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明治45年ーー
「すまない、なつ」
「謝らないでください旦那様。恩返しのつもりで2人のお子さまを立派に育ててみせます」
田之上子爵さまは、流行り病に罹り、余命幾何もなかった。
お亡くなりになる一月前、僕は旦那さまとある契約を交わした。
「ほら、あれが噂の」
「どうせ財産目的じゃないの?」
旦那様の葬儀の席上、ある程度覚悟はしていたつもりだったけれど………四面楚歌、針の筵とはまさにこのことをいうのだろう。
ぎゅっ、と唇を噛み締め、ただ耐えるしかなかった。
「言いたいことがあるなら、ハッキリと言ったらどうだ?卑怯もの」
どかどかと足音を響かせ入っていたのは幼馴染みの浩介。
「ちょっと浩介」小声で服を引っ張った。
相手は親戚筋とはいえ格上の家柄の奥様方。お願いだからいまは耐えて。
「礼儀というものを知らないのかしら」
「本当。お下品ね」
オホホと卑下しながら嘲り笑われた。
「その若造の言う通りだ」
浩介の背後からもう一人、今度はすらりと長身のやせ形の男性が入ってきて、ご婦人方を一喝した。
注文服の上品な背広に身を包み、日本人離れした華やかな顔立ちのその男性はとてもよく目立っていた。
「これはこれは速水様」
ご婦人方の目の色が変わった。
媚を売るかのような猫なで声を出し、恭しく挨拶すると、蜘蛛の子を散らすようにあっという間にいなくなった。
「速水だ。田之上子爵には生前世話になった。困ったことがあればいつでも相談に乗る」
手を両手で掬いもたげられた。あかぎれだらけの、ろくに手入れをしていないがさがさの手を興味深く不思議そうに見られた。
「は、速水さま」
賎しい身分で本当は偽りの妻………正体がばれてしまう。
慌てて手を引っ込めようとしたら、手の甲に軽く口付けをされていた。
「おぃ何をしてる」
普段は大人しい浩介が大きな声を上げ、速水様の手首を鷲掴みにし強引に引き剥がした。
一歩も引かず睨み合う二人。
速水様は浩介の反応をむしろ楽しんでいるように見えた。
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