってしまった。でも、付き合いたいとは思わなかった。別れようと言うのも、言われるのも嫌だ。オレは誰かと一生付き合えるほど心も体も大人になってはいないから。それなのに、こんなにも昂希の側にいたい。隣にいたい。 付き合いたくない、これはただの『恋』なんかじゃない。そう思っているのに、オレの心にはなんと多くの矛盾が溢れているのだろう。オレなんかが好きになってごめん。たくさん迷惑かけてごめん。我が儘でごめん。無理に笑わせてごめん。君が、君の好きな人と幸せになることを願えなくて、ごめん。こんなにも好きなのに、オレは彼の顔を忘れているのだ、告るという大変な迷惑をかけてもいいと思ったのだ、幸せを願えないのだ、じゃあオレは彼のことが本当に好きではないんじゃないか? 卒業間際の告白ラッシュに乗っただけではないか? もう全てがわからない。心の底から現実の坂口香乃を羨んだ。いいご身分だよな、自分だけ逃げて。進んだんじゃなくて逃げただけだ。本当に羨ましいよ、代わってくれよ。この苦しみを、もう一度味わえばいい。
また意味もなくポロポロと涙を溢し、ただただ有機物を取り込み、無機物を排出し続けた。
「あのさ昂希……オレはね、アンタが好きなんだよ」
空虚に向かって言った。オレはあの時もメールでも、昂希が好きだ、とストレートに言えなかったから。
どうしてオレは、彼と友達でい続けられなかったのだろう。
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