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雨天順延
三日目の朝になっても、雨はまだ降り続いていた。
寝乱れた毛布から這い出した男は、窓辺に行って空を見上げた。見るまでもなく、途切れることのない雨音が男の耳に届いていた。見上げた空は鉛色で、当分雨は上がりそうになかった。
狭いキッチンを通って、突き当たりのみすぼらしいシャワールームに、男は入った。寝室の他はキッチンしかない、狭いアパルトマンだった。水のまま浴びて、口をすすいだ。タオルは毛羽だっていた。
キッチンに戻って、コーヒーを淹れた。キッチンには小さな窓が一つしかない。男はそこから身を乗り出して、石畳に覆われた中庭を見下ろした。
雨水は、石畳の上を流れて、薄い皮膜を作っていた。同心円を描く、無数の波紋が見えるのはそのせいだった。次々と産まれる波紋は束の間の命を、お互いを打ち消し合うことに費やしていた。
コーヒーが冷めてしまったことに、男は気づいた。
冷めてしまった分を流しに捨てた男は二杯目を淹れて、食卓のはずの、大きな木のテーブルに向かった。
ただでさえ狭いキッチンには大きすぎるテーブルだった。なのに天板に空き地はほとんどなかった。男の生活が山になって積まれていた。読みさしの本と詩集と辞書があった。EPレコードが一枚だけあって、開いたままのノートを金槌が押さえていた。針金の束とペンチ、積み重ねられたカフェオレボウル。付箋の貼られた地球儀と鳴らない目覚まし時計。絵はがきと写真の束……。
空腹を、男は感じた。買いに出るのはおっくうだった。引き出しを開け、棚を漁った。
古くなったパンとチーズの塊しか見つからなかった。どちらも拳ほどの大きさで、テーブルに向けて放ると、どちらも拳ほどの大きさの、石くれのような音を立てた。
ため息を男は漏らした。首に巻いたタオルでまだ水気の残る髪をこすった。そのとき「処刑延期」の見出しが目に入った。三日前の新聞だった。
笑顔で、「晴天の下、大観衆がテロリストを罵倒しなければならない」と語る大統領と、逮捕されたときの女の写真が並んでいた。
半ば無意識で、男は新聞を押しのけた。バカげた振る舞いだった。反対側の縁から何かがこぼれた。
男は天板の下をのぞき込んだ。
それは細長くて薄い箱だった。紫色の蓋がとんで、赤いヴェルヴェットが見えていた。ヴェルヴェットのくぼみに収まっていた勲章はこぼれ落ちて、だらしなく床に延びていた。
「勇敢なる市井の英雄」男の胸に勲章をぶら下げながら、市長はそう言った。
「暗殺者から大統領を救った」
「違います」その間、男は反論することだけを考えていた。
「俺は、薄汚い密告者で、愚かな裏切り者でした」
もちろん、男は何も言わなかった。
箱ごと勲章を男は拾い上げた。適当な引き出しに放り込んだ。これで何かの弾みで引き出しを開けない限り、勲章のことなど忘れていられる。
感激していた、故郷の両親に押しつけてしまおうとしたことを男は思い出した。
父親は乗り気だったが、老いた母親が許さなかった。
「これはおまえが大事に持っていなさい」。
そう言った母親の言葉に、あまりに真情がこもっていたので、男は笑い出してしまった。母親は困惑し、何を笑うのかと男に尋ねた。それは男にも解らないことだった。
引き出しを閉めて、テーブルの前に戻った男はチーズをつまみ上げた。
そのとき、誰かがドアを叩いた。
無視しようと、男は試みた。けれど叩くリズムは力強く、音はやみそうになかった。
観念して、男はドアを開いた。
ひげ面の大男がそこに立っていた。彼は男の遠い遠い親戚で、あまりにも関係が入り組んでいるので、他人に説明するときはお互いに従兄弟で通していた。年齢は三つしか違わなかったが、体重も人生経験も男の三倍はあった。従兄は顎髭をしごいて、にやりと笑った。
「不景気なツラだな」
「何か、用か?」
「まあ、いろいろだな」
ずかずかと部屋に上がりこむと、従兄は男に籐で編んだバスケットを差し出した。「うん」
「何?」
「女房から預かりもんだ。ろくなもの食ってないんだろう」
男はバスケットを開けて、ハムやチーズや、野菜を挟んだライ麦パンのサンドイッチを見た。
「――ああ、ありがとう」
「ふん」
うなりながら従兄はコートのポケットから引き出したワインを開けた。テーブルの上を見回し、男が飲み終えたままにしてあったコーヒーのカップを見つけると、縁まで注いだ。自分は一口ラッパにし、サンドイッチ一つ、バスケットから取り出すと、壁にもたれてかじりついた。
男はため息を吐き、取り出したサンドイッチをかじった。
「すまん」
「何がだ?」
従兄は辺りを見回した。「相変わらず汚い部屋だ。少しくらい整理しろ」
「あんたには言われたくない」
「ふふん」従兄の視線が新聞の見出しで留まった。「くそ大統領めが」
「……」
「雨で広場がいっぱいにならないから、処刑は延期だなんてな。いくらなんでも、それはないだろう」
それからしばらくの間、二人は口をきかなかった。
「奥さんに礼を言っておいてくれ。おいしかったって」
最後にワインを飲み終えてから、男は言った。
「自分で言え」壁にもたれたまま、従兄は答えた。「そのうちでいいから、俺ン家に顔を出せ」
「分かった」雨がやんだら、と言いかけて、男は言葉を呑んだ。「――そのうち」
「じゃあ。俺は帰る」
のっそりと従兄は立ち上がり、ふと窓をのぞき込んだ。「いやな雨だ」
「でも――」男は口にしていた。
「雨の降っている間は、あのコは、まだ生きてる」
虚を突かれたように、従兄は男の顔を見つめた。
「そうか」しばらくして彼は言った。「ずっと新聞も読んでないんだな」
従兄の顔を、今度は男が無言で見つめた。
「昨日の朝方には雨は上がったんだ――」男は顔を背けた。「あっちの方じゃあ……」
もう一声うなると、男の肩を一つ叩いて、従兄は出て行った。
しばらくして男は立ち上がった。窓辺に行った。けれど空は見なかった。ただ石畳が目に入った。石畳と雨の波紋が。
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