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早朝五時半、依頼人の大ケ谷三月に連絡をして待ち合わせた場所は双方の中間地点にある駅だった。現れた大ケ谷三月は初日に会った時のような特有のきらきらとした雰囲気も微塵と感じさせない程に憔悴しきっていた。マチに連絡した時間から一睡もせずにいたのだろう、きっとそれだけでもないのだろうが目元がどんよりと重い。
乗り込む前の待ち時間でマチが状況を説明したが、彼女の耳には届いているのか、理解出来ているのかも危うかった。ぼんやりと床に下ろされた視線はどこにも焦点が合わない。ほんの時折の相槌も、どこか空に漂い、流れていった。到着したJRに乗り込む際も虚ろにマチについて歩く彼女は自身の荷物も持ち忘れており、あまりに目が離せない状態でカケルは二人の後ろを歩いた。マチが導き、カケルが支えて歩く、そんな状態であった。
乗り込み、マチはすぐさま窓際の席に座ったが、その隣には大ケ谷三月を座らせ、後ろの席にカケルを座らせた。そして出発間際、ざわつく車内を利用してか、マチは大ケ谷三月に薬を飲むように促した。けれど眠るのがなにより恐ろしいものとなった彼女は首を縦に振らない。
「俺がいる限りどんなことでも対処してやるから、寝ろ」
マチのその一言で涙ぐんだ大ケ谷三月は、僅かにすすり泣きながらも薬を口にし、売店で購入したお茶で飲み下した。そうして暫し悲し気にしていた彼女も発車してから十分は経たない頃には眠りにつき、一行は静かに祖母宅のある土地へと向かった。
車体がゆっくりと停車の速度に入った頃に大ケ谷三月を起こすと自身が眠っていたことにも、やはり夢を見なかったことにも驚いていた様子だった。マチを介して覗く窓の外の景色を見てもう目的地についていることを察すると身だしなみを整える仕草をしたのを見て、カケルは少しだけ安心した。眠ったおかげで心が整ったのか、マチの頼もしさにか、表情は出発時より随分と活気があった。
「祖母の家に直接行くんですか?」
JRを降りた彼女は、やはり出発時の説明が耳に入っていなかったようでそう尋ねたが、マチはそれをわかった上でいたのだろう、苛つく素振りは見せなかった。
「今日、このまま原因を取り除く。その後は祖母の家に泊まるなり自由にして家に帰ってくれ」
「……それだけなんですか?」
「それだけで終わらせる」
この時ばかりはマチの簡潔に話す癖も良い印象を与えたようだ。大ケ谷三月は何故だかほっとした様子で、少しばかり微笑んだ。
「この池までは遠いのか」言って、マチは事前にカケルが調べておいた地図をスマートフォンの画面に表示して大ケ谷三月に確認させた。一瞬は困惑したが、なにか彼女の中での目印を地図上に確認出来たのであろう。数秒経って「ああ、ここなら」と理解したようだった。
一行が目指す場所は大ケ谷三月の祖母宅から更に奥へと進んだ山の中だった。無地にうねる一本だけの線と、なんともシンプルな地図が表示されていて不安が募るが、大ケ谷三月によると確かに祖母の家から続く道があるのだそうだ。そこから目的の山の中へ続く道があるのかは、彼女の記憶にもないようだったが。
時刻は早朝七時前、大ケ谷三月の先導で一行はまずタクシーに乗った。小さな田舎町とは言ってもだからこそ移動には車が必要になる。勿論目的地までは直行出来ないものの、最も近場で降りられる場所に停車してもらうこととなった。
時間にして凡そ十分程度、数分前には車体の揺れと音が変わり舗装の道が途切れたことがわかった。
視界の殆どが緑ばかりの場所で、タクシーが停車した。左手には平地の緑と右手には聳える緑、そこから山の中へと延びる道は車一台分の広さに土が覗き緑がそげただけのものだった。これからその道を登る、お情け程度にどこかへ続く電柱だけが、この場の人工物だった。
後部座席の大ケ谷三月が降り、続いてカケルが降りる間際、この真夏の炎天下、ましてこれから更に暑さの増す時間に大自然の中へ向かうことに相当の覚悟がいったのか、支払いを終えたマチは大きく息を吐いて声まで漏らした。マチの大嫌いな夏に暑さ、そして大自然に恐らく、虫。仕事が終わった後は荒れてしまいそうだ、カケルはマチのご機嫌リストを頭に思い浮かべながらスマートフォンに地図を表示させていた。
「この向こう側が祖母の家なんです」
平地の緑の先をさして、大ケ谷三月は晴れ晴れしく言った。この土地の緑が癒したのか、あれほど憔悴していた彼女の表情も明るい。反してマチは、ドブに浸かったよりも酷い顔をして既に暑さに負けていた。
舗装されていない道を歩むのはそれだけでも何故か疲労が溜まる。それに加えて登り道で、朝とは言え気温は上がるばかり。早々に根を上げたのはやはりマチで、それは森の中へ入るずっと前のことだった。そうなれば、そこからのマチは完全に無言で、不安から会話が増える大ケ谷三月の相手はカケルになった。先頭にマチ、次に大ケ谷三月、少し後ろにカケルが進み、苦手な女性との会話も顔を合わせなければなんとか形にはなったが、カケルにとってはこれが一番の疲労感でもあった。
登り道を二十五分程行き、一度マチが立ち止まったかと思えばそこからは森の中の道なき道を進んだ。有難いことに草木の密集はなく、かき分ける程のものではなかったが、最も小柄なマチにはそれさえも少々困難な様子だった。
途中、歩きにくそうにしていた大ケ谷三月の荷物はカケルが請け負い、一行は更に二十分程、森の中を進んだ。そうして現れた池に、声を上げたのは大ケ谷三月だった。
「凄い、映画みたい……」
吹き抜ける風さえ、肌に触れる感触が違って思えた。歩み進み、大ケ谷三月の心は打ち震えた。
森の中、突如開けた空間に現れた小ぶりな池は、その頭上に遮るものがない為照る陽が全て池の中へと降り注いでいた。まるで光を吸い込む白い穴にさえ見える、ほんの僅か程度に揺れる水面は常に光を反射し近付かねば中が窺えない程だった。そうして覗き込んだ水中も、濁りなく澄んだ先に重なる朽木や石に土気は感じられない。
池を囲む木々も、苔の繁る岩肌も、朽木の合間を抜けて伸びる名も知らぬ花の儚さ、草木を揺さぶる風のにおいにも、全てに現実味を感じられない。だからこそ大ケ谷三月の目にも、作られた映像の一部が記憶に浮かぶ程だった。
「ここで間違いなさそう?」
開けた空間に出て、そのまま佇むマチの様子がただの疲労とは思えず、カケルは傍らに寄り耳打ちをした。そうして暫し、マチは大ケ谷三月の後ろ姿を眺めていた。彼女はひとつの躊躇いを見せず、池へと歩んで行く。
「ああ、間違いない」
その目にはなにが確認出来ているのか、カケルには見えるものはないがマチにはなにかが見えていたに違いないだろう。そして数日前と同じく、マチは一拍、澄んだ空気を揺らすような音を手のひらを打ち付けて鳴らした。
強く甲高い音が、波を打つように木々の合間を抜けて散った。音に驚いて振り返った大ケ谷三月の姿が一瞬陽炎のように揺れたのを、カケルは見逃さなかった。「間違いないな」そう言って、マチは池へと歩んだ。
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