雨がやんだら

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 八畳1DKの安アパートは、一人暮らしなら十分な広さだ。  しかし、並んだハンガーラックが二面の壁を潰し、人の身長はある大きな鏡がこれみよがしに自己主張しているため狭っ苦しく感じられた。  アパレルショップの裏部屋(バックヤード)が、ちょうどこんな乱雑さであろう。  部屋の住人である夏尹(かい)は、窓縁にもたれ掛かって座り、カーテンの隙間から空を窺う。  真昼だというのに暗く、無精髭も相まって顔が黒く(かげ)って見えた。  そんな彼へ、ローテーブルを挟んで玄関側に座る真希(まき)が一瞥をくれる。  そう、整理整頓も半端な部屋は、二人だとさらに狭い。 「雨がやんだら出ていく」 「そっか」  夏尹の働くレストランも、真希のブティックも今日は休みだ。  揃って用事が無いなら二人で街をぶらつき、明日からの英気を養う――気にはなれない。  そんな前向きな元気さは、付き合って五年もすれば擦り切れた。  それに加えて、天気も悪い。  鈍い空を鉛色と言い出したのは誰なのか。カラフルな絵の具を適当に混ぜ合わせれば、きっと鉛になるのだろう。  真希の声色も金属さながらに硬く、重い。 「夕飯はどうする?」  彼の問い掛けに、真希の片眉が上がる。 「外で食べる。出ていくから」 「やむかな?」 「三日も降り続けてるんだもん。もうそろそろやむでしょ」  彼女が準備をしたのも三日前。  大きなボストンバッグに、必要な私物は詰めた。大きな物はあとで取りにくればいい。  どこへ行くつもりなのか、他所に部屋を借りたのか――夏尹は一切を聞かず、三日が過ぎた。  引き止めようともしないことに、真希は苛立ちを覚える。  そんな素振りは表に出さないし、引き止められたいわけでもないが、腹立たしい気持ちが心から(こぼ)れた。  不愉快に思う原因を、彼女は知っている。  元々(くすぶ)っていた火種なのだから、三日も考えれば答えに辿り着けた。  二十をとっくに超していながら、何も変わらない日常。  十代最後の夏、俳優になるんだと語っていた夏尹は、今も同じ夢を追っていた。  劇団に所属しつつ、映画のオーディションへ参加し、生活費はバイトで稼ぐ。  この五年で最も変わらなかったのは、夏尹だ。  何度落ちても次のオーディションを目指し、劇団の台本を片手に毎夜練習に励む。  チケットを捌くのも大変な、ロクに出演料も出ない公演に、どれほどの時間を費やしたことか。  真希がアドバイスと称して苦言を呈するようになったのは、この一年のことである。  自己アピール用の動画をアップロードしてはどうだろう、とか。  ストリートパフォーマンスみたいな人目を引く活動に挑戦しては、とか。  正攻法で進みたいと(こだわ)る彼に、真希の言葉は響かなかった。  演技を磨きたいという理想は分かる。  だが、彼女には変化が欲しかった。  意固地すぎる、不器用すぎると不満を告げるうちは夏尹も苦笑いしていたものの、時間の浪費だと責められると気色ばむ。  挑戦は無駄じゃない――それは彼女も否定しないのだけど。  何度目か分からない真希の深い溜め息、そこに合わせたみたいに、彼の胸元が鳴動した。  どこまでも緩慢だった夏尹が、機敏に姿勢を整えてスマホを取り出す。  画面をタップする彼の俯いた顔を、些細な変化も見逃さないように彼女は目を凝らした。  彼が口を開くまで、真希の息が詰まる。 「……通った」 「ま……えっ、やったじゃん」  祝いを口に仕掛けて、真希はまたすぐ黙った。  朗報にしては、夏尹の表情が冴えない。  彼女が膝立ちで窓辺へ近寄り、スマホを覗こうとしたところ、顔を上げた彼と目が合う。 「モブ……よりは上かな。セリフがある」 「どれくらい?」 「たぶん、二言ほど。本当は、そのモブの相手をする役を受けたんだけどな」  端役なら、既に何度か経験がある。  三度、いや四度だったか。  これで五度目となる微妙な結果が、どれくらい喜ばしいことなのか真希では判断がつかなかった。  眉を(ひそ)めていた夏尹が、薄く笑みを浮かべてスマホの電源を落とす。 「ま、とりあえずセリフの練習だ」 「そう……」  指の間から(したた)ってしまいそうな、ごく小さな喜び。  これを変化と言うのは厳しい。 「やっぱり、雨が上がったら出てく」 「そっか」 「傘が欲しい。また降るかもしれないし」 「青い傘、持ってたろ?」 「店で盗られたんだ。新しく買おうと思う」  (おもむろ)に立ち上がった彼は、財布をポケットへ突っ込み、黒いキャップを被った。 「買いに行こう。晩飯も仕入れたいし」 「ん」  安い傘なら、近所の商店街でも買える。  ラフなTシャツ姿でも、誰も気にしないだろう。  アパートを出て、二人は連れ立って歩く。  水道管工事が積み重なり、継ぎ接ぎだらけになったアスファルトの道。  今朝方までの雨で、あちこちに水溜まりが出来ていた。街に落ちる雨粒は、とうに降りやんでいたんだけども。  道の端に寄った真希へ、夏尹が右手を差し出す。  一拍ためらった彼女は、何か言いかけたのを諦め、結局その手を握り返した。 「やんだら出ていくから」 「そうだな。もうすぐやむさ」 「……どうだか」  曇天の下、彼女の顔も薄暗い。  晴れたら笑えるだろうに、と、視線は前方の水溜まりへと落ちる。  梅雨の真っ只中、蒸し暑さばかりが彼女を包んだ。
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