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雨はもう二週間も降り続いている。
もちろん、日本では梅雨の時期などに雨の日が続くことも珍しくない。
しかし、同時に世界中で、ほんのひと時も止むことなく降り続けて二週間となると、完全に異常気象である。
幼稚園の迎えの帰り、私は四歳の娘と手を繋いで歩いていた。
レインコートに長靴姿の娘は、時々ふざけて水たまりに足をバチャバチャ突っ込んでいる。
「どうぶつえん、いきたいねぇ」
雨が降り出す前の休みの日に、家族で動物園に行ったのだ。それがよほど楽しかったらしく、娘はことあるごとに動物園の話をする。
「ぱんだ、かわいかったね。うさぎさんにもさわったね」
「そうね、でもパンダはいなかったから、レッサーパンダかな? 茶色くて、しっぽがふさふさのやつでしょ?」
「しろくまもいたね。あしたまたいこうよ」
「ママも行きたいけどね。雨だと遊具広場で遊んだり外でお弁当食べたりできないでしょ。今度晴れたら行こうね」
後ろから車が来たので、私と娘は水を飛ばされないように道の脇に寄った。
その時、背後でギコギコと音がした。
私が振り返ると、古びた住宅の車庫の中で野田さんがのこぎりを構えて木材を切っていた。
「こんにちは」
「こんにちわー」
私と娘が挨拶をすると、野田さんは手を止めて振り向いて「ああ」と軽く頭を下げた。
「毎日よく降りますね」
「ああ、そうやな。当分止まんな」
野田さんはそう答えてまたノコギリを動かし始めた。
「なにつくってるの?」
娘が聞くと、野田さんはちょっと黙ってから答えた。
「まだ、ないしょや」
野田さんは、うちの斜め向かいの家に住む、一人暮らしのおじさんだ。
日に焼けた皺の深い顔をして、いつもキャップとジャンパー姿で庭いじりをしたり車庫や庭先で日曜大工のようなことをしている。
年齢は六十代半ばぐらいではないかと思うが、もしかしたらもっと若いかもしれないし、もっと年寄りなのかもしれない。
なぜだか何でも知っている近所のおばさんたちの噂によると、野田さんは数年前、大阪のどこかからこっちに越して来たのだそうだ。
どういう経緯で一人で大阪から遠く離れたこの街に引っ越して来たのかは知らない。
しかし、うちも数年前に家を建てて越して来たので、なんとなく新参者同士という親近感があり、こうして顔を見かけた時には挨拶をするようにしている。
野田さんは寡黙なおじさんで、いつもああ、とかうん、しか言わないが、偏屈そうなわりにはけっこう子供好きらしく、娘が挨拶するとちょっと笑って手を振ってくれたりする。
「じゃあ、どうも」
私は軽く頭を下げると家の方に向かった。
「さようなら」
娘が手を振ると、野田さんは顔を上げてニッと笑った。
それから数日後のことだ。
まだ雨は止むことなく、毎日降り続いていた。
いつも雑草とゴミしか見えず、水なんてほとんどないような近所のドブ川でさえ、近づくと怖いぐらいにどうどう、と太く流れるようになった。
道は全体が水たまりのようになって、もう長靴を履いていないと歩けない。
いい加減に止んでくれないかな、布団も干したいし、などと思いながら買い物のため家の外に出ると、野田さんが雨合羽を着て庭にいるのが見えた。
通りすがりになんとなしに見ると、どうやらこのあいだ作っていたものの続きらしく、木でできた大きなものがもう車庫には入りきらず、庭で作業をしているようだった。
「こんにちは」
私が挨拶すると、野田さんはおう、と言いながら振り返った。
「こんな雨の中大変ですね」
言いながら庭を覗きこむと、野田さんが作っているものの全体が見えた。
「船、ですか?」
私がびっくりして聞くと、野田さんはああ、と頷いた。
野田さんが作っているものは、木製のボートのようだった。
ボートといってもかなり大きく、人が十人以上はゆっくり乗れそうな立派なものだ。
「まだ作りかけやけどな」
野田さんはかがめていた腰を伸ばしながら言った。
「これは方舟や」
「はこぶね……あの、ノアの方舟とか、そういう?」
「そや」
ぽかんとしている私を尻目に、野田さんはさっさと何か道具を取りに車庫の方へ向かった。
何週間も止まない雨。その雨の中、ノアの方舟でも作っているというのか。
方舟に乗ってこの大雨から逃れるつもりなのだろうか。
野田さんの表情や口調は本気とも冗談ともつかなかった。
スーパーへ向かう道々、「ノダの方舟」という駄洒落を思いついて私は少し笑った。
それからまた数週間経った。
まだまだ雨は止まない。ほんのひと時も途切れることなく降り続く雨に、世界中で被害が出始めていた。
外国では水没してしまった町や村もあり、洪水で多数の死者が出たところもある。
日本はまだそこまでではないが、毎日ニュースは雨による被害の話題ばかりになっていた。
東京の墨田区や江戸川区といったあたりには避難勧告が出ているし、他の県でも特に海抜の低い地域の住民はもうほとんど避難している。昨日は岐阜県かどこかの川に挟まれた地域で大規模な水害が起き、数名の死者も出たそうだ。
どういう手を使ったものか、芸能人やIT長者などのいわゆるセレブと言われる人たちの中には、信州などの山岳地帯に引っ越した人もたくさんいるという。農作物の被害は計り知れず、経済全体にも大きな影響が出そうだということだ。
私の住む街は比較的標高の高いところにあるのでまだ平和である。だが、それでもこのまま雨が止まなかったら、もうすぐにいろいろな被害が出るだろうことは目に見えていた。
そんな不安な毎日の中、野田さんの船だけは日に日に立派になっていった。
野田さんは毎日雨合羽姿で木を組み立てたり塗料を塗ったりと忙しく作業していた。
もはや船はただのボートではなく、船の上にキャンプで使う家族用テントぐらいの大きさの小屋のような船室までできていた。
この形状であれば、確かに聖書の物語に出てきそうな「方舟」と言えなくもなかった。
今では「野田さんが庭で船を作っている」というのがご近所中の噂になり、庭であんなの作ってどうするつもりだとか、この異常気象で野田さんは頭がおかしくなったんじゃないのか、とかヒソヒソと囁かれるようになっていた。
「あの船、すごいよねー」
遅くに帰って来た夫がダイニングの椅子に腰掛けながら言った。
「野田さんって、船大工かなんかなのかなあ」
「あれ、方舟なんですって」
私は温め直したカレーを盛ってテーブルに置いた。
「方舟?」
「そう。方舟」
「へー。方舟かあ。すごいね」
のほほんとした顔で夫はいただきます、とカレーを食べ始めた。
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