雨ごい

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雨ごい

 その夏はひどく暑かった。エアコンの効いている室内にさえ、夏の光線が容赦なく入り込んでいた。わたしはマンションの一室で友人のエヌくんがやってくるのを待っていた。  指定の時間を三十分もすぎたころ、ドアをがちゃがちゃ言わしてエヌくんが到着した。 「外はとんでもない暑さだ。あんな場所にいたら死んでしまう」  滝のような汗をかきながらエヌくんが入ってくる。 「わざわざこんなときに来るからだろう。自分の部屋でおとなしく涼んでいればいい」 「こんなときだからこそさ。いいものを見つけた。掘り出し物だ」  エヌくんが洋服で汗をぬぐい、部屋の冷えた空気に多少生き返った顔を見せる。彼の手には大きな古臭い本が抱えられていた。  エヌくんから発散する熱気と湿気が、わたしをほんのわずかなあいだ外の世界に連れ出した。 「なんの本だ、それは」  暑い世界から来た客に飲みものを用意しながら、わたしは聞いた。エヌくんは椅子に腰を下ろしてぱたぱたと手で自分をあおいでいる。 「雨ごいの本だ。まさにいまの時期にぴったりと言えよう」 「はやく自分の家に帰ったらどうだ。安静にしていたほうがいい。夏をなめていると、手遅れになるぞ」 「まあ、待て。別におれの頭がおかしくなったわけではない」  わたしが用意した飲みものを一気に飲み干してエヌくんは話をつづけた。 「この本は古代の儀式を知っている人から聞いた話を書き記したものなのだが――」 「よくわからない説明をするな。ただでさえ、この暑さにまいっているんだ」  窓の外は静かだった。この殺人的な光線を防ぐため、みな息をひそめて暮らしている。あまりの暑さに景色が揺らいで見えるほどだ。 「簡単に言うと、また聞きの本だ。古代文明の儀式が載っている。手軽なものから生贄を捧げるおぞましいものまで、選び放題だ」 「ああ、よくわかった。それでなんのためにそのいんちき本を持ってきた」 「言っただろう。雨ごいをしようというわけさ。ここのところ雨雲どころか普通の雲すらお目にかかっていない。きみも雨が恋しくなっているはずさ」  たしかにこの夏は日照りがつづいていた。雨が降ったときの息をつく感覚は、はるかかなたに忘れさられてしまっている。 「だからといって、雨ごいとはね。エアコン社会に生きている文明人の会話とは思えない。くだらない儀式の生贄になってはたまらないよ」 「まあまあ、こういう時代だからこそ古き良き文化を再現しようじゃないか」  エヌくんはそう言うと、机の上に本を広げた。ほこりとかびが混ざったような匂いが広がる。わたしはあからさまに苦い顔をした。それを無視して、エヌくんは話をつづける。 「この本に書かれている雨ごいはすごいぜ。読むところによると、あまりに威力が強かったため封印されたらしい。禁断の術というわけだ」 「だったら封印したままのほうがいいんじゃないか」  無関心のまなざしでエヌくんの本を見る。いかにも古代っぽい図形や人形がそこかしこに描かれていた。 「だいたいどこで手に入れたんだ。こんな怪しげな本」 「物置の奥から見つけたんだ。おおかた、おれの父親か祖父が買って置きっぱなしだったんだろう」 「出どころも不明というわけか」 「ミステリアスだろう。より雰囲気が出る」 「そうだな」  わたしは適当に返事をした。しかし、暑さでどうにかなったのか、エヌくんはこの段階に至っても大まじめだった。「これから儀式をはじめる」と仰々しく言い出し、大きな紙はないかとたずねてきた。  いきなり言われても、都合よく儀式の道具がそろっているわけではない。しかたなく、そこら辺にある紙をかき集めて貼り合わせ、それなりの大きさに仕上げた。机が儀式用の紙で占拠される。 「いったいなにをするんだ」  わたしが聞くと、エヌくんは本を片手に持ってえらそうに答えた。 「この紙に雨ごいのための魔法陣を描く。この本にそう書いてある」 「そうか。筆記用具の指定はあるのか」 「ふん、とくにないようだ。なんでもいいのだろう」  うそをつけと心のなかでつぶやく。わたしはこのめんどうな客をさっさと帰すため、すぐにペンを持ってきた。 「ほら、手早くすませてくれ」 「よしきた」  エヌくんはちょっと描いては本に目をとおし、ちょっと描いては本に目をとおしを繰りかえして図形を描きあげていく。わたしは飲みものを飲みながら、徐々に図形ができあがっていくのを眺めていた。エヌくんが熱心に作業する部屋へ、エアコンが涼しい風を送り出している。しばらくたったのち、雨ごいの魔法陣がすがたをあらわした。 「ついに完成した」 「それはおめでとう。これで雨が降るのか、やったな」  棒読みで感想を述べたわたしに、エヌくんは熱い口調で語りかけた。 「いや、まだだ」 「あっそうまだか。なにが必要なんだ。動物の死骸か、それとも人間を捧げるのか」 「いいや、ちがう。魔法陣を囲んで呪文を唱えなければならない」 「そうか。思う存分やってくれ」 「なにを言う。きみもやるんだ。さあ、立って」  エヌくんはわたしを椅子から引きはがし、強引に立たせた。そして、机を囲む位置に移動させると、満足気に笑った。単純に気味が悪い。 「おほん、では行こうか。おれのあとにつづいて復唱してくれたまえ」  エヌくんが何語かわからない奇妙なうなり声をあげる。悪夢にうなされているやつの寝言のようだ。ほら、はやくと目線で催促されたので、しかたなく同じような音を繰りかえす。こんなことをしているなんて、やはりわたしもこの暑さでどうにかしていたのかもしれない。珍妙な合唱は数分におよんだ。それがすむと、やりきったとばかりにエヌくんは本を閉じた。全力を出した雰囲気で額をぬぐうが、空調が効いているおかげで汗ひとつかいていない。 「これで雨が降るぞ」 「本当か、よかったな。暑さもすこしましになるだろう。さあ、終わったらさっさと帰るのがいい。疲れただろう」  わたしはこの暑いのにまったくくだらないことをやりに来たエヌくんを追いかえした。彼はこの儀式を執り行うのが目的だったのか、案外すんなりと帰宅してくれた。ひとりになったわたしが部屋に戻る。机の上に、置きっぱなしの魔法陣が鎮座していた。完成してからいまに至るまで、うんともすんとも言わない。ただ行儀よく黙っている。  来客がいなくなり、ようやく日が傾いてきた。空がオレンジ色に染まりはじめる。それでも空気中の熱量は変わらない。夜が来ても、きっとこの暑さは残りつづけるだろう。明日の朝も、つぎの日も、うんざりするほど夏にちがいない。
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