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五度目の夢を見た日、ヒナキに連絡を終え帰宅した大ケ谷三月は意を決して渡された薬を口にした。水で飲み下した感触も市販の薬となにも変わらず、市販のものには時折ある舌に残る苦味もなかった。見た目と手元に来た経緯から受けた印象は全て覆り、警戒は完全に溶けた。
そしてその日、大ケ谷三月は夢を見なかった。薬を飲み、少々はぐだぐだした後、気が付けばスマートフォンのアラームで目が覚めた。この、日常では当たり前であったはずの感覚は久し振りで、目覚めた大ケ谷三月には衝撃的でもあった。本当に夢を見ない、見なかった。
良かった、これでもう夢を見ることもなくなるのかもしれない。このままヒナキに従い、この現象を解決してもらえるのかもしれない。
この日は夢に悩まされることもなく仕事も滞りないはず。けれどどうにも体調がおかしい。重く怠い体に変化はない。夢を見ないだけで十分であるはずが、見ない為に体の不調に気が向いてしまった。
きっとこれまでの夢から起こったものがこの体調不良なのだろう。それ以外には考えられなかった。薬にも確かな効果があった。ならば一層、ヒナキの活躍に期待せざるを得ない。全てを任せて、願うばかりだった。
その日の夜もまた、ヒナキから受け取った薬を飲んで眠った。これまでの「夢を見てしまうのではないか」という不安が未だ身に染みていて寝付くまでには時間がかかるものの、それでも「夢を見ない薬を飲んだ」という確かな安心もあって眠ること自体に恐怖はわかなかった。
が、翌日。夢は見なかった、確かに、その一片すらも見なかった。だが、目覚めた瞬間に異様に体が疲れていた。重く怠い感覚も、それまで以上となり枕から頭を擡げる仕草だけでも眩暈がした。酷い頭痛もする、これは、おかしい。
症状だけで言えば風邪にしか思えない。けれど大ケ谷三月にはあの夢という事情がある。判断がつかない。それでもはっきりとするべきなのは、この状態で仕事に出てはいけないということだった。朦朧とする思考のままで職場に出て、そこで犯すミスは自分だけの問題ではない。本当に風邪だとしても、この状況で同僚に、客に、他店の人間にすら移すわけにもいかない。
不鮮明な思考の中、大ケ谷三月は店長とこの時間店にいる同僚へと連絡をした。あまりに酷いようならきちんと病院へ向かうようにと促され、状況から判断し凡その完治までの間三日を休むように伝えられた。理解のある職場でよかった、だからこそ就職も決めたが、こうして事ある事にありがたみが増した。
それが大ケ谷三月を「現実」へと引き戻す種となり、自身が「非現実的ななにか」によって悩まされていたことを、この時ばかり忘れてしまっていた。それは朦朧とする思考の所為でも、始めたばかりの習慣で身に沁みついていない所為でもあった。
大ケ谷三月は自宅に常備してある風邪薬と鎮痛剤を飲み、またベッドに横たわった。そして薬の効果によって、眠ってしまった。ヒナキから渡された薬を飲むことなく、眠ってしまった。
目が覚めたのは、夏の空が既に藍色を帯びている頃だった。
そして、同時にあの不快感が大ケ谷三月を襲った。また、夢を見てしまったのだ。
六度目の夢は、これまでよりも小さな人影が在った。大ケ谷三月はいつものように、どこかの“底”でその光景を見上げていた。陽炎の中から覗くようなその光景の状況に変化はなかったが、これまでと違ったのはその人影があまりに小柄であったことだった。そして、見るからにその姿は衣服を纏わぬ肌の色のみだった。そしてそれはこれまで通り、大ケ谷三月はその人影に手を伸ばした。そうして、人影はやはり、“落ちて来た”。
けれど恐ろしかったのは夢を見たことでも、薬を飲み忘れたことに気が付いたことでもなかった。知った顔だった。“落ちて来た”のは見知った顔で、それが小さな子供であった所為だった。
よく知っている、何度も何度も顔を合わせた。それは、大ケ谷三月が住むアパートの隣、もう一つのアパートに住む少年の姿であった。
夢を見た、薬を飲むのを失念していた、見知った顔が奇妙な夢の中に出た。加えて体も酷く重く、怠い。魘されていなかったのが不思議な程、最悪なことばかりが重なっていた。けれど、それだけにも収まらなかった。
薄暗さを帯びた室内は、眠っていた所為もあるがまだ照明に頼る程でもなかった。その室内に、時折光が移動する感覚に気が付いた。家の中を動いているようには感じない、なによりそんな色の照明を、大ケ谷三月は家に設置した覚えがない。光は窓から入っては壁で途切れて消える。理解した時、言い表しようのない感覚に包まれた。生温くねばつくそれは、茹だる真夏の夜よりもずっと嫌な感覚だった。
大ケ谷三月は重く怠い体を両腕で支えてゆっくりと、ベッドから起き上がった。フローリングに置く足が一瞬だけ冷えて、すぐに体温に変わった。部屋を過ぎ、キッチンを過ぎ、玄関へと、ゆっくり歩んだ。重い扉を押し開けると入り込む空気は少しだけ澄んでいて、暑さに反して取り込む肺は心地よい。
ほんの数段の階段を下りて、小さな踊り場に出ると大きな窓が取り付けられている。覗き込むと視界いっぱいの赤だった。赤い車体に赤色灯、コンクリートの壁に防がれた音はそこまで耳には届かないものの、数人の野次馬の冷静な佇まいとは裏腹な声が、どこからか鼓膜を揺らしていた。
その発生源を見つけて、大ケ谷三月は自身の体がやけに冷えていくのがわかった。
大ケ谷三月が住むアパートに並んで隣のアパートの前で、“母親”がなにかを叫んでいるのであろう形相で男性に肩を押さえられている。大ケ谷三月には彼女に見覚えがあった。彼女が“母親”であることも知っている。彼女の子供が、先程自分の夢に、出て来たのだから。
消防士なのか、救急隊員なのか、数名が密集している場所には、恐らくその子供がいるのであろう。状況の全ては把握出来ないものの、彼等が地面に膝をついている様子からそこには担架が置かれているのかもしれない。なんらかの動作をしているが、それがなんであるのか、彼らの背に守られたその先を覗くことは不可能だった。
夏の所為でもない、脳が揺れるような感覚に襲われ壁を這うように部屋へと戻った。ほんの数段の階段も、いまやこの体には足を持ち上げるだけの力もない。やっとの思いで開いた扉もやけに重い。
部屋に入るなり、座り込んでしまった。冷たい扉に預けた背中も三和土に置いた足も気にならない程に頭が熱い。大ケ谷三月の中で結びついていく度、吐き出せそうな程心臓が強く鳴った。
自分が殺したのかもしれない、そう頭に浮かぶ度に溢れた涙が肌に落ちて跡もなく消えた。
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