茹だる妄想の存在証明

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茹だる妄想の存在証明

 入道雲が青空に湧き立ち、鳴き止まぬ蝉の声が耳にこびりつく。扇風機のぬるい風を背中に受けて、僕は茶の間で夏休みの課題と格闘していた。しかしながら、もわりと身体を包み込む暑さにくわえ、暗記やら計算問題やらで、頭は茹だったようにぼんやりしている。これ以上問題文とにらめっこしたところで、何も進展は無いだろう。一時休戦。僕は開いた問題集の上に突っ伏した。一瞬だけ紙のひんやりとした冷たさを感じたものの、それはすぐに自分の頬の熱で潰されてしまった。  問題集の図が目に入る。化学の実験を簡略化した図だ。なんでも、金属の板に電流を流すと、水に溶け出した目に見えない金属が固体として現れるのだという。なんだそりゃ。そんなの本当に存在しているんだろうか。水に溶けてる金属なんて想像もつかない。でもたしかに、固体になって、目に見えて触れられるようになれば、存在してると確信できるはずだ。言うなれば、これはある種の存在証明なのかもしれない。  存在証明。僕はその言葉を反芻しながら、麦茶のコップにいつのまにか付いていた沢山の水滴が、一ヵ所だけ、一つ、大きな滴となって流れ落ちるのを眺めた。では人間ならどうだろう。当然、人間に電流が流れたら死ぬ。もう少し抽象的に解釈してみようか。電流が走ったような感覚が全身を駆け巡り、自分の存在が証明できる。そんな瞬間は、これまでにあっただろうか。電流。自分を自分たらしめる衝撃。好きなバンドの新曲のサビを聞いた時に(はじ)けた恍惚。毛虫を踏んづけた時のぐにゃりとした感触に背筋を駆け巡る不快感。友達が間違えて先生を「お母さん」と呼んだ時の可笑(おか)しさ。好きな人が先輩と親しげに言葉を交わすのを目にした時の胸の締め付け。独りぼっちで真っ赤な夕焼けを見た時にゆっくりと全身に広がっていった充足感。ありきたりかもしれないけど、どの瞬間も、衝撃も、この「自分」という存在を、自意識の中に浮き彫りにしてきた。  そんな瞬間はこの先どれほど訪れるのだろうか。あるいは、時を経るにつれてこれらの衝撃も薄れていくのだろうか。今の自分にはわからない。人は存在証明の体感を繰り返すことで、そのたびに自我を、自分自身に刻み付けていく。人生とはそういうあてのない旅なのかもしれない、なんて、大層なことを考えてしまった。そんなに壮大なものなんだろうか。実感がわかない。遠くの青空を漂う羊みたいな雲よりおぼろげな思考に、我ながら苦笑した。まずは宿題を終わらせなければ。じりじりと身を焼く焦りを引きずりながら、僕は頭を上げた。そして、夏休み明け初日というちっぽけな里程標(りていひょう)目指して、開き癖の付いた問題集を睨みつけたのだった。
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