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「すみません。あまりにも上手だったので……」
これは本心だったが、先輩がピアノと踊る姿に心を掴まれたことは内緒だ。
「あ、ありがとう……」
ちらと、下から上に僕を見た。
学年を確認したのだろう。僕が身に付けている体育館シューズのラインは緑。
後輩だとわかっての対応のはずだ。
「いつも、ここで練習をしてるんですか?」
「今だけ。文化祭の伴奏の練習で……今のはちょっと、気分転換」
先輩は胸の前に添えていた両手を降ろし、丁寧に膝の上に揃える。
この先輩を見たのは初めてだった。控えめな、しっとりとしたこんな淑女のような人がいただろうか。
気分転換にしては美しかった旋律に、僕は思わずリクエストする。
「僕のせいで、たぶん途中だったと思うんですけど、その曲最後まで弾いてくれませんか?」
野球バカで、クラシックなんてからっきしだというのに、雨の日にぴったりな、本当に雨が降っているかと錯覚する程の音を聴いたのは初めてだった。
「そ、それは恥ずかしい、な」
さっきまで柔らかく動いていた指が、先輩の顔を控えめに覆う。
その仕草もまた、さっきまでの演奏の一部に見えるほど繊細だった。
「どうしても、だめですか?」
別に無理強いをするわけではなかったが、先輩は一向に弾く様子を見せてはくれない。
一歩近づき、頭を下げる。
「クラシックに興味もったの初めてなんです」
ちらと見た先輩は制服の裾を弄りながら、「じゃ、じゃあ文化祭までにまた雨が降ったら……」と、どうにか僕の頼みを受け入れてくれた。
その先輩の言うとおり、3週間後には文化祭が迫っていた。
その間に雨さえ降れば、先輩との時間を手に入れられる。
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