42人が本棚に入れています
本棚に追加
10
※
ヒナキと会った夜、連絡を恋しく思う程スマートフォンを手放せずにいた大ケ谷三月だが、反して渡された薬は飲めずにいた。ヒナキへ持つ印象から疑っているわけではない。けれど、得体のしれないものを口に入れるのにはどうしても抵抗があった。せめてどんなものでどんな効能があってなにに効くだとか、市販の薬の外箱くらいには情報が欲しかった。
しかし実際既にそんなものすらもう、必要もなくなっていた。
大ケ谷三月はヒナキが去った後、あの夜にまたも夢を見た。五度目の夢は暫しなにも映らず、いつもの〝底〟から見上げるだけの時間が長く続いた。ずっと、ずっと見上げていただけだったが、一時から黒い人影が何度も往来した。右へ、左と、時折その場で佇み、人影が行き来する。いや、大ケ谷三月がこれまで見て来た夢の内容からそれを人影であると判断していただけなのかもしれない。けれど、人だと思った。何故なのかは、わからないが。
夢を見たからにはヒナキへ連絡しなければならない。この続く夢について以来をしているのだから、これは口実でもなんでもなく、必要なことなのだと言い聞かせた。仕事が終わった後に連絡をしよう。浮つく心を隠しようもない程、気持ちが高鳴っていた。
上の空で進める仕事は内容が全く入っても来ず、販売員の職でよかったとも思えた。することは決まっていて間違えようもない。レジの作業でカード類の扱いはあるものの、直前には客の声や姿が五感を蘇らせるので難はなかった。
それ以外はぼんやりと過ぎた。同僚との話も、品出しも商品の手入れも。休憩時間には水分は摂ったが、食事はなにも入らなかった。疲労で入らなかったというわけでもなく、単に頭の中を占めるヒナキの存在があまりに大きかった。
思い出される表情や仕草、冷静過ぎて冷たい印象の言葉選び、取り繕うようなその後の言動。語尾が掠れる抑揚のない低い声、それで囁くのがたまらなく好みだった。
印象に反して真っ黒な髪の毛も、男性にしては手入れがされているのか綺麗な印象だった。猫毛とか、そういった類の。首元の頼りなさにはもう少し逞しさが欲しい気もしたが、それではバランスがおかしくなってしまうので、やはりあの姿だから良いのだと妙な納得をした。
ヒナキの声を聞くのが楽しみで仕方がない。既に登録済の電話番号が画面に表示されるだけでため息が出た。この数字がヒナキとの繋がりであり、ヒナキそのものでもあった。
夏の空が夕暮れに変わる頃、漸くの待ちわびた就業時間、足早に職場を後にして商業施設自体のバックヤードを抜けて外に出ると同時に大ケ谷三月のスマートフォンはヒナキへのコール音を鳴らした。
『はい』
四回目のコールで繋がりヒナキの声が聞こえた瞬間には高鳴りすぎた鼓動で喉が締まりあがった気分だった。
最初に会ったフードコートでのように咳き込んでしまいそうになるのを堪え、大ケ谷三月は五度目の夢を見たことと、その内容を報告した。ヒナキが言うように、思ったことや感じたことも、ほんの些細な感覚をも。
最中、ヒナキの背後ではなにかを調理している音も聞こえた。もしもそれがヒナキがしているのだとしたら。印象と違いすぎて株が合がるばかりだ。
報告を終える前、その調理音が止まり、恐らくコンロの火を止めたのであろう。ちりちりと僅かに食材が鳴る音だけがしていた。
『薬は飲まなかったんだな』
咎められる風はないが、どこか後ろめたい。口ごもる大ケ谷三月に『それならそれでも構わない』と続けた上で更に言葉を繋げた。
『飲まなくても構わない。でも調べている間の時間は確かに掛かる、すぐにあんたがその夢から解放されるわけじゃない。見ない方が良いものをずっと見続けるよりは自然に身を休めた方が良い』
「……そうですよね、そうですよね」
この遠回しな言い方がたまらなく好みで、どうしようもない。自身を案じるかのような言葉の数々に大ケ谷三月は酔いしれた。今、弱々しく返事をしている自分にすら。
ヒナキは再度『なにかあればすぐに連絡をするように』と告げ通話が切れた。こんなにも名残惜しく画面を見つめるのは何年振りであろう。画面から数字が消えても尚、そこにはヒナキの声がまだ残っているようで、こんな無機質な機械が何故か温かい。
最初のコメントを投稿しよう!