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小さい頃、実家の裏の山の中に小さな池があった。
祖父が若い頃、貯水用に山を切り崩し、川から水を引いて作ったらしい。田植えの時期になると、付近の集落が順番に、池から農業用水として田んぼまで水を引いていたらしい。
しかし、そのうち水道が整備され、山水が水道管を通して田んぼへ供給されるようになり、祖父の作った池から水を引くことはなくなった。
私が物心着いた頃には、池の周りには竹で作った柵が設置され、柵を乗り越えて中には入らないよう、看板も設置されていた。
私は記憶にないのだが、私が幼い頃にその池に落ちたことがあり、これまた祖父がその柵と看板を作ったらしい。
また、池のすぐ横には小さな祠が設置されていて、池から水を引いていた頃に、農作業で事故が起きることのないよう、毎年お供えをしていたらしいが、これも今では誰も近寄ることもなく、私が中学生の頃には肝試しのチェックポイントとして使っていた。
私は自分の田舎があんまり好きではなかった。代々農業の家系で、1年を通して両親は休むことなく働き、私が高校生になる頃には、同じ集落の人たちも、離れた市街地へ引っ越す人が増えていくなか、いつまでもこの場所に留まっていることも嫌だった。
そのため、私は高校を卒業すると大学進学のため上京し、そのまま都会で就職し、やがて結婚し子どもが生まれ、自分の家を建て、暮らしている。
仕事が生き甲斐と思えるほど、仕事に熱心なわけでもなく、家族を養うために働き、幸せかと言われれば幸せな日常のなか、満員電車や生活のスピード、日々のストレスから殺伐とした空気を世の中に感じ、ぼんやりとこの先の将来がこのままでいいのか、自問自答する日々が続いていた。
仕事や家庭の事情を理由に、もう久しく実家に帰ることもなくなっていたある日、久しぶりに父親から連絡があった。
父は、農業を引退し、今の家も引き払い、夫婦二人で市街地の公営住宅にでも住もうと思うんだと、力なく話した。
こんなに弱気な父の声を初めて聞いたことや、ずっと出ていきたかったとはいえ、自分の生まれた家がなくなるということには寂しさを感じ、息子の夏休みの思い出作りも兼ねて、私は久し振りに古里に帰省することにした。
息子が生まれてすぐに帰省した以来なので、およそ8年ぶりの帰省だった。
8年ぶりに見る実家は、至る所に修繕の跡があり、きれいに整えられていた庭の草木もほとんどが枯れてしまっており、雑草が生い茂っていた。その光景にも寂しさを感じはしたが、何より心をえぐられたのは両親の年老いた姿だった。
これが世間でよく耳にする、「小さくなった両親の姿」かと、しばし絶句してしまった。荷物を運び込むや否や、何だか悼まれなくなり、仕事のため家に残った妻に連絡をし、捲し立てるようにその事を話した。
「みんなそうだからね。」
私が話し終えると、感情が解りにくい抑揚で妻は言った。妻の両親は我が家の近所に住んでおり、都会で暮らす元気な老人の典型のような、仕事を引退したあとも、多趣味で社交的に暮らしている方々なので、仕事一筋で特に趣味もなく、ただ老け込んでいく私の両親のようになる姿は想像しにくかったが、一言「そうだな」と答えた。
そんな私の気持ちなどお構いなしに、息子は田舎の生活が終始楽しいようだった。
生まれたとき以来の田舎なので、実質初めて来たようなものであり、普段の都会暮らしでは見ることとの出来ない風景や、生きものの姿、満点の星空など、一つ一つに感動している。
私の幼い頃はこれが当たり前だったし、今よりもさらに原風景だった。
確かに小さい頃は近所で遊ぶのも楽しかったし、初めて上京した頃は、星の見えない黒い空が不気味で、地元に帰りたいと思ったこともあったが、それでもこの何もない古里で、一生農業しながら暮らしていくことだけは耐えられなかった。
とはいえ、やはり私も大人になり、久し振りに帰省すると懐かしく感じることも多く、父や母が孫と楽しそうに遊んでいる姿も、とても微笑ましく思えた。
母が息子に縁側で庭の植物の名前を教えているのを父と並んで眺めていると、父が思い出したように言った。
「お前があのくらいの年の頃にため池に落ちてな。えらい騒ぎになったんだ。」
「知ってるよ。覚えてないけど。だから池に柵が出来たんでしょ。」
「そうだ。おじいちゃんが見つけてな。けどずぶ濡れだったのに、池の祠の側に横たわってたんだと。」
それは知らなかった。
「きっと自分でなんとか出てきたんだろうね。」
「そんなとこだろうな。けどだいぶおじいちゃんも色んな人に責められてな。それでおじいちゃんが柵を作ってくれてんだ。」
「そうだったのか‥この家を引き払ったら、あの池はどうなるの。」
「あのままにはしとれんから‥埋めるかもな」
「‥そっか‥」
ふと、埋め立てられる前に一度池まで行ってみるか、そう思いたち、息子に声をかけた。
「おーい、明日は近くの池を見に行こう!」
「うん!」
息子はどこに行くのかもよく分からないだろうに、とにかく楽しそうに笑っていた。
次の日、家の前の道を登り山の中へ入り、池を目指した。
蒸し暑い上に、登りの山道は、都会でろくな運動もしていないなまった体には堪えたが、息子は目をキラキラさせて付いて来ている。
もう汗だくになっているが、山道を登ること自体が楽しくて仕方がないらしい。
しばらく山道を登り、設置された看板に沿って獣道のような、やがて池が見えてくる。もう少し道が雑草で遮られているのではないかと思っていたが、道は綺麗に草が刈られており、池に着くと嘘のように眺めが良かった。
しばらく手入れもしていないので、池の周りは草が伸びていてこの時期は危ないと、昨日父は言っていたが、どうやら朝早く起きて池の周辺の草刈りをしてくれたらしい。少し離れた山の中に刈られた草が大量に置かれていた。
年寄りに朝から重労働させたなと、少し申し訳ない気持ちになったが、お陰で、池の周りは私が小さい頃と変わらない風景だった。
何より驚いたのは池の水がとても澄んでいることだった。水面がキラキラと輝いて、とても優しい感じがした。
息子は初めて見る大きな池に、最初は少し怯えた様子だったが、池の中に魚がいるよと教えてあげると、もっと近くで見たいと言い始めた。
柵を越えると池のすぐ側まで行けるが、池に向かって下りの斜面になっており、夏の時期にはぬかるんでいることもあり、マムシがいないとも限らない。
息子に危険だからと、我慢するよう言ってはみるが、聞くわけもなく、駄々をこね始めた。
仕方なく息子を抱き上げて柵を乗り越え、慎重に斜面を進み、池のすぐ側までたどり着いた。
何だろう、この不思議な感覚は。
懐かしさと、こんなにも水面が綺麗でキラキラとしていること、その事が、今の今まで私の記憶から抜け落ちていた、そんな気がして頭がぼんやりし始めた。
するとその時、
「また会えたな」
そんな声が聞こえた気がした次の瞬間、
私は一瞬息子を抱き抱えている力を緩めてしまった。
息子は吸い込まれるように池に転落し、その水しぶきを浴びた途端、目の前が真っ暗になった。
どのくらい時間が経ったか。
目が覚めるとどこか薄暗い場所にいた。体を起こすと頭をぶつけた。
そしてパラパラと何かが落ちてきた。
どうやら土のようだ。
土壁で出来たほら穴のような場所で眠っていたようだ。
何で眠ってたんだろう?確か池に息子と来て‥!息子はどこへ行った?!
体を反転させ、ぼんやりと明かりが感じられる方向へ這い進んで行くと、眩しさに目が眩んだ。
ほら穴から出た私の目に飛び込んできたのは、私の体よりも大きな植物やキノコ、そして‥巨大なドングリだ。
家ほどの大きさのドングリがそびえ立ち、1ヶ所がくり貫かれている。恐る恐るドングリへ近づいていくと、ドングリの中から話し声が聞こえた。
あれは‥息子の声だ!私は急いでドングリへ駆け寄り、くり貫かれている穴から、ドングリの中に駆け込んだ。
「あ、パパ!」
中に入るとすぐに息子の姿があった。
息子は私の姿を確認すると駆け寄ってきた。
「大丈夫か?!怪我はないか?!」
息子はニコニコしている。
「全然大丈夫!パパが起きないからみんなと遊んでた。」
そう言われて息子の後ろを見てやっと気が付いた。 そこには、息子と同じくらいの大きさの大人、のように見える生きものが何人かいた。
見た目は、いわゆる想像上のコビトに思えるが、誰も服は着ていない。
人間よりも胴体が大きく、髭が多く長いのが1人。おそらく男性だろう。その隣には女性と思われる同じくらいのコビトが1人と、さらに、2人より少し小さめの同じような生きものが3体見えた。
コビトのような生き物が目の前に現れたことにも驚いたが、何より私が驚いたのは、私が彼らを見るのが、
「初めてではなかった」
と思ったことだった。
「久しぶりだな!」
コビトの中で髭を生やした1人が言った。
その瞬間、一気に記憶が甦った。
「私はあなたと会ったことが!」
コビトは笑顔で頷くと右手を差し出してきた。
私はその手を握り返した。
「マールでいいぞ!久しぶりだな。お前はもっと‥今のこの子くらい小さかったけどな。」
マールは私の息子を指差して言った。
「そうだ、あのときもここに来た‥来ました」
私は息子の体に怪我などがないか確認しながら、息子に話しかけた。
「パパはね、今のお前くらいの時にここに来たことがあるんだ。今思い出したよ!いやぁ何で忘れてたんだろう。」
一瞬マールが寂しそうな顔になった気がした。
「親子でここへ来るなんてな!まあお腹空いたろう!とりあえずご飯でも食べるべ!」
そう言えば山道を歩いてきたせいか、お腹が空いている気がした。少し落ち着いて見回してみると、気が付かなかったが、ドングリの中は思ったより広く快適だった。
木の茎や小石などで作った家具があり、案内された木の新芽で出来たフカフカの椅子に座ると、マールの奥さんのシーヨがご飯を運んできてくれた。
「ドングリの実とキノコのソテーよ。」
とても美味しそうな匂いのする料理が運ばれ、私と息子は目を見合わせた。
「いただきます!」
マールとシーヨには3人の子どもがいた。私が目覚める前に、息子とコビトの子どもたちはすっかり仲良くなったようで、食事が終わると4人で外へ遊びに出掛けてしまった。
「怪我しないようになー!」
コビトの子どもたちにも、私は以前に会っていた。 しかし私が大人になったからか、息子と遊ぶのに夢中で私のことは覚えていないようだった。
料理はとても美味しかった。
私は前にも食べたことがあると思った。
「あのときもこのメニューわ食べたべ!覚えてるか?お前さんが美味そうに食べてたのをシーヨが覚えてたからな!」
「確かに食べました。全部思い出しました。いやあ、何で忘れてたんでしよう?」
マールとシーヨはニッコリ微笑んだ。
食後一息ついてから私たちは、彼らの住むこの一帯を色々と案内してもらった。
マールが言うには、この場所は「池の底の中」にあり、マールとシーヨ以外に200人くらいのコビトが住んでおり、彼らの言うところの「空の池の水」から、水を引いて作物を栽培して暮らしているとのことだった。
広場のような場所にやって来ると、息子が他のコビトの子どもたち大勢に混じって、走り回って遊んでいる。
「子どもは馴染むのが早いですね。」
「お前も前はそうだったよ!」
マールはまた笑って言った。
それにしても。
何でこの場所のことをすっかり忘れていたんだろう。
さらに、この場所のことを思い出した途端、小さい頃の忘れていた記憶が次々と甦ってきていた。
おじいちゃんが作った池を友達に自慢にしてたこと。
おじいちゃんやお父さんと早く一緒に農作業したかったこと。
まだお前には手伝いは早いと言われて、役に立つことを証明したくて、池の水を引くために開ける水門を、父が開けるより先に開けようとして池に落ちたこと。
思い出が甦ると、自分の生まれたこの古里が、自分にとっては掛け替えのない場所であり、嫌で仕方なかった場所だったのが、それ以上に愛着のある場所だったんだと急に理解できた。
「この池を無くしてはいけない!」
マールたちコビトの住むこの池を埋め立てる訳にはいかない。
幼い頃の思い出が詰まった我が家や、この池がなくなることを見過ごせない。
そう思うといてもたってもいられなくなった。
早く家に戻って父と話さないと。
それに、一体どのくらい時間がたっているのかもわからなかった。携帯電話はとっくにバッテリーが切れていた。よし、とにかく元の世界に戻ろう。
「マール、そろそろ失礼しようと思います。本当に親切にしてもらって、ありがとうございます。」
「いやいや、‥‥そうか‥帰るか。」
私も正直寂しいと思ったが、マールとシーヨは本当に寂しそうだった。
マールとシーヨだけでなく、他のコビトたちも、私と息子をこの世界の出口まで案内してくれた。そこは私が寝ていたほら穴だった。
「このほら穴を進めばいいんですね。」
「ああ。真っ暗だがそのうち光が見えてくる。そうなったらもうすぐだ。」
息子はコビトの子どもたちと離れるのが嫌で、帰ると言ってからずっと泣いていた。
コビトの子どもたちとよっぽど仲良くなったようで、コビトの子どもたちみんな泣いてくれていた。
私が最後の挨拶をすると、マールやシーヨも泣き出した。気付いたら私も泣いていた。何でこんなに悲しいんだろうか、自分でも分からなかったが、子どもに戻ったかのようにワンワン泣いてしまった。
「‥無理かもしれんが」泣きながらマールが言った。
「ワシたちの事を忘れないでくれ」
「何を言ってるんですか!忘れるわけないですよ!」私たちはしっかりと握手をした。名残惜しかったが、泣き止まない息子を抱き抱え、出口と言われたほら穴の中を暗闇の方へ歩き出した。背中からマールたちのすすり泣く声とさよならの声が聞こえる。
「こんなに素晴らしい世界があって、素晴らしい人たちが暮らしている。忘れることなど出来るものか。」
この池が埋め立てられるかもしれない、とはマールたちには言えなかった。言わずに何とか父と話をして、埋め立てを止めさせようと思っていた。
そのために出来ることなら何でもやろう。
私の古里の大切な思い出をなくしてしまわないように。
道を進んでいくと、やがてマールたちの声も聞こえなくなった。
そのうち天井が低くなり、泣きつかれて眠ってしまった息子を背中におぶって進んだ。
やがて光が見えてきた。あの光の向こうに行けば元の世界に戻ることが出来るとマールが言っていた。
私はその光の向こう側へ足を踏み入れた。
‥ここは‥池の側だ。祠がすぐ目の前にある。‥そうだ、息子を連れて池を見に来た。
いつの間に柵を越えたんだろう。それに服も濡れている。ふいに息子の重さを背中に感じた。息子を背負ってここまで来たらしい。
が‥その記憶か全くない。
息子もわざわざ池に連れてきたのに寝てしまうなんて。
だか、息子も服が濡れている。息子が池に落ちてそれを救出でもしたのだろうか??
なぜ記憶がないのか、気にはなるが、とにかくこのままでは2人とも風邪を引いてしまう。
とりあえず早く家に戻らないと。
「‥何か目が開きにくい。」
柵を超えた辺りで息子が目を覚ました。
背中から息子を下ろすと、息子の目は泣いたあとのように腫れて、そのせいか目やにがたくさんついていた。
「目を軽くこすってごらん。そしたら開くよ。どうしたんだろうな。怖い夢でも見たのかな。」
息子が目をこすっている間に、柵の前から池を眺めた。
あれ?気付くと涙がこぼれた。
そして自分も泣いたように目が濡れていることに気付いた。
「怖い夢じゃなかったよ。すごく楽しかった!」
息子はキラキラした目で見つめながら言った。
「じゃあ楽しすぎて泣いたのかもしれないな。」
まだ太陽は高く、記憶を無くしていたのはそんなに長い時間ではなかったようだ。
「じゃあ帰ろうか。」
息子の手を引いて山道を家に帰る途中、携帯電話を見ると電源が切れていた。
しまった。
仕事の電話がかかってきたかもしれない。私の携帯電話に繋がらない時は、家にかかることになっている。妻が電話に出ていたとしたら、きっと不機嫌になっているだろう。
その場合は予定を早めて帰らないといけないな。
きっと息子はまだここに居たいと言うだろうが、仕方がない。
まあ、家を引き払う前に、父と母の元に連れてこれただけで良かった。
ふと、後ろの池を振り返った。
そういえば池は埋め立てるって言ってたな。
手伝うことは出来ないが、その費用くらいは工面しよう。その前に妻に相談する必要はあるが。
誰も管理する人がいなくなるのだから、せめて池を作った家族の責任として処分してしまわないと。
明日からまた仕事が忙しくなるな。息子には悪いがやはり明日、帰ることにしようと私は心の中で思った。
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