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さらに何日か後のことだ。
また幼稚園の帰り道、雨の中、庭にいる野田さんを見た。
今や見上げるほど立派になった方舟の前に、野田さんはじっと立っていた。雨がざあざあ降る中、傘もささず野田さんは静かな表情で方舟を見ていた。
「こんにちは」
「こんにちわー」
私と娘が声をかけると、野田さんはゆっくり振り向いた。
「方舟、できたんですか」
「ああ」
私は改めて野田さんの方舟を見た。
しっかりとした作りの船で、船室には板葺きの屋根がついている。これなら何人かが乗り込んでもゆったり過ごせそうだった。
方舟、というからには野田さんはいざという時はこの船に乗り込んで生き延びようとしているのだろう、と私は思った。
私は大海原を行く野田さんの方舟を想像した。止まない雨の中、方舟に乗って、希望を求めて、どこまでも。
それは素敵な情景だった。
「乗せてください」
思わずそう口走っていた。
野田さんはえ、と驚き、いやあ、と困った顔をして頭をかいた。
「あんたもその子も、乗せてやりたいけどなあ。この方舟は人間は乗せへんのや」
「えっ。でも、野田さんはお乗りになるんですよね」
私が聞くと、野田さんは目をしばたかせてうんうんと頷いた。
「そらまあ、わしは乗るで。船を操縦したり動物に餌を配ったりする者も必要やしな」
それから、真面目な顔で続けた。
「そやけど、それは生き延びたいということとは違うんや。そやから、わしの他に人間は乗せへんのや」
「……そうですか」
がっかりして私が言うと、野田さんは急にニヤッと笑った。
「それに、あんたみたいなべっぴんさんを乗せたら、わしもうっかり元気が出て子孫繁栄してしまうかもしれんからな」
いつも寡黙な野田さんのいきなりのセクハラ発言にびっくりして、何と答えたものかと私がどぎまぎしていると、野田さんはまた真面目な顔に戻った。
「乗りたいやろうけど、すまんなあ」
深々と頭を下げる野田さんに、私はあわてて首を振った。
「いえ、いいんです、いいんです」
いいんです、と繰り返しながら私は娘の手を引いてその場を離れた。
「のださん、ふねでどこいくの?」
娘は不思議そうに首を傾げた。
その日の深夜、私はふと目を覚ました。
まだ二時半だというのに、寝室の遮光カーテンの隙間がいやに明るかった。
私は起き上がると、カーテンを閉め直そうと窓に近づいた。
「あっ」
道を見下ろし、私は思わず声をあげた。
目の前の道を、ライオンが歩いていた。
あいかわらず雨はざあざあと降り続いていたが、空は明るく美しい紫色に光っていた。その神秘的な光の中、オスとメスのライオンが悠々と歩き、野田さんの方舟の船室の中へと入っていった。
ライオンの後にはトラが、ハイエナが、チーターやユキヒョウが、それぞれつがいらしく、二頭ずつ次々続いた。
ゴリラが歩き、キツネが小走りに通り過ぎた。大きなリクガメがゆっくりと歩き、その横をウサギやモルモットがちょこちょこと追い抜いた。大人の男性の腕ぐらい太い蛇も、二匹で絡まるようにしながらするすると通った。
どこにそんなスペースがあるのか不思議だったが、動物たちはみんな次々と船室に入って行った。
私は窓を開け、雨に濡れるのもかまわず身を乗り出して動物たちを見た。
「ママ~」
娘が目を覚まし、眠そうにグズグズ言いながら私のところに来た。
私が外を見ているのに気づくと娘も窓の外に目をやり、ハッと目と口を開いた。
「ぞうさんだ!」
窓の外には今しも巨大な象が二頭、ゆっくりと通り過ぎるところだった。
象は娘の声に、こちらを見て鼻を持ち上げた。鼻先が二階にいる私たちのすぐ下まで来たので娘がわあ、と声をあげた。
それから、象はゆったりとした足取りで方舟に足をかけて乗り込むと、魔法のように次々と船室に吸い込まれて行った。
「すごいね!」
「……なんだぁ?」
娘の声で夫も目を覚まし、あくびをしながらサイドテーブルのメガネをかけてこちらにやって来た。
「パパ、ぞうさんだよ! キリンさんもいるよ!」
パイナップルのような盛大な寝ぐせ頭の夫は、動物たちを見ておっ、と驚いた。
「へえ、こりゃすごいな」
輝く雨空の下、動物たちは次から次へとやって来ては野田さんの方舟に乗り込んだ。
私は夢中で身を乗り出したまま見続けた。横で娘と夫が、まるで動物園にでも来たかのような呑気な会話をしているのがおかしかった。
「おさるさんだ!」
「そうだね。あれはニホンザル。尻尾がシマシマのがキツネザルだ。チンパンジーもいるね」
「あれは?」
「あれはカピバラ。……いや、ヌートリアかな?」
動物の列は2時間ほども続いただろうか。
初めは興奮していた娘も、途中から夫に抱かれてうとうとし始め、今はベッドで寝息を立てている。
夫も眠そうに大きなあくびをした。
「僕ももう一度寝るよ」
夫がベッドに戻り、しばらくするとグーグーと小さないびきが聞こえ始めた。
私は眠る気になれなくて、窓枠に頬杖をついてずっと動物を眺めていた。
だんだん朝になり、雨は相変わらず降り続いていたが、紫に輝く空は次第にピンクに、オレンジにと染まっていった。
最後に来たのはおとなしそうな羊のつがいで、小股でトコトコ歩いて船室に消えて行った。
そうして動物たちの行列は終わった。
ノアの方舟伝説のように、地球上の全ての生き物が入ったとはとても思えなかった。だが二、三百種類はいただろう。
動物たちが入り終わったのを見計らったように、野田さんが船上に現れた。
「野田さん」
私が声をかけると、野田さんはこちらに気づいて見上げた。
そしていつものキャップを持ち上げると軽く頭を下げ、船室に入って行った。
ドアがパタンと閉まった。
「さようなら。お元気で」
聞こえないとわかっていたけど、私はお別れを言って窓を閉めた。
その瞬間、雨はごおおっと信じられないぐらいに勢いを強めた。あたり一面が大きな激しい滝のようだった。
みるみるうちに地面は水に覆われ、ぐんぐんと水面が上昇し始めた。
そんな大雨なのに、やっぱり空は紫やピンク、オレンジの派手な色に輝いていて、その光が雨や乱れた水面に反射して、眩しさに目を細めずにはいられないぐらいだった。
野田さんの方舟はゆらり、と揺れてゆっくりと浮かび上がった。
今や家々の一階部分はすっかり水没し、水面は私のいる二階の窓のすぐ下まで来ていた。
雨はますます強まり、決して止まないだろう。
すぐに私たちは沈むだろう。ビルや高台に避難している人も、山岳地帯の人も、すぐにみんな沈んでしまうだろう。全てはこのまま雨に沈むのだろう。
それでも、不思議と怖くはなかった。
私は静かな気持ちで野田さんの方舟を見送った。
色とりどりに輝く空の下、激しい雨と水しぶきで、あたりは一面絵の具の綺麗な色をぶちまけたような派手な靄に包まれていた。
その中を、方舟は輝きながらゆっくりと遠ざかって行った。
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